井上ひさし

父と暮らせば

2007.08.28
井上ひさし

井上ひさしHisashi Inoue

作家・劇作家。1934年山形県東置賜郡川西町(旧小松町)生まれ。上智大学外国語学部フランス語科卒業。在学中から、東京・浅草のストリップ劇場「フランス座」の文芸部兼進行係となり、台本を書き始める。放送作家として64年からNHKの連続人形劇『ひょっこりひょうたん島』の台本を共同執筆。現代的センスによる笑いと風刺で多くの人々に愛された。69年、劇団テアトル・エコーに書き下ろした『日本人のへそ』で演劇界にデビュー。72年、江戸戯作者群像を軽妙なタッチで描いた『手鎖心中』で直木賞を受賞。同年、『道元の冒険』で岸田國士戯曲賞および芸術選奨新人賞受賞。戯曲『しみじみ日本・乃木大将』『小林一茶』で紀伊國屋演劇賞と読売文学賞(戯曲部門)を受賞。84年に自身の作品を上演する「こまつ座」を旗揚げし、『頭痛肩こり樋口一葉』『きらめく星座』『闇に咲く花』『雪やこんこん』『人間合格』『黙阿彌オペラ』『連鎖街のひとびと』『兄おとうと』ほか、多くの戯曲を書き下ろして上演。戯曲、小説、エッセイなど勢力的かつ多才な活動を展開した。87年には、蔵書を生まれ故郷の川西町に寄贈し、図書館「遅筆堂文庫」を開館。戯曲 『父と暮せば』 が英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、中国語など6カ国語に訳されている他、『化粧』『藪原検校』『ブンとフン』など小説も含め多くの作品が翻訳され、海外公演でも高い評価を得ている。2010年4月9日没。

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父と暮らせば 井上ひさし
時は、昭和23(1948)年7月の最終火曜日から、金曜日までの4日間。
場所は、広島市、比治山の東側、福吉美津江の家。バラックに毛が生えた程度の簡易住宅。
この舞台のセリフは、始終広島弁でやりとりされる。
父と暮らせば

こまつ座第73回公演『父と暮らせば』
(2004年)
出演:辻萬長、西尾まり
撮影:谷古宇正彦

Data :
[初演年]1994年
[上演時間]1時間50分
[幕・場面数]一幕四場
[キャスト数]2人(男1・女1)

 火曜日の午後5時半。雷に怯えた美津江が、家へ駆け込んでくる。3年前にピカ(原爆)にあってから、美津江は雷が恐くてたまらない。美津江を迎えた父の竹造は、美津江が勤め先の図書館で利用者の木下青年からもらった饅頭が潰れなかったか心配する。木下は大学の物理教室の助手で、個人的に原爆の資料を集めている。この饅頭は美津江の木下への恋心のシンボルである。自分はその恋を応援するために現れたのだという竹造に、美津江は人を好きになることを、自分で自分に禁じているのだと語る。次第に分かってくるが、竹造は原爆で死んだ父の亡霊である。

 翌水曜日の午後8時すぎ。美津江が図書館で子どもたちに語って聞かせる「おはなし会」の練習をしている。傍らで聞いていた竹造は、今の子どもにはそのままの昔話は受けないだろう、結末を変えてしまえばいいのにと言う。昔話に手を加えない事を信条としている美津江は、昼休みに、原爆の悲惨さを子どもたちに伝えるために昔話を活用できないかと相談してきた木下と言い争いをしたばかりだった。そんな木下は、高熱のために表面が棘のようにびっしり泡だった原爆瓦や奇妙な形に溶けてねじれた水薬瓶など、あまりに多くの原爆資料を集め過ぎて下宿を追い出されかけていた。竹造は、試しに、誰でも知っている「一寸法師」や「桃太郎」のお話に原爆のことを読み込んで語ってみるが、それは広島の人間にとっては聞くに堪えない惨いお話となってしまうのだった。

 翌木曜日正午すぎ。雨でおはなし会はお流れになる。昼休みに木下と会う約束をすっぽかし早退してきた美津江。自宅で原爆資料を預かるつもりで美津江が書きかけた手紙を竹造は見つけていたが、それとは裏腹にもう木下には会えないという美津江。木下を好いてはいけない理由は原爆病があるからかと問う父に、その時は命がけで看病してくれるし、子どもに遺伝が出たときも天命だと思って一生懸命育てようといってもらっていると答える美津江。でも、自分より幸せになっていい人たちがあの原爆でたくさん亡くなっているのに、その人たちを押しのけて自分が幸せになるわけにはいかない、あのときの広島では、死んでしまうのが自然で、生き残ったのは不自然なのだ、だから生きているのが申し訳ない、と語る。

 翌金曜日の午後6時。自宅に原爆資料を預かることになり木下が資料運びに往復している。資料の中にある顔面の溶けた地蔵の首を見て悲鳴に近い声を挙げる美津江。木下をもてなすつもりが、再び地蔵の首を見た美津江は気持ちをひるがえし、このまま木下に会わずに出かけようと荷物をまとめはじめる。その様子を怪訝に思う竹造に、自分が本当に申し訳ないと思うのは父に対してなのだと美津江は言う。3年前、美津江と竹造は、家の庭先で同時に被爆した。倒壊した家に挟まれ歪んだ地蔵のように顔面に火傷を負った父を、美津江はなんとか助け出そうとしたがどうにもできない。やがて火の手が伸び、父に逃げろと言われて押し問答する美津江に、最後の親孝行だと思って逃げてくれと竹造。だからお互いの生死は納得ずくのことだった、と諭す父に、父を見捨てて逃げるような人間が幸せになってはいけないと美津江。竹造は言う。「おまいはわしによって生かされとる」「あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ」。それが分からないような馬鹿な娘なら、ほかの誰かを代わりに出してくれ、わしの孫、ひ孫を‥‥。これを聞いた美津江は、ゆっくりと台所へ向かい、木下を迎える準備を始める。今度こそ自分の幸せにきちんと向き合い、生きていくことを決めたに違いない。今度いつきてくれるのかと問う美津江に、お前次第じゃと答える竹造。久しぶりの笑顔で、「しばらく会えんかもしれんね」と美津江は言うのだった

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