
酒井はな
進化系バレエダンサーが広げるダンスと演劇の可能性
ⓒ 宇壽山貴久子

ⓒ 宇壽山貴久子
酒井はなHana Sakai
アメリカのシアトルに生まれ、神奈川県鎌倉市で育つ。1979年にバレエを始め、畑佐俊明に師事。橘バレエ学校を経て牧阿佐美バレヱ団に入団し、14歳でキューピッド役に抜擢。18歳で主役デビュー。1997年、新国立劇場バレエ設立と同時にソリストとして契約し、杮落とし公演『眠れる森の美女』にて森下洋子、吉田都と競演。以後多くの主役を務める。2004年に新国立劇場バレエ団の登録ダンサー=オノラブル・ダンサーに。2007年に劇団四季『コンタクト』、2009年に同『アンデルセン』にゲスト出演。2013年、ユニットAltneu〈アルトノイ〉として島地保武との共同創作を本格的に始動。2000年に服部智恵子賞、2008年に舞踊批評家協会賞、2009年に芸術選奨文部科学大臣賞、2015年にニムラ舞踊賞、2018年に橘秋子賞特別賞、2021年に東京新聞舞踊芸術賞など受賞多数。2017年に紫綬褒章を受章。洗足学園音楽大学バレエコース客員教授。2020年Dance Base Yokohama(DaBY)設立時よりDaBYゲストアーティスト、2025年4月より愛知県芸術劇場ダンスアーティスト。
スター性と表現力を兼ね備えた日本を代表するプリマ・バレリーナ、酒井はな。確かなクラシック・バレエの技術と実績で新国立劇場バレエの草創期を牽引し、ミュージカルにも出演。コンテンポラリー・ダンスへの挑戦ではユニットを組んで自ら創作に深く関わる姿勢を継続し、近年は演劇界の岡田利規とのコラボで、クラシック・バレエを客観的かつプリマの視点でコミカルに解剖。バレエと演劇のユニークな融合作品を生み出し注目を集めている。
バレエダンサーに立ちふさがる年齢の壁を軽やかに超え、自身とダンスの可能性を朗らかに拡張してゆくレジェンドのパワーに迫る。
取材・文/高橋彩子
- バレエを始めたのは5歳から。もともとお母様がお好きだったそうですね。
- そうなんです。高校時代にロンドンに住んでいた母は英国ロイヤル・バレエ団の舞台などをよく観ていて、娘ができたらバレエを習わせたかったようです。家の近くのお教室に連れて行かれ、その場でレオタードを借りて踊らせてもらったところ、ハマってしまいまして(笑)。もともと公園でフラメンコの練習をしている方の真似をして一緒に踊っているような子どもだったので、踊るのが好きだったのでしょうね。6歳か7歳のときには、実家の隣駅の藤沢市民会館に、松山バレエ団(*1) の公演を観に行きました。プリマバレリーナの森下洋子(*2)さんが『コッペリア』と『ジゼル』を全幕で踊られたのですが、特に『ジゼル』を観て夢中になり「バレリーナになりたい!」と強く思ったのが、プロを意識した最初です。
- その後、牧阿佐美バレヱ団(*3)の総監督である牧阿佐美(*4)さんが校長を務めていた橘バレエ学校に移り、その中でプロを目指す精鋭だけが選ばれるA.M.ステューデンツに入られます。A.M.ステューデンツは牧さんが直接指導をするクラスでしたが、どんな先生でしたか。
- 子ども相手でも、非常に厳しい方でしたね。でもとても優しく、私は自由にやらせていただいた記憶の方が大きいです。14歳の私にバレエ団の『ドン・キホーテ』のキューピッド役をくださるなど、今考えても大変な冒険で、期待をかけてキャスティングしてくださった先生の勇気に感謝しかありません。もともと緊張しがちなタイプなので、何が起きても大丈夫だと自分が思えるまで、できる限りの努力を尽くして踊りました。それはその後の土台になっています。
- 93年に牧阿佐美バレヱ団に入団し、97年、新たに開場する新国立劇場の契約ダンサーに。牧先生とはどういうお話をされたのでしょう。
- 牧先生から「はなはオーディションを受けるのよ」と、声をかけていただきました。国立の劇場ができるという素晴らしいタイミングで、あなたの年齢にもちょうどいいから、オーディションを受けるようにというお話でした。先生は当時から新国立劇場の舞踊部門に携わるお立場で、次に芸術監督になることが決まっていたんです。牧バレヱ団からは、私のほか、上野水香(*5)さん、小嶋直也(*6)さん、根岸正信(*7)さんが「辛かったり合わなかったりしたらいつでも戻っていらっしゃい」と言って送り出され、新国立劇場のオーディションを受けて契約しました。
- 新国立劇場開場記念公演『眠れる森の美女』では、錚々たるメンバーに交じって、日替わりで主役オーロラ姫の一人を務めました。
- 初代芸術監督(舞踊部門)の島田廣(*8)先生が「新しい劇場ではまずロシア・バレエを基本に」という方針で、この『眠れる森の美女』もその後に上演する『くるみ割り人形』も『白鳥の湖』も『ジゼル』も全てマリインスキー・バレエ(*9)のバージョンでした。そのためオーロラ姫役にはマリインスキー・バレエからディアナ・ヴィシニョーワ(*10)さんがゲスト出演され、日本人では年代キャリア別に森下洋子さん、吉田都(*11)さん、そして私が、日替わりでオーロラを踊りました。洋子先生は、パートナーの清水哲太郎先生と一緒にビデオカメラ持参で何度か稽古場へいらしたんです。通常、主役としてゲスト出演する場合はパ・ド・ドゥなどを自身のやり方・それぞれの手法で踊るため、周囲とのバランスが難しく、取ってつけたようになりがちなのですが、お二人はそうなりたくない、新国立劇場のカンパニーのみんなと関わって踊りたい、というご意向で、お二人が普段踊られている振付をメインにしながら、随所でマリインスキーのバージョンの振付を取り入れることをされました。マリインスキーの先生方も「ヨーコさん、ヨーコさん」と歓迎して動きを打ち合わせていました。そうした姿勢を見せていただいたのが印象に残っています。本番当日は、できたばかりのきれいな劇場で、ただ幸せな気持ちで踊りましたね。
でも、何と言っても幸せだったのは、マリインスキーの先生にみっちり指導していただいたこと。『眠れる森の美女』の稽古に入る前に、まず4か月間、準備としてワガノワ・メソッド(*12)のレッスンだけを受けたんです。まだ新国立劇場が使えなかったので、隣接するオペラシティのリハーサル室を借りて。
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新国立劇場バレエ『眠れる森の美女』開場記念公演(1997) ⓒ 瀬戸秀美
- みっちり学んでみたワガノワ・メソッドは、いかがでしたか。
- とてもアカデミックでした。上体の角度、首のライン、アームス(腕の動き)、指先……全てが計算された美しさで、そのシステムを習得できている人同士なら、全てのフォーメーションを的確に揃えることができる。ただし、バレエの型が究極的にしっかりと身体に入っていないとできません。股関節から脚を外旋させる「アンデオール」がバレエの基本ですが、日本人はそれを訓練してきているつもりでも、ロシアの人たちから見たら十分ではない。当時22、23歳だった私は「もっといけるでしょ」「もっともっとこういうふうに」と指導を受けました。私の場合、筋力はある方で、バレエ向きの身体ではないとはいえ本格的に内旋しているというほどではなかったから、努力でカバーする日々でした。厳しい稽古は思い出深い体験でしたね。
- 身体がアンデオールに向いていてすぐにできる人よりも、苦労して作っていった方が強いとも聞いたことがあります。
- すぐにアンデオール、バレエができてしまうとつまらなくなってしまうらしいのですが、私は向いてなかったせいもあって、たくさんアンデオールの訓練をしましたが、できるようになるのが楽しくて、つまらなくなることなんて無かったです。
身体的な条件も大事ですが、どう踊るのかも非常に大切で、私はどうやって表現ができるだろうか、こうやったらどうかな?と、日々身体を研究してきましたし、これからもそうし続けると思います。
- その後、牧監督時代にはイギリスのバレエもレパートリーに入りましたね。まずフレデリック・アシュトン(*13)振付『シンデレラ』、そして話題となったのがケネス・マクミラン(*14)振付『ロミオとジュリエット』と『マノン』です。
- 2001年の『ロミオとジュリエット』初演では、ジュリエットを2回踊りました。マクミランの振付作品に出演できるなんて、夢みたいでしたね。マキューシオの小嶋直也さんが本番直前に怪我で降板となり、急遽、熊川哲也(*15)さんがジャンプインしてくださることになったときは、みんなびっくりして。マキューシオといえば英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパルだった熊川さんの十八番ですから、すぐに踊ることができ、とてもカッコよくて、みんなの士気をさらに上げてくださいました。
そして、やはり思い出深いのが、2003年の『マノン』初演。マノン役は、元英国ロイヤル・バレエ団プリンシパルのアレッサンドラ・フェリ(*16)さんと元パリ・オペラ座バレエ団エトワールのクレールマリ・オスタ(*17)さんがゲストで踊られ、日本人で唯一キャスティングされた私にはすごくプレッシャーでした。
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新国立劇場バレエ『マノン』(2003)左はデ・グリュー役のドミニク・ウォルシュ。ⓒ 瀬戸秀美
- 複雑でアクロバティックなリフトを含む踊りの難しさや、ヒロインが堕落して高級娼婦となるその世界観などから、ハードルが高い作品と目されていたので、日本の団体が上演し日本人のダンサーがマノンを踊る日が来るというのは、日本のバレエ界にとって「事件」でした。
- 上演権を管理しているマクミラン夫人とお嬢様が、私のジュリエットを見て許可をくださったんですって。でも、これは本当に大変な挑戦になりました。とにかくできなくて、フランスからいらした先生からも怒られ、どんどん痩せていって。さらには、10時から17時までトウシューズを履きっぱなしで休むこともできない中、小指が痛いなと思っていたらどんどん腫れてきて膿んでしまい、我ながら、痛々しかったです(苦笑)。役作りにも、私を含む高級娼婦役はみんなして頭を抱えましたね。傾向として日本のダンサーはどうしてもマチュア(成熟)というより少女感が出てしまうことが多いので、本を読んだり映画を見たり、いろいろと勉強しましたが、なかなか難しかったです。
- 新国立劇場バレエ団は、国立でありながら給料制でないことや養成所がなかったことへの批判があり、開場当初は「バレエ団」と名乗らず「新国立劇場バレエ」と表記するなど、紆余曲折がありながら今に至ります。開場からの変遷をご覧になった酒井さんとして、今のバレエ団をどう感じていますか。
- 吉田都さんが芸術監督になられて、また大きな一歩を踏み出しているのではないかと思います。根気強くよりよいシステムの変化に取り組まれ、ダンサーたちがよりよき環境で働けるよう努めていらっしゃると思いますし、私たちの頃より舞台数も増えて、ダンサーのスキル向上にも尽力されています。やはり、繰り返し舞台があることは何よりの経験になるので。今のダンサーたちは背が高かったり脚が長くなっていたりとスタイルもいいので、表現力がもりもりついて個性がさらに出てくると一層面白くなるのではないでしょうか。
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ⓒ 宇壽山貴久子
- 2004年からは契約ダンサーではなくオノラブル(名誉)ダンサーとしての登録となり、劇団四季にも2007年の『コンタクト』、2009年の『アンデルセン』にゲスト出演。『コンタクト』で演じた「黄色いドレスの女」は、特別な女性という役柄にぴったりの輝きで、とても素敵でした。
- ありがとうございます。「すごく似合うから」と声をかけていただいてオーディションを受けに行くと、浅利慶太(*18)先生がニコニコしながら「新国のプリマ、何しに来た?」と迎えてくださって(笑)。「やってみたいかい?」と聞かれ、「はい!」と答えて出演が決まりました。せりふもある役だったため、浅利先生が考案されたメソッドにのっとって、きっちりとした発語を教わりました。バレエダンサーは普段、舞台でしゃべらないし、身体を絞っていることもあって声が出にくいのですが、声を出してみると細胞が目覚めるのかとても元気になって、目がぱっと開くようで、新鮮でした。喉も身体だから、そこを使うのはダンスにもいいのではないでしょうか。それ以来、踊るときもせりふを言うようにできたらと考えるようになりました。実際にはしゃべらないけれど、「こんにちは!」と言っているかのように登場するとかね。素晴らしいプレゼントをいただいたと思っています。
- 島地保武(*19)さんとのユニット、Altneu〈アルトノイ〉でも声を出すことがありますね。Altneuの舞台には、公私ともにパートナーのお二人だからこその関係性が、いい形で表れているように感じます。
- 私もそう思います。初めは大変でしたよ。私がバレエの感覚で振付を待っていると、もっと自分から提示することを求められるもので、駄々っ子のように「もうわからない!」と床に大の字になって抵抗したこともありました(笑)。でも、私はクラシックというベースがあり、島地には自身がフォーサイス・カンパニーで培ってきたスキルがあって、2人で学び合うことができるんです。これは一つの例ですが、彼がカンパニーでのクリエーションで、インプロヴィゼーションのシステムを作るための取りかかりとして、フォーサイスからアイマスクを渡され、1週間自宅で、目隠しをして部屋の物の配置を身体で覚え振付をつくるということをしたみたいです。そのような話を聞いたり、実際にクリエーションを見させてもらったりして大変刺激を受けました。
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Altneu [アルトノイ]『いいかえると』(2024)左は島地保武 ⓒ Pierre Grosbois
- いいアイデアですね。人によって間取りは違うし、でもある種の共通点はあるでしょうから。
- ダンスのインプロヴィゼーションって、やたらめったら動いているように見えるけれど、身体の動きにちゃんと動機があって的確にイメージしているのが、興味深くて。そういうカルチャーショックをたくさん受けます。一方で島地は、ザ・フォーサイス・カンパニーではオフバランス(*20)で踊ることが多かったので、オンの状態がわからないと言うんです。オフで体重が斜めになると、サポートするときにちゃんと圧が来るからわかる。ということは、力が要らないところがオンじゃない?と、私がトウで立ってお互いに体重を掛け合いながら踊ってみたりして。
これが、コンテンポラリーダンスだけでなく、クラシックにもすごく役立ちました。というのも、相手役に対して、体重を絶対にかけないようにするのではなく、むしろかけてあげた方が安定する場合もある。こういう経験によって、決まった形の中で自分の個性を出すという、針に糸を通すようなクラシックのテクニックが、より研がれていく感覚があります。ほかのバレリーナにも、変則的な動きを経験することはお勧めしたいです。Altneuは、おじいちゃんおばあちゃんになるまでやりたいライフワークですね。
- 酒井さんの近年の挑戦の一つに、岡田利規さんとのタッグがあります。その1作目、ダンスの今日的な継承と再構築に取り組んだ「ダンスの系譜学」というプロジェクトのひとつで愛知県芸術劇場で2021年に初演された『瀕死の白鳥』『瀕死の白鳥 その死の真相』では、酒井さんがまず古典どおりに踊ったあとに現代的な視座で白鳥の死を巡る真相を語り、2作目『ジゼルのあらすじ』(2024年、愛知県芸術劇場×Dance Base Yokohama「パフォーミングアーツ・セレクション2024」で初演)では、バレエ系YouTuberの酒井さんが自身のチャンネル「はなちゃんねる」で自らの体験を織り交ぜながら『ジゼル』を紹介していきます。どちらもユニークで赤裸々で、酒井さんの新たな魅力が引き出されています。
- まず岡田さんにバレエの説明をし、自分の失敗談などをたくさん話すのですが、そこから岡田さんが創られるテキストがすごいせりふ量で、『ジゼルのあらすじ』なんて、13枚もあるんです。岡田さんには「はなさんが話したことですよ」と言われましたけれども(笑)。俳優さんだったら私たちが振付を覚えるようにパッと覚えられるのでしょうが、俳優でない私は脳がショートしそうになりながら、必死で読み込んで覚えなければなりませんでした。
舞台上では、自分のようで自分ではなくて、ふわっとしています。『ジゼル』全幕の話をする際は、あるときはジゼル、またあるときにはヒラリオン、ミルタという各登場人物として存在していますし。でも、「一語一句間違えないように!」とせりふに固執すると、なぞるようになってしまうらしく、岡田さんに「せりふが飛んでしまっても、イメージさえあれば大丈夫」と言われるんです。なので、「間違えてもいいから」と、初演では岡田さん自身がプロンプとして舞台上にいてくださる形になりました。
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『ジゼルのあらすじ』(2024)左は岡田利規 ⓒ 羽鳥直志
- バレエダンサーやバレエの観客にとって普通のことも、岡田さんから見ると面白い。その視線が作品の根幹をなしています。創作プロセスにおいて、酒井さん自身も普段とは違う視点をバレエに対して持つきっかけとなったのではないですか。
- そのとおりです。『瀕死の白鳥』も『ジゼル』も、岡田さんと組むまで何の疑いもなく踊っていました。特に『ジゼル』は一途に愛を貫く女性像というところが、ある種、男性目線の作品でもあるんですよね。バレエって、古典だしおとぎ話だし、夢のような世界だけれども、やっている私たちは現実の人間であり、この時代を生きている。そういうことを、現代の社会と結びついた岡田さんの視点によって思い起こす機会をもらいました。『瀕死の白鳥 その死の真相』はアメリカで上演をしたのですが、観客の皆さん、大爆笑で大喝采。「どんなふうにコメディの練習をしたんだ」などと聞かれました(笑)。白鳥の死をプラスチックごみと結びつけて「プラスチックは土に還りません」と断言する場面があるので、環境問題への意識が高いサンフランシスコでは、「あなたはいいことを言っている」「小学校を回った方がいい」と言われ、アフタートークの質問も環境問題についてのものが多かったです。
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『瀕死の白鳥 その死の真相』(2021)左はチェロの四家卯大 ⓒ 羽鳥直志
- 『ジゼルのあらすじ』では、「振付家のジゼルのイメージは狭く、試したいことがあってもしばしば却下される、そのくせジゼルらしさを問うてもふわっとしている」といった意味合いのせりふがありました。決まり事の多い古典でも、踊る人間によって「こうやりたい」というものがあって、それが指導者と合わない、といったことは当然あるわけですよね。
- 古典に限らず、あります。作家や振付家の表現したいことを体現するのが私たちの仕事なので、自分が表現してみたいこととうまく折り合いをつけなくてはなりません。でも私は、こういうのはどうだろう、と提案できる人でありたいですね。振付に対して受け身でいないで、一緒に作ればいいと思うんです。自分の身体を使うのだから、これはできるけどこれはちょっとできない、とか、逆にこれならできるとか、そういうことを言える場にしていった方がいいものに繋がりますから。
- 岡田さんとの3作目として、2025年9月には『ダンスの審査員のダンス』を初演します。過去2作が酒井さんのソロだったのに対して、今作では、岡田さんのワークショップに参加した中村恩恵さんや島地さん、入手杏奈さん、そして俳優の矢澤誠さん、音楽家の小林うてなさんが出演するアンサンブル作品となりましたね。題材は、雑談としてコンクールの審査員をしたときの話で盛り上がっていたことがもとになっているとか。
- そうなんです。私たちは皆、コンクールの審査員の役を演じます。審査員をしている元ダンサーたちや、その身体の見方に岡田さんが興味を持って、さらに最近、鷲田清一さんの著書『所有論』の書評を岡田さんが書いたことから、身体と「所有」ということも考える作品になりそうです。私が今回嬉しいのは、相対する人が複数いること。どのような作品になっていくのか、今は未知数で、楽しみです。前2作は岡田さんがバレエに寄ってくださったのですが、今回はダンス作品兼演劇作品でもあるので、言葉と動きの関係がこれまでとは違う、なんか見たことないような面白いものになりそうです。
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ⓒ 福山楡青
『ダンスの審査員のダンス』作・演出:岡田利規 出演:中村恩恵、酒井はな、島地保武、入手杏奈、矢澤誠、小林うてな
愛知:2025年9月19日~21日 愛知県芸術劇場 小ホール
東京:2025年10月1日~5日 東京芸術劇場 シアターイースト
高知:2025年12月13日~14日 高知県立美術館 ホール
長野:2026年1月12日 サントミューゼ(上田市交流文化芸術センター) 小ホール
福岡:2026年1月25日 J:COM 北九州芸術劇場 中劇場
- 『ジゼルのあらすじ』では酒井さんが話の切れ目で何度もはさむ「知らんけど」のフレーズが、独特のイントネーションも相まって面白い効果を生んでいました。岡田さんとのコラボレーションを重ねるごとに、酒井さんの表現がどんどん自由になってきている印象を受けるので、次作でさらに開花するのだろうかと期待してしまいます。岡田さんからいろいろな要求があるかと思いますが「これはできない」といったことはないのでしょうか。
- 「知らんけど」は関西弁を習って真似したつもりだったのですが、あれ(不思議なイントネーション)が定着してしまって(笑)。今回出演する島地も声がいいと皆に褒めてもらっているので、ぜひたくさんしゃべってほしいですね。もちろん、踊りも踊る予定ですが。私自身はできない、やりたくないことというのは、ヌードくらいですかね、まあ需要はないと思いますが(笑)。
- 第一線で踊ってきたバレエダンサーが辞めてしまうことなく、演劇の最前線の岡田さんとのコラボレーションを含め、活発に活動されているその姿自体、後輩に勇気や可能性を与えると思います。
- そういうふうに見ていただけると私も嬉しいです。足が上がる、ジャンプができるといったことは若さあってこその素晴らしい技ですが、そことは違う何か、または目に見えない何かの表現は、年齢を重ねれば重ねるほど豊かになる。以前よりテクニック的にできなくなることがあるのは、悲しいと言えば悲しいですが、今日の自分は今の最高ですから、できることを大事にしつつポジティブに、新たな挑戦をしていきたいですね。
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松山バレエ団
1948年、日劇のバレリーナであった松山樹子が夫である清水正夫と創設。現在、総代表を二人の子息である清水哲太郎が、団長をその妻であり世界的なバレリーナである森下洋子が務める。
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森下洋子
1948年生まれ。1971年、松山バレエ団に入団。74年、世界三大バレエコンクールの一つ、ヴァルナ国際バレエコンクールにて日本人として初めて金賞を受賞。松山バレエ団に所属しながら、世界各地の檜舞台で踊る。85年、イギリスの舞台芸術の最高峰であるローレンス・オリビエ賞を受章。97年、文化功労者に選ばれる。今も現役のバレエダンサーとして舞台に立つ。
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牧阿佐美バレヱ団
日本バレエ界の草分けの一人である橘秋子が1933年に設立した橘バレヱ研究所、橘秋子バレヱ団を母体に、橘と牧阿佐美が56年に創設。総監督は、71年〜94年に牧、同年以後は三谷恭三が務めている。
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牧阿佐美
1934年生まれ。1956年、バレエダンサーである母、橘秋子とともに牧阿佐美バレヱ団を結成。71年に母が死去した後、現役を引退して橘バレヱ学校校長となる。1999年~2010年、新国立劇場舞踊部門芸術監督、01年より21年の逝去まで新国立劇場バレエ研修所所長を務める。96年、紫綬褒章受章。04年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。08年、文化功労者に選ばれる。
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上野水香
1995年に牧阿佐美バレヱ団に入団し、97年、『くるみ割り人形』金平糖の精で主役デビュー。2004年、東京バレエ団にプリンシパルとして移籍。現在、東京バレエ団のゲスト・プリンシパル。新国立劇場バレエとは一時期、コール・ドゥ・バレエとして契約していた。
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小嶋直也
1986年、牧阿佐美バレヱ団に入団。88年、ヴァルナ国際バレエコンクールのジュニア部門で、日本人男性初の第1位を受賞。94年から1年間、日本人男性として初めてアメリカン・バレエ・シアターと1年間の契約を結んだ。97年からは新国立劇場バレエ団のソリストとして活躍(現オノラブル・ダンサー)。牧阿佐美バレヱ団でバレエ・マスターを務めている。
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根岸正信
1989年、牧阿佐美バレヱ団入団。96年、新国立劇場バレエにソリストとして契約し、主要な役を踊る。2002年より渡欧し、ベルリン・バレエ・コーミッシェオーパー、バレエ・ドルトムントで踊り、その後フリーランスのダンサー、振付家として活動。
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島田廣
1919年生まれ。 日本バレエ黎明期にダンサーとして活躍。『白鳥の湖』全幕日本初演で貝谷八百子を相手に王子を踊る。後の妻である服部智恵子と服部・島田バレエ団を主宰。日本バレエ協会会長、新国立劇場舞踊部門初代芸術監督などを務めた。2002年、文化功労者に選ばれる。13年没。
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マリインスキー・バレエ
ロシア帝国時代、首都サンクトペテルブルクに創設された帝室舞踊学校を起源とする、世界最高峰のバレエ団の一つ。
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ディアナ・ヴィシニョーワ
1995年にマリインスキー・バレエに入団し、翌96年にプリンシパルに任命。マリインスキーのほか、パリ・オペラ座バレエ団、ミラノ・スカラ座バレエ団、ミュンヘン・バレエ団などにゲスト出演。2005年〜2017年、アメリカン・バレエ・シアターのゲスト・プリンシパルとして活躍。
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吉田都
1983年、ローザンヌ国際バレエコンクールでローザンヌ賞受賞。84年、サドラーズウェルズ・ロイヤル・バレエ団(現バーミンガム・ロイヤル・バレエ団)に入団し、88年にプリンシパルに昇格。95年に英国ロイヤル・バレエ団へプリンシパルとして移籍。2007年、紫綬褒章、大英帝国勲章(OBE)受賞。17年、文化功労者。24年より日本芸術院会員。20年より新国立劇場舞踊部門芸術監督を務めている。
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ワガノワ・メソッド
ロシアのバレエダンサー・バレエ指導者であるアグリッピナ・ワガノワがまとめたバレエ・テクニック。ロシアを中心に、世界で教えられている。
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フレデリック・アシュトン
イギリスを代表する振付家(1904-1988)。1963年、英国ロイヤル・バレエ団芸術監督に就任。代表作に『シンデレラ』『オンディーヌ』『真夏の夜の夢』『田園の出来事』『シンフォニック・ヴァリエーションズ』『ラ・ヴァルス』『ピーター・ラビットと仲間たち』などがある。
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ケネス・マクミラン
イギリスを代表する振付家(1929-1999)。1970年、アシュトンの後任として英国ロイヤル・バレエ団の芸術監督に就任。代表作に『ロミオとジュリエット』『アナスタシア』『マノン』『マイヤリング』『パゴダの王子』などがある。
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熊川哲也
1989年、ローザンヌ国際バレエコンクールで日本人初の金賞を受賞。同年、英国ロイヤル・バレエ団に東洋人として初めて入団し、93年、プリンシパルに昇格。98年に同団を退団し、翌99年、K-BALLET COMPANYを設立。以来、芸術監督、プリンシパルダンサーとして団を率いるほか、演出・振付も手掛ける。2012年、Bunkamuraオーチャードホール芸術監督に就任。2013年、紫綬褒章受章。
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アレッサンドラ・フェリ
1980年、ローザンヌ国際バレエコンクールで入賞。同年、ロイヤル・バレエ団に入団。85年、アメリカン・バレエ・シアターに移籍。その後は同カンパニーとミラノ・スカラ座バレエ団のプリンシパルとして活躍。マクミランのミューズの一人とされ、多くの作品を踊っている。
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クレールマリ・オスタ
1988年、パリ・オペラ座バレエ団に入団し、2002年、エトワールに昇進。94年、ヴァルナ国際バレエコンクール銅賞。夫はやはりパリ・オペラ座エトワールのニコラ・ル・リッシュ。
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浅利慶太
1933年生まれ。 1953年、日下武史ら10名で劇団四季を創立、海外作品からオリジナル作品まで、ほぼ全作品のプロデュースや演出を手掛ける。61年、作家の石原慎太郎と共に日生劇場製作営業担当取締役に就任。98年、長野五輪開会式・閉会式の総合プロデューサーを務めた。2018年没。
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島地保武
1978年生まれ。 Noism(現Noism Company Niigata)に2004年の創設から参加し、06年〜15年、ザ・フォーサイス・カンパニーに所属。13年、酒井はなとのユニットAltnue〈アルトノイ〉を結成。資生堂第七次椿会メンバー。
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オフバランス
身体の軸をまっすぐに取って立っている状態をオンバランス、軸がずれている状態をオフバランスという。
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協力:Dance Base Yokohama、新国立劇場 ⓒ 宇壽山貴久子
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