国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan

Presenter Interview プレゼンターインタビュー

2022.8.25
ビルーテ・レチュカイテ ©Remis Ščerbauskas

Through the Throes of War and Its Soviet Past –
The fascinating journey of contemporary dance in Lithuania

リトアニア

戦争に翻弄された旧ソビエト圏
リトアニアのコンテンポラリーダンス事情とは?

ビルーテ・レチュカイテ(AURA Dance Theatre)

旧ソビエト圏のバルト3国(ラトビア、エストニア、リトアニア)で最も南に位置し、1990年のソ連崩壊により独立を回復したリトアニア(人口約272万人)。その第2の都市カウナスのAURA Dance Theatreの芸術監督であり、1989年から続く「国際ダンスフェスティバルAURA」の創設者がビルーテ・レチュカイテ(Birutė Letukaitė)だ。リトアニアのコンテンポラリーダンスの草分け的存在である彼女に、その取り組みとダンス事情についてインタビューした。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]

カウナスは第二次世界大戦中に日本領事館のあったところで、杉原千畝領事代理がナチス占領下のリトアニアでユダヤ人のために「命のビザ」を発給したことで知られています。また、1919年に首都ヴィリニュスがポーランドに占領されて以降、1919年から40年まで、臨時の一時的な首都として機能していました。リトアニアは1941年以降ロシアに占領され、1991年に解放に至りました。
そのカウナスが2022年の「欧州文化首都」(*1)に指定され、1年を通じてさまざまな文化事業を展開する「カウナス2022」(*2)が開催されています。その一環で、4月25日から5月1日まで「Japan Days in Kaunas“WA!”」(日本リトアニア友好100周年記念事業として俳句、茶道、地唄舞、コンテンポラリーダンス、マンガ、アニメなど30を超えるプログラムで日本文化を多角的に紹介)が開催され、私も講師として招かれました。この機会に、ぜひリトアニアのダンス事情についてお伺いできればと思っています。
ビルーテさんが芸術監督を務めるAURA Dance Theatre(以下、AURA)もオープニングやクロージングのイベント、日本のアーティストとのコラボレーションなど5つのプログラムで参加されています。
 はい。AURAのメンバーは「カウナス2022」のさまざまなイベントに出演しています。「WA」では、日本文化を研究している国立ヴィータウタス・マグヌス大学 Vytautas Magnus University アジア研究センター日本学科のアウレリウス・ツィカス教授 Aurelijus Zykas から声をかけていただき、日本から鈴木竜、フィンランドで活躍する舞踏家の五月メイを招き、コラボレートして新作のダンスを作りました。

 リトアニアでは杉原千畝の功績はとてもよく知られていて、2018年から日本とユダヤとリトアニアの文化を紹介する「杉原ウィーク」が開催されています。カナウスのネムナス島に桜が植樹されましたが、そのサクラ・パークのオープニングでは、私が振り付けた日本語の歌「ハレルヤ」をアウラのダンサーが踊ってくれました。また第2次世界大戦中、多くのユダヤ人をビザで救った杉原千畝の記念碑の除幕式でも、この曲の振り付けをしました。
約1カ月間滞在して新作を振り付けた鈴木竜にとって、今回は海外で作品を創作する初めての経験だったそうです。
 AURAではそういう機会をシェアすることを大切にしています。鈴木竜はとても良いダンサーですし、フレンドリーでコミュニケーション能力が高く、明確な世界観をもっていると思いました。しかも彼は私が主催しているアウラ国際ダンスフェスティバルで2017年にソロ作品を披露しています。

リトアニアのダンスの歴史

リトアニアにおけるコンテンポラリーダンスの歴史をうかがえますか。
 1991年にリトアニアがソ連から独立する以前のダンスは、基本的に民族舞踊やバレエが主流でしたが、何人かのアーティストによって西側のモダンダンスには触れていました。大まかにいうと、私はリトアニアの現代的なダンスの第3世代になります。
第1世代はダニーテ・ナスヴィティテ Danute Nasvytytė(1916〜83)ですね。
 ダニーテはベルリンに行き、1939年にそこのダンススクールを卒業した後、当時リトアニアの臨時首都であったカウナス(リトアニア)に戻ってきました。リトアニア全土を巡業し、ソロダンスを披露しました。彼女はカウナスに最初の表現主義スタイルのダンススタジオを開きました。彼女がドイツで習得したダンススタイルは人々に衝撃と驚きを与え、多くの若い女性が彼女のスタジオに押し寄せました。

 しかし、ソ連が最初に侵攻してきた1940年、彼らはダニーテのスタジオを閉鎖しました。でも、翌年の41年、今度はナチス・ドイツが侵攻してきて彼女のスタジオを再開させたのです! 第二次大戦が終わるまでスタジオは存在し、公演も続けられました。
戦争に翻弄されたリトアニアの象徴的な話ですね。
 まだ、それで終わったわけではありません。44年に再びソ連が侵攻してきたのです。多くの人が国外に移住しました。なぜなら40年に侵攻してきた時、何千人もの文化的・知的で教育熱心な人たちがシベリアへ送られたからです。ダニーテはドイツに逃れ、その後、52年にオーストラリアに渡りました。

 メルボルンを拠点に、最初の表現主義的なダンスグループとなる「ダナ・ナスヴィティテ・クリエイティブ・ダンス・グループ(Dana Nasvytis Creative Dance Group)」やダンス学校を設立しました。オーストラリアはバレエが主流でしたから、彼女のようなスタイルのダンスは初めてだったと思います。アマチュアレベルでしたが、1983年に心臓発作で亡くなるまで活動を続け、多くのバレエダンサーに魅力的な作品を振付けました。
44年にソ連が再侵攻し、「リトアニア・ソビエト社会主義共和国」としてなかば強制的にソ連に編入されてしまいました。この頃のリトアニアのアーティストはどんな待遇だったのですか。
 ダニーテが移住した後も、カウナスの彼女の生徒たちは、彼女がリトアニアにもたらした新しいダンスが絶えることのないよう努力しました。しかし、ソ連はすべての西ヨーロッパ文化を禁止しました。東ヨーロッパ諸国のすべてのダンススタジオが閉鎖されました。バレエ学校と伝統舞踊に作り替えられました。その後、ボウルルームダンスなどもできましたが、自由に踊るダンスは存在を許されませんでした。でも、アマチュアのダンスグループは活動を続け、様々に場所を変えながら公演していました。
その代表的な存在が、ダニーテ・ナスヴィティテの生徒の一人で、いわゆる第2世代にあたるキラ・ダウホタイテ Kira Daujotaitė(1921〜2013)ですね。カウナスの女子体育学校を卒業後、国立ヴィータウタス・マグヌス大学でフランス語を学びながら1939年から44年までダニーテのもとでドイツ表現主義舞踊を学んだ人です。
 キラは1944年にカウナスでアマチュアの表現主義スタイルのダンスグループを設立し、69年に『ソナタダンスカンパニー(以下ソナタ)』と改名しました(84年まで活動)。これはリトアニアの歴史の中で画期的なダンスグループでした。 私は16歳の時、劇場でキラのグループの27周年記念公演を観たのですが、そのときはあまり惹かれませんでした。
ソ連に編入された後、公演は禁止されていなかったのですか。
 アマチュアの公演はあまりうるさく言われませんでした。ビルの一室で上演されるような作品も多かったですし。ただ私はもともと体操競技の出身で、こういうダンスは好きではありませんでした。ピアノ曲で、ギリシャ風のチュニックで、裸足で、とてもゆっくりとした動きで……。それは表現力とバラエティに欠けていました。落ち着いた音楽と裸足で踊るのも印象に残りませんでした。

 ほとんどがビルの一室で行われるような小規模な公演でした。しかし、私はキラ・ダウホタイテの自由なスタイルのダンスと個性にとても魅了され、ダンサーとして参加しました。キラはリトアニアの独立のことや、イサドラ・ダンカンのことなど、少しずつですが、いろいろなことを話してくれるようになりました。私は12年間、彼女のグループのメンバーとして在籍しました。
キラさんは、ドイツの表現主義舞踊のスターであるグレタ・パルッカ Greta Palucca のサマースクールに参加しています。
 彼女は最初、書店でグレタ・パルッカの本を見つけたそうです。それを読んで、自分の動きと非常に似ていると感じ、パルッカに手紙を書きました。彼女がドイツのドレスデンで開催されているサマースクールについて知らせてくれたので、キラは文化省に掛け合って参加しました。

 当時踊っていたダンスはソナタ独自のものだと思っていたので、ダンスを学ぶために海外に行くことに衝撃と刺激を受けました。ソナタはずっと第2次世界大戦前に踊られていたダンスを踊り続けていましたが、戦後40年が経ち、世界はすでに違うダンスを生み出していたのです。
グレタ・パルッカのスクールはどのようなものでしたか。
 私たち6人の少女はキラ・ダウホタイテ先生に引率されてドレスデンの国際ダンス学校に行きました。マーサ・グラハム、ホートン(体幹トレーニング)、ホセ・リモン、マース・カニンガム、ジャズダンスなどのさまざまなテクニックを学ぶことができました。世界にはこんなに様々なダンスがあるんだと、宇宙が開けたような感覚でした。それに比べ、ソ連時代のリトアニアはまるで監獄のようで、コンテンポラリーダンスの情報はまったくない状態でした。私は新しい知識、新しい体験をもっと求めるようになりました。自分の行くべき道を探し、私もパルッカに手紙を書いてドレスデンに行きました。私のダンスに関する知識は、すべてここから得たものといっていいでしょう。

AURA Dance Theatre

リトアニアのダンスの歴史のなかで、ダニーテ・ナスヴィティテを第1世代、キラ・ダウホタイテを第2世代とすると、ビルーテさんは第3世代ということになります。
 はい。キラのダンスグループは、リトアニアだけでなくソビエト連邦全体で唯一のものでした。キラのようにアマチュアながらもダンスを伝え続ける人はいましたが、私よりも若い世代も育ってきており、ソナタは古いと感じるようになっていました。私はもっと高いクオリティのダンスをやりたくなり、1980年にソナタを去りました。そして1982年に私が振り付けた『Pavasaris』(音楽はA.ヴィヴァルディとパブディマス Pabudimas)を含む最初の公演を上演しました。

 カウナスのアマチュアのモダンダンスグループに声を掛け、街中にダンサー募集のポスターを貼ってダンサーを集め、なんとか立ち上げました。ダンサーは自分の仕事をしながら、昼間は学校や大学で勉強し、夜は私たちのリハーサルに来る。踊ってもギャラは一切出ないという完全にアマチュアの団体でした。400席のステージがあるカルチャーハウスを借りて「モダンダンスグループ振付の小さな夕べ(Modern Dance Group Choreograph Miniature Evening)」と名づけて公演しました。
その情熱がずっと続いていったのですね。
 パルッカ・スクールの影響は大きいです。リトアニア国外にもダンスがあり、素晴らしいテクニックを持ったダンサーがいる! 私はこの世界に追いつくために、そして、このダンスの世界の一部になるために、古いアーカイブではなく、ただ私たちがするべきことをするために走り続けました。

 他のものは子どもも家族も母親も、すべて二の次でした。最初の頃は通りすがりの女の子たちを集めて踊っていたようなものでしたが、今では市立のプロフェッショナルなダンスカンパニーに成長しました。私がやらなかったら誰がこのダンスを守るんだ、と思い続けています。
いつからAURAと名乗るようになったのですか。
 ソ連時代にはおかしなルールがありました。誰も自分のカンパニーに名前を付けることができなかったのです! ヴィリニュスから審査員がやってきてコンペティションを行い、優秀だと認められるとはじめて名前を付けることが許されます。しかも自分たち付けるのではなく、審査員が投票で名前を決めるのです。
それは驚きですね。AURAの場合はどうだったのですか。
 私に対してはとても寛容で、自分で名前を付けることができました。「あなたのカンパニーは優秀だから名前を付けましょう」「ありがとうございます。AURA Dance Theatreにします」といって認められました。それが1990年のことです。カンパニーとして初めての公演は、エストニアのタリンで開かれた最初のコンテンポラリーダンスのフェスティバルへの招待でした。エストニア・バレエ・シアターという大きな劇場で開催されました。

 ヴィリニュスの文化省の中に私たちのことを知っている人がいて、このフェスティバルに送ってくれました。AURAの公演は大成功しました。フェスティバルに来ていたヴィリニュスのダンス評論家でバレエダンサーのルータ・クルージスキテ(Rūta Krūgiškytė)が「カウナスにこんなにレベルの高いダンス・カンパニーがあるなんて!」と非常に驚き、話しをしに来てくれました。

 フェスティバルの参加者、振付家、ダンサーは、私たちがプロではなくアマチュアであることを信じられませんでした。彼女は「そんなことはあり得ない!」と憤慨し、支援する人々を募ってリストを作成してくれました。そして多くのアーティストやジャーナリストに向けて、「このカンパニーにはプロになるために支援が必要だ」とあちこちで訴えてくれました。
ドラマティックですね。いても立ってもいられなかったんでしょうね。
 彼女はAURAが優れたダンスカンパニーであることを示すために、企画書を持って一緒にミュニシパリティ(Municipality 地方自治権のある法人が設置された政治的な一区域)を回ってくれました。私たちは、リトアニアにはプロのダンスカンパニーが必要だと決意を固めており、一丸となって取り組みました。

 それを5年続けて、ついに1995年のカウナス市の会議でAURAが市立のカンパニーとしてのステータスを獲得する決議が行われました。最初は1年間で1万ユーロほどの予算でしたが、ついにプロのアーティストとして認められたわけです。まだ場所も何もない小さなカンパニーでしたが、これはリトアニアのダンスにとって本当に大きな一歩でした。

 現在、AURAはリトアニアで唯一の市立ダンス・カンパニーとして、年間予算35万ユーロ(約5,000万円)、私がリーダーのような立場で、スタッフ19人、リハーサルディレクター1人、常時10~11人のダンサーをパーマネントで雇用して活動しています。アウラは、旧市街の古い建物を利用して、リハーサル室、オフィス、小さなレジデンス施設、衣装置き場、子ども向けパフォーマンスのための小劇場を運営しています。今では市の組織の一部のようになり、文化行政にも深く関わっています。

 私は、リトアニアとバルト地域のダンスに大きな影響を与えたとして、2003年にリトアニア文化省からプレミアム賞とゴールデンステージクロス賞を受賞しています。そして2013年にアウラは長年の貢献が認められ、2度目の受賞(プレミアム賞、ゴールデンステージクロス賞)、さらに2022年には大統領賞(オフィサーズクロス)、サンタカSantaka賞(カウナス市)を受賞しました。世界各地で上演した『Aseptic Zone or Lithuanian songs』(2003年。無菌地帯またはリトアニアの歌)は、ベラルーシのヴィチェプスクとポーランドのカリシュの国際ダンスフェスティバルで最優秀振付家賞を受賞しました。また、『Aseptic Zone』『Lithuanian songs』(2003年)といった作品を世界各地で公演し、ベラルーシのVitebskとポーランドのKaliszの国際ダンスフェスティバルで最優秀振付家賞を受賞しました。AURAはあらゆるコンテンツや様々なフェスティバルで公演を行っています。
リトアニアには他に公的資金を受けているカンパニーはありますか。
 市立ではありませんが、クライペダ Klaipeda 市には元ダンサーが設立したアグニヤ・シェイコ Agnija Šeiko というダンスカンパニーがあり、市から支援を受けています。
AURAのダンスを拝見しましたが、ダンサーはみんな高い技術と表現力、そしてひとり一人が強いキャラクターをもっていますね。
 ダンサーは全てオーディションで決めています。現在はほとんどが外国からのダンサーでリトアニア人はひとりだけです。カンパニーのクオリティを優先して考えた結果です。個性と身体とテクニック、そして退屈しない即興が長い時間できる人がいいですね。

 日本人のバレエダンサーの松本夏帆はロンドンからオーディションを受けに来て、AURAに入ってくれました。彼女は個性的で素晴らしいダンサーです。笑顔がとても素敵で、体つきもよく、ポアントも踊れるし、コンテンポラリーもインプロもできる。彼女はこの3年間でスーパー・コンテンポラリーダンサーになりました。残念なことにもうすぐドイツのカンパニーに移籍しますが、どこに行っても活躍すると思います。私たちは彼女の代わりに入ってくれる日本人ダンサーを探しています。ぜひオーディションを受けに来てほしいです。
リトアニアには国立のバレエ団がありますが、彼らはコンテンポラリー作品のレパートリーを持っていますか。
 プログラムを詳細に知っているわけではないですが、彼らはバレエとネオクラシカルなダンスに集中しているように見えます。学校でコンテンポラリーダンスやモダンダンスのレッスンを受けることもありますし、何人かは私達のクラスを受けに来たりしますが、基本的に国立バレエ団にとってコンテンポラリーは日常的に習うようなものではありません。

 バレエはみんな6歳から始めますが、コンテンポラリーは14歳くらいからでしかも女子ばかりです。リトアニアでは技術や体型がバレエに向いていない人がコンテンポラリーをやるというのがほとんどです。2010年、リトアニアの国立MKチュルリョーニス MK Čiurlionis 美術学校に、アメリカでダンスを学んだ元AURAのダンサーだったLina Puodžiukaitė-Lanauskienėがコンテンポラリーダンス学科を開設しました。
他の身体表現、例えば民族舞踊、ヒップホップ、サーカスなどとコンテンポラリーダンスとの関係はいかがですか。
 私が振り付けた作品に、第1部で全員がオランダのグダ・コスター Guda Koster がデザインした大きな衣装を付けて不自由だったダンサーが、第2部で衣裳から逃げるという『Sprendimas, Game Changer』(2018年)があります。ダンサーが実感する自由を表現するために、作曲家のアンタナス・ヤセンカAntanas Jasenkaにヒップホップの音楽を依頼しました。とはいえ、そこで動きにまでヒップホップのスタイルを使うことで自由をより表現できるとは思えませんでした。接し方は難しいですね。

国際ダンスフェスティバルAURA

AURA国際ダンスフェスティバルは、1989年に「国際モダンダンスフェスティバル」として創設されました。
 私が芸術監督として立ちあげましたが、お金も知識も何もなく、ただ熱意だけでした。どうしたらいいのかわからなかったけど、とにかく始めようと思いました。
しかし、1989年といえばまだソ連時代です。リトアニアが独立回復を宣言するのは90年3月11日ですから、その前に「国際モダンダンスフェスティバル」を立ちあげるのは大変だったのではないですか。
 その通りです。第1回は小さなカルチャー・ハウスでの開催でした。海外はポーランドのクラクフからバニョレ国際振付コンクールの賞を受賞したJerzy Birczyńsk カンパニーを招きました。ポーランド語はよくわかりませんが、彼らは自分たちをコンテンポラリー風のバレエと称していました。後はラトビアからのパントマイムと、国内のヴィリニュスから何人かが参加しました。3日間程度の小さな規模でした。
観客の反応はいかがでしたか。
 全ての世代がソナタを知っていましたが、私たちのような若いグループがモダンダンスを始めたことは私より上の世代にとっては驚愕だったようです。そして若い観客は、常に私たちの味方でした。
2011年にフェスティバルの名前を「国際ダンスフェスティバルAURA」に変更しました。
 1989年から毎年「国際モダンダンスフェスティバル」を開催してきましたが、フェスティバルの運営母体がAURAなので、みんなが自然に「AURAフェスティバル」と呼ぶようになっていたのです。それで名前も変更しました。
フェスティバルの資金は?
 毎年資金は異なりますが、通常は、リトアニア共和国文化省 Ministry of Culture of the Republic of Lithuania がリトアニア文化評議会 Lithuanian Council for Culture を通して約8万5,000ユーロ、カウナス市が約2万5,000、合わせて約11万ユーロ(約1,600万円)です。他にも企業からの寄付や大使館の助成など、どうしたらサポートが得られるかを考えています。

 たとえばイスラエルからキブツ・コンテンポラリーダンス・カンパニー(イスラエルを代表するカンパニー。規模の大きな作品が多い)を招聘したときには、リトアニアのイスラエル大使館が2000ドル支援してくれました。
コロナ前の2018年は、リトアニア以外ではカナダ、イスラエル、イタリア、アメリカなどから招聘し、10カンパニーが公演しました。また若手6組のショーケース「4×6 Dance tour」も行われました。ビルーテさんがフェスティバルに招く作品を選ぶ基準はなんでしょう。
 過度にアバンギャルドなものではなく、リトアニアの観客が愛せるもの、見終わった後、観客から「本当に良かった、ありがとう」と言ってもらえるような作品を選びます。というのも、私自身が長年コンテンポラリーダンスを見てきて、段々好きではなくなってきているのです。たまに面白いと思うアイデアやコンセプトがあっても、5分もすれば飽きてしまいます。かつて映画はこれで観客を失いましたが、このままではコンテンポラリーダンスも同じ道をたどるかもしれません。
若いアーティストはコンセプチュアルになり過ぎている?
 もっと単純なことで、つまり彼らは身体の使い方を知らないのだと思います。リトアニアの国立美術学校のNational MK Čiurlionis School of Artは、バレエのプロフェッショナルのための学校なのでコンテンポラリーダンスに関してどんなことを教えているのか知りません。でも、コンセプチュアルなパフォーマンスについて論文を書いて卒業したアーティスト志望の19歳の若者が、私たちのカンパニーにやって来て、「今まで踊ったことはありませんが、ダンスを勉強したい」と言って来るんです。彼らはコンセプチュアルな作品なら、ダンス経験のない自分たちにもできると思っているわけです。

 しかし、ダンスとは常に新鮮で、新しいテクニックを持った身体表現でなければなりません。このスタイルを見つけるのはとてもヘビーで難しいことなのですが、彼らはそれを知らぬままにダンスの現場に来てしまうのです。
今回もそうですが、AURAは外部の振付家への委嘱も活発ですね。
 私が膝を故障していることもありますが、カンパニーには絶えず新しい刺激が必要なので外部の振付家を積極的に起用しています。振付家ではありませんが、過去には日本から舞踏のレッスンやレクチャーのために長谷川六(ダンスワーク編集長、批評家、実演家)を招いた事もあります。
他のバルト3国とフェスティバルとの関係は?
 独立前は海外に出ることが難しかったので、バルト3国間の交流はむしろ活発でした。私たちは関わっていませんが、エストニアのプリ・ルート Priit Roud という人が3国を対象にしたフェスティバルを開催したりしていました。でも独立後には、みんなの意識が外に向いて「もっと遠くへ」行きたくなってしまった。それでも私達のフェスティバルでは、エストニアを代表する「ファイン5ダンスシアター」(1992年に5人のダンサーAnu Ruusmaa、Katrin Laur、Tiina Ollesk、Oleg Ostanin、RenéNõmmikによって結成されたカンパニー)を何度も招いてきました。

 また、ラトビアのリガにはオルガ・ジトルヒナ Olga Žitluhina というダンサーがいて、ラトビアのダンスに関わるあらゆることをオーガナイズしています。フェスティバルを企画し、大学でダンス教育を行い、どこかの大学にダンス教育の学部を創ろうと働きかけています。彼女がカンパニーを持っていたときには、私たちのフェスティバルに招聘したこともあります。

最後に

Covid-19の影響はいかがでしたか。
 Covid-19によって外国行きの飛行機が全便欠航となりました。ダンサーたちは「怖いから」と最後の便でそれぞれの故郷に帰り、カウナスに残ったのは4人だけでした。私たちはここに隔離され、どこにも行けなくなった。私は彼らに短いダンスビデオを作る課題を与えました。自宅のベッドや廊下、キッチンで4人のダンサーが踊る姿を撮影した映像作品をインターネットやフェイスブックにアップしました。また隔離期間中、私たちのアーカイブからパフォーマンス映像をオンラインで公開しました。

 またフェスティバルも規模を縮小し、エストニアのファイン5とリトアニアのカンパニーなどを招いて開催しました。世界は止まっても、私たちのフェスティバルは止まらなかったのです。
ウクライナ危機についてはどうでしょう。このインタビューの時点で侵攻から2カ月が経っていますが、解決の目処が見えません。リトアニアはEUの中でも率先してウクライナ支持を打ち出し、街を歩いているといたるところにウクライナの国旗が掲げられています。リトアニアはNATOにも加盟しているので、ここまで戦渦が広がることはまずないと思いますが……
 本当にひどい状況です。私たちはソ連がかつてリトアニアに対して行ったことをよく覚えています。良くないのは、戦争が長引くことで人々は疲れ、いつしかそれに慣れてしまうことです。戦争を終わらせる努力は絶えず続けなければなりません。
AURAやフェスティバルについて今後の予定がありますか?
 AURAのパフォーマンスを日本でお見せしたい。2017年に私の作品『Abu2』が東京セッションハウスで上演されました。次回はさらに大きなスペースで公演したいですね。

*1 欧州文化首都
1983年にギリシャの文化大臣メリナ・メルクーリが提唱し、85年のアテネを振りだしにEUが指定した加盟国の文化都市で集中的に文化事業を行う「欧州文化都市」がスタート。99年に「欧州文化首都」に改称。観光振興、都市開発の契機となることから注目され、複数都市が指定されるようになり、欧州文化首都として年間を通じてさまざまな文化事業を展開。2022年はリトアニアのカウナスとルクセンブルクのエシュ=シュル=アルゼットが指定された。

*2 カウナス2022
2022年1月22日に開幕し、約1年にわたって国際舞台芸術祭「ConTempo」など約40のフェスティバル、オノヨーコの回顧展『Exit it』など60を超える展覧会、250を超えるステージイベント、250を超えるコンサートをカウナスおよびカウナス地区で展開。
https://kaunas2022.eu/