ダラ・フオット

芸術を通じた社会づくりを目指す
カンボジア・サーカス・ファー

2017.09.29
ダラ・フオット

ダラ・フオットDara Huot

カンボジア・サーカス・ファー CEO

ベトナム戦争、ポル・ポト政権による虐殺、内戦など、度重なる戦乱を経て、1993年に成立した「カンボジア王国」。国の復興を支えてきたのが国際的な非政府組織(NGO)で、環境・インフラ・人権・貧困対策などさまざまな分野で活動しており、その数は3,500団体以上にもなるといわれている(*1)。
芸術文化の分野も例外ではなく、伝統芸能の保全や、若手アーティストを支援する「カンボジア・リビング・アーツ」、伝統的な表現とコンテンポラリーダンスなどを掛け合わせ新たな表現を創造するカンパニー「アムリタ・パフォーミングアーツ」、障がいのある若者の表現を支援する「エピック・アーツ」などが国際NGOとして活動している(こうした団体では設立メンバーや理事として諸外国のメンバーが参画していることも多く、そうしたメンバーのいる国でも同時に非営利法人を設立して寄付金集めなどを行っている)。こうした事情からカンボジア国内の非営利芸術団体は、高度に組織化され、海外からの資金を元に、多くのスタッフを雇用して運営されていることも少なくない。
そうした芸術系NGOのひとつが、1994年に設立された、貧しい家庭の多い地域で芸術教育を実践する学校「ファー・ポンロー・セルパク(Phare Ponleu Selpak)(以下、PPS)」である。そして彼らが2013年に設立した社会企業(ソーシャル・エンタープライズ)(*2)「カンボジア・サーカス・ファー(Phare, the Cambodian Circus、以下Phare)」は、カンボジア独自のオリジナル・サーカスを観光ビジネスとして成功させた。PPSは「芸術が照らす光」、Phareは「灯り」というクメール語が示すとおり、両団体はカンボジアの数多くの若者の人生を導く希望の光になっている。2013年にPhareのCEOに就任したダラ・フオットに両団体の活動についてインタビューした。
聞き手:谷地田未緒[東京芸術大学]

はじまりと経緯

「カンボジア・サーカス・ファー(以下、Phare)」は、2013年に創設されて以来、アンコール・ワットのあるシェムリアップ(Siem Reap)にカンボジア・サーカスを常打ちするテント劇場を設置し、入場料から収益をあげる社会企業として運営されています。貧しい地域の子どもたちに芸術教育を提供するNGOの学校「ファー・ポンロー・セルパク(以下、PPS)」がどうしてPhareを設立するに至ったのか、その経緯からお聞かせください。
 Phareの成り立ちを初めから語ると、壮大な物語になります。始まりは今日ある組織の姿から想像もできないような素朴なものでした。1986年、若いフランス人の美術教師、ベロニク・ドゥクープ(Veronique Decrop)がタイとカンボジアの国境にあった難民キャンプをボランティアとして訪れ、子どもたちにトラウマと向き合う方法として美術を教え始めました。
1991年にはパリ和平協定が締結され、すべての難民キャンプが閉鎖されることになりました。それまでに第三国定住をしなかった難民は祖国への帰還を促されました。しかし、戦前に土地と所有物を置いて避難民となった何万人もの人々は、帰国したあとその所有権を主張することができませんでした。家と土地を失った元難民達の多くは、また戦争が起きることを恐れ、難民キャンプに近い、タイの国境の近くのバッタンバン(Battambang)に住み着きました。クメール・ルージュの統治下では、知識人、外国語の分かる人、教師、医師、政府の職員、作家、歌手、演奏家などが真っ先に殺されました。正確な数は分かっていませんが、カンボジアの知識人のおよそ9割は殺されたと言われています。国がようやく解放されたとき、カンボジアはショックとトラウマに溢れ、女性と子どもばかりの国になっていました。知識人が失われたので、読み書きのできる人はみな教師になりました。若い世代は10年も難民キャンプに住んでいたので、自分の国を良く知らず、再会を約束して別れてもお互いの故郷がどのくらい離れているのかさえわからない状況でした。当時のカンボジアは、ゼロに戻った状態でした。
こうした状況下で、多くの若者が長年にわたってカンボジアに滞在したベロニクの生徒になり、絵を学びました。その内の9人の若者が、自分たちの得た技術を生かしてカンボジアの復興に貢献したいと考え、彼女と共に、とある樹の下で無料で絵画を教え始めました。これがPPSの始まりです。バッタンバンにあるPPSの敷地には、いまだにその樹が立っています。絵を描くことよりも飛んだり、走ったり、踊ったりして身体を使って自分を表現したい子どもも沢山いました。PPS創立メンバーのひとり、クオン・デット(Khuon Det)は、1980年代にカンボジア国立サーカス学校(National Circus School of Cambodia *3)で学ぶ機会を与えられていたのですが、1998年にバッタンバンに戻ってきた際、PPSで舞台芸術のプログラムを立ち上げ、今も舞台芸術部門のディレクターをしています。当時は音楽、演劇、サーカスでしたが、今ではダンスを加えて4つの専攻があります。
PPSの創設者たちが木陰で絵を教えていた時、ダラさんはどのような子ども時代を過ごしていたのですか。
 私は1980年代前半にシェムリアップで生まれ、バッタンバンで育ちました。そのころのラジオではよくプロパガンダ放送が流れていました。「血」についての歌がとにかくたくさんありました──農民の血、労働者の血、革命の血など。私はポル・ポト政権崩壊の後に生まれましたが、苦難を生き延びた人々の話を聞いて育ちました。寝る前には母がいつも自分の経験を語ってくれました。どうやって生き延びたか、何を食べたか、なぜタバコを吸い始めたか──農場で労働していた当時、タバコを吸う人達だけ小休憩が許されていたので、少しでも休息が欲しかった母はタバコを吸い始めたそうです。
デットも母と同じくクメール・ルージュの時代を生き延びました。デットが自分の経験を基に創作したPhareの演目「ソカー(Sokha) 」を見ると、今でも涙が出ます。私の世代にとっても、とても鮮明なイメージなのです。しかし、私たちの子どもの世代には、何が起こったかをきちんと伝えないと、歴史を忘れ、同じ過ちを繰り返すかもしれませんから。
芸術や文化に初めて触れたのはラジオを通してでした。子どもの頃、ラジオの「オーディオドラマ」を聞くのが好きでした。あまりに好きだったので、母に声優たちに会いに行きたいとせがんだほどでしたが、残念ながら当時は街に劇場がなく、声優たちはラジオ番組しか活躍の場がありませんでした。2000年代に入る頃、「オーディオドラマ」の文化は自然と無くなりました。映画もとても好きでした。当時はボリウッド映画が流行していて、あまりの人気に、自分の子どもにボリウッドのスターの名前を付ける人もいるほどでした。映画上映がある時には、子どもから大人まで皆、バイクや自転車で映画館に行きました。映画館といっても、映写機が置いてあって、カーテンに囲まれただけの野外劇場でした。当時はカンボジアの映画も栄えていましたが、テレビが主流になってからは衰退してしまいました。代わりに人気になったのがタイのテレビドラマと香港のアクション映画でした。両親が運営していたビジネスが当時非常に順調だったので、我が家が村で最初にテレビを買いました。村の人たちが毎晩テレビを見に集まってきたり、子どもたちが泊まり込んだり、とても素敵な思い出です。
一方、忘れられない辛い思い出もあります。クメール・ルージュによる政権は1979年に終わったと多くの人が思っていますが、実際は2000年を過ぎてもまだ、カンボジアの一部はクメール・ルージュに支配されていました。タイとの国境付近は最後の戦場でした。私が住んでいた村にも、クメール・ルージュの残党がものを盗みに来ることがありました。銃声が聞こえたらすぐ、家族全員で家の裏に掘ってあるシェルターに逃げました。水や食料、お米など、持てるものを掴んで地下へ隠れ、外が静かになるまで数日そこにいることもありました。そうした後、よくラジオから「勝利だ!敵をうち殺した!」というようなメッセージが流れてきました。彼らの敵はベトナム、資本主義、アメリカでしたが、それはカンボジア人がお互いを殺し合うことでもありました。その声は誇りに溢れていましたが、若い自分でさえ「互いに殺し合うことがなぜ勝利なのだろう」と疑問に思っていました。それもまた、私の子ども時代でした。
現在Phareで活躍する皆さんからはとても想像できません。その頃、ラジオや映画以外にも楽しみはありましたか。
 子どもの頃に楽しかったもう一つの思い出は、「パヒ(Pahi)」と呼ばれる旅サーカス団です。今でもまだ田舎の方には存在しています。彼らはクメール・ルージュの時代を生き延びたストリート・アーティストで、劇団をつくって村々を回りました。曲芸や手品、猿を使って、人々を笑わせたり泣かせたりしました。そして料金をとる代わりに薬を売りました。薬といっても、昔からある薬草のようなものです。ほぼ毎月やってきては村中を楽しませていて、彼らの公演がとても楽しみでした。数多くの劇団がありましたが、中には口コミによって人気になった劇団もあり、人気のある役者さんは、現代でいう映画スターのように慕われていました。
「パヒ」の他によくやってきた旅劇団に、「ラコーン・バサック(Lakhon Bassac)」というのもありました。「ラコーン」は「劇場」という意味で、「バサック」は川の名前です。ラコーン・バサックはカンボジアに古くからある京劇の一種で、歌を歌って、曲芸とカンフーを披露し、主にカンボジアの伝統的な楽器で伴奏します。彼らもとても人気がありました。特にパゴダ(お寺)でのお祭りに劇団がやって来ると、村人全員が集まるので、子どもたちが早く来て場所取りをするなど活気がありました。公演が夜通し続くと、野外の観客席でそのまま寝てしまうこともありました。芝居では王様を演じても、公演が終われば食べ物を買うために祭りの屋台を巡っていたので、「世界で一番貧しい王様は舞台の王様」だとよく冗談を言ったものです。また、裕福な家がこうした劇団のパトロンになったのですが、一時は私の父もその一人でした。村の皆を楽しませるためにスポンサーとしてこうしたアーティストを支援したのです。


PPSとの出会い

ダラさんはPPSで学んでいたことがあると伺いました。どうして通うことにしたのですか。
 バッタンバンで高校に通っていたころ、放課後や休日によく友達と自転車でPPSに行っていました。PPSは2004年に正規の教育課程を始めるまで、主に課外活動の場として機能していて、誰でも無料で芸術教室に参加できたからです。絵を描いてみたい、楽器を演奏してみたいと思ったらPPSに行けばよかったのです。私は「ロニエッ(Roneat)」というカンボジアの伝統的な木琴を習いました。伝統的なアンサンブルにおいてとても重要な楽器で、私たちのサーカス公演でもよく使っています。もう弾き方は忘れてしまいましたが、PPSは伝統的な方法で教えていたので、西洋の楽譜ではなくキーに割り振られた数字で音を覚えていました。
3カ月間、趣味として音楽を習った後、2001年に通訳としてPPSの初めての国際的なプロジェクトを手伝いました。ヨーロッパから、音楽家、舞台衣装家、舞台美術家、サーカスのパフォーマーなど、7人のアーティストが来て、若者を対象に1週間のワークショップを実施しました。現在芸術監督であるBunthoeunなど、当時一緒にプロジェクトに参加した何人かは、今でも演出家としてPhareで働いています。
ワークショップの後、参加したアーティストたちとカンボジア・ツアーを実施しました。それは「アドボカシー・ツアー」と呼ばれる公演で、演劇を通じて地方の人たちにエイズ、マラリア、デング熱、地雷等について教えるものでした。村人たちの多くはプロパガンダ・ラジオしかメディアがなく、情報を持っていなかったのです。グループのメンバーはほとんどフランスから来ていましたが、2001年のこのプロジェクト以降、彼らは何度もカンボジアを訪れました。このグループは、今では「Collectif clowns d’ailleurs et d’ici(世界のピエロ集団)」と呼ばれていて、PPSのパートナーとして最上級生のグループによるヨーロッパ・ツアーを年2回実施してくれています。今こうしてお話している間もツアーが行われています。舞台芸術の正規課程に登録した学生は、卒業する前に必ずこのツアーに参加するのです。ツアーアレンジの他、彼らはPPSのパートナーとしてヨーロッパでの広報活動などを手伝ってくれています。
語学ができたことが、PPSに関わるきっかけになったのですね。ダラさんはカンボジアで生まれ育ったと伺いましたが、英語とフランス語はどうやって学んだのですか。
 私は生まれも育ちもカンボジアで、学校にも通っていましたが、英語は主にパゴダ(お寺)で学びました。村の僧侶たちが私の語学の先生だったのです。カンボジアでは昔から仏教が教育の中心にあり、男の子が12、13歳になったらパゴダに行くように勧められます。僧侶になるということはつまり、大学へ行くのと同じような意味を持ちました。僧侶は様々な知識を身に着けなければならないからです。ですから多くの人は、宗教のためだけではなく、教育を求めて僧侶になります。そして10年以上僧として過ごし、再び俗人に戻った時、「知識のある人」という意味でBandithと呼ばれます。Bandithはクメール語で「医師」、つまりドクターです。これは大学院を出た人が博士(ドクター)と呼ばれるのと同じようなものです。フランス語は、父が私に弁護士になってほしいと思っていたので、そのために勉強を始めました。あの頃、法律と医学を学ぶにはフランス語が必須でした。幸運にも高等教育にフランス語を取り入れるためのフランス政府のプロジェクト「La Francophonie」に選ばれ、またフランス文化センターにも通いました。
私は裕福な家庭の出身で、海外へ留学したのだろうという誤解をよく受けます。確かに家族がビジネスで成功した時期もありましたが、子ども時代は市場で母と一緒に花を売って育ちました。唯一幸運だったのは、意志が強く、しっかり勉強するようにと厳しく背中を押してくれる母がいたことです。カンボジアには、あまり費用がかからず、手の届きやすい教育機会がたくさんあります。だから私は若い世代に語学について話すときはいつも、良いキャリアを築いて成功したいなら、お金がないということを言い訳にせず、英語はもちろん色々なことをよく勉強するようにと伝えるようにしています。
現在PPSは芸術の授業だけではなく、普通の公立学校としても機能しているそうですが、どのように運営されているのでしょうか。
 PPSはNGOによって経営されており、長年に渡りミッションに忠実でありながらも様々な変化を遂げ、今は「芸術教育」「生活環境支援」「正規教育」の3つを柱としています。
芸術教育には2部門があります。ひとつは、美術、2Dアニメーション、グラフィックデザインを教える「美術・応用芸術課程(Visual and Applied Arts School)」。もうひとつはサーカス、音楽、踊りと演劇を教える「舞台芸術課程(Performing Arts School)」です。ちなみに、デット以外にも創立メンバー3人がPPSに残っていて、美術部門のSrey Bandaul、Tor Vutha、Lon Laoは、カンボジアにおけるポスト・クメール・ルージュの第一世代と言われています。
「生活環境支援」では、貧困、ネグレクト、虐待、その他家庭や社会における問題に苦しめられている子どもたちを支援しています。私たちは教育だけではなく、学び続けることのできる環境そのものを提供したいと考えていて、現在、10人のソーシャルワーカーが近隣の3つのコミューンに住む800世帯を経常的に支援しています。
「正規教育」では、幼稚園から高等学校までの正規教育を提供していますが、これは比較的最近始まった取り組みです。私たちの学校を含め、同じ地域に4つの高等学校がありますが、他の学校は主に中・高所得者層出身の子ども達が通学しています。PPSでは何もかも無料なので、必然的にほとんどの学生は低所得者層の出身となります。家庭の所得が足りず、勉強を続けることが難しいため、多くの学生が8年生か9年生(中学校卒業程度)で中退します。その後は路上で働くか、労働者になるか、何らかの商売を始めるか、あるいはタイに移住して建設業で働く者もいます。私たちの学校では、初年度には多くの学生が入学しますが、最終年である12年生になると1クラスしか残らないことがほとんどです。さらにその中から卒業証明書をもらえるのはほんの一握りの10人か15人だけです。一般の学校では、12年生は15クラス程残っていることが普通で、そのほとんどが卒業試験に合格します。
ちなみに芸術のカリキュラムは、課外授業と正規課程の両方で提供しています。どの学生も課外授業としていつでも芸術のクラスに参加することができますが、本当に真剣に学びたいと思った場合は正規課程として登録します。正規課程ではPPSが発行する卒業証書を授与されますが、普通高校の卒業資格として認められません。現在、私たちは、芸術課程の卒業生を普通高校あるいは専門学校の卒業資格として認めてもらえるよう様々な努力を行い、交渉を重ねています。
芸術課程の卒業生は、そのスキルを活かした職業についているのでしょうか。
 PPSには1,200人の学生がいますので学校としてはかなり大きいのですが、必ずしも皆が芸術を勉強しているわけではなく、芸術をキャリアとして選択する学生もほんの一握りです。舞台芸術課程では、約40人の学生が登録しますが、卒業まで残るのは8人から10人程です。途中で仕事の機会に恵まれて進路を変える学生もいます。良い機会があったのであれば応援したいですし、そうした学生には将来芸術を支援する人になってくれることを期待しています。あるいは、卒業を待たずに労働者や建設員になる学生や、生活苦から不法移民労働者となって外国へ渡る学生もいます。女子学生は結婚すると学校を辞めてしまいます。夫や家族が家事や育児をすることを彼女たちに求めるからです。そのため本当に良いパフォーマーを何人も失いました。この点に関しては、生活環境支援の優先事項として、結婚しても女性が仕事ややりたいことを続けられるように家族に対してソーシャルワーカーが働きかけています。
熱意と才能があっても様々な事情があって芸術でキャリアを築くことはとても難しいと言わざるをえません。PPSが立ち上げたPhareはその選択に希望を示すことはできましたが、ずっと続けられるとは保証できませんし、他の選択肢があれば引き留めることはできません。例えば、元ミュージシャンで今は商店を営んでいる元学生がいますが、街で会うといつも挨拶を交わします。結局、彼らが良い人生を送っているかどうかが、私たちにとって一番大切なことなのです。


カンボジア・サーカス・ファーについて

カンボジア・サーカス・ファーでは、舞台芸術課程の卒業生たちを採用しています。まず、Phareの概要について教えて頂けますか。
 Phareは、カンボジア独自の本格的なサーカスの舞台作品を制作し、上演しています。劇場はシェムリアップにある330席のサーカス小屋(ビッグ・トップ)です。2013年に公演事業を始めるにあたり、アンコール・ワットを訪れる年間400万人の観光客をターゲットとするため、戦略的にこの地に建てられました。音楽、演劇、ダンス、美術を使って、カンボジアの歴史、文化、社会を基に、独創的なストーリーを持つオリジナル・サーカス作品をプロデュースし、毎日上演しています。観光客にこうした文化的でユニークな舞台を提供することを通じて、母集団であるNGOが持続的に運営できるよう資金を集めるとともに、PPSを卒業したアーティストに雇用を提供することを目指しています。
Phareで大切にしていることは、人間的であること、リアルであること、そして草の根であることです。これまでに有名なシルク・ドゥ・ソレイユをはじめ様々な種類の演劇とサーカスを見ましたが、Phareはユニークで特別であると感じています。それはビジネスとしてもとても大切なことです。330席ではなく3,000席の劇場で公演をすればより多くの収入を上げることができるのかもしれませんが、それでは今の舞台にあるような、リアルで人間的なつながりを失ってしまうことになります。330席であることにはこうした理由がありますが、一方ビジネスとしては非常に難しい挑戦でもあります。330席での劇場運営を、例えば1,000人のアーティストを雇うことができるような経営モデルにするには一体どうしたらいいのか?これから将来の運営計画を立てるにあたり、多くの課題がありますが、私たちはビジネスの発展だけではなく、アーティストとスタッフが人間的に成長していくことを大切に考えたいと思っています。
カンボジアにおけるサーカスは、バイヨン寺院などの古代遺跡の壁に曲芸をしている様子が刻まれているなど、何世紀も前からカンボジアに存在するものであると言われています。Phareのスタイルは一般的にコンテンポラリー・サーカスと呼ばれているものですが、サーカスの伝統があることはPhareにとってどのような意味をもつのでしょうか。
 カンボジアは国全体として、また特にサーカスなどの芸能に関してアイデンティティ・クライシスを抱えています。私たちはリサーチを通じて、この国にサーカスや「Pahi」などの伝統的な曲芸の歴史が6世紀ころから存在していたことを知りました。現在UNESCOの世界遺産に認定されているサンポー・プレイ・クック遺跡にも曲芸の彫刻が施されています。しかし、9割の知識人が殺された今の社会においては、どのようなサーカスが私たちの伝統であったのか、アイデンティティの拠り所を失ってしまいました。厳密には伝統に則していないかもしれませんが、私たちは当初からPhareでどのようなサーカスをしたいか、はっきりとわかっていました。デットがトレーニングから戻ってPPSでサーカスを始めた1998年にはヨーロッパとカナダでコンテンポラリー・サーカスが盛んに行われていましたし、動物を使おうという気はありませんでした。そうして私たちは独自のパフォーマンスをつくりあげてきました。
サーカス部門を創ったデットや私たちPhareが歴史的な経緯を強調し、カンボジアらしい独自のプロダクションをつくるのは、サーカスが全くの外来文化ではなく、カンボジアの中で育まれた文化であることを理解してほしいからです。しかし、カンボジアの観客の理解を得るにはまだ時間がかかりそうです。
作品の方向性はありますか。
 私が最終的に判断の拠り所としているのは、人々が見に来たいと思ってくれるか、そのためにお金を払ってくれるかどうか、つまりニーズがあるかどうかです。現在、シェムリアップにおいて私たちが対象としているのは観光客であり、彼らはカンボジアに2、3日しか滞在しません。私たちは、アーティストの人生や社会的なミッションを大事にする一方で、やはり社会企業として、誰が対価を支払うのかを考慮する必要があります。例え芸術の世界で高い価値があるとされたとしても、今は実験的・抽象的すぎる公演を行うリスクを負う時期ではありません。今の私たちには、誇りに思うことができると同時に、観客を満足させるパフォーマンスが必要なのです。
この方針に到るまでには長い道のりがありました。私たちは毎年新作を制作しており、ひとつの作品を5年以上上演するべきではないと考えています。新しいプロダクションをつくる際には、カンパニーの内外からアーティスティック・ディレクターを起用しますが、ディレクターの方向性に賛同できないケースもありました。これはディレクターにとっても、私たちにとっても非常に辛い経験でしたが、長い話し合いと数々の稽古下見のあと、そのプロダクションは途中で中止せざるを得ませんでした。抽象的過ぎて、私たちの観客には適していないと判断されたのです。私たちは、Phareが求めるものを十分に伝えきれていなかったのではないかと感じ、その後、私が以前勤めていた会社の上司であったジェームス・タンの助力を得て、「ブランド・ガイドライン」をつくりました。Phareが今何を提供していて、今後どのようになっていきたいのかを明快に伝えるためのものです。私たちはもちろん、だれかの創造力を制限したいとは思っていませんし、誰にも自由に表現してほしいと考えます。しかし同時に、公演が終わった後、お客様にどんな気持ちで帰路についてほしいのかについても、はっきりとした考えがあります。今はビジネスとアートの両方の視点から、チームの皆に明白なガイドラインを伝えるようにしています。
社会的貧困、障がい者、高齢者などが抱える課題をサーカスによって解決する「ソーシャル・サーカス」という概念が注目されています。Phareはソーシャル・サーカスであると考えていますか。
 その質問にははっきりお答えできます。私たちPhareはアーティストの人生とビジネスに集中し、ソーシャル・サーカスのプログラム、つまりサーカスを通じて福祉や医療、異文化理解や貧困に関わるようなプログラムは、母集団であるNGO、PPSの仕事であると考えます。Phareにもコミュニティ・エンゲージメント・プログラムがあり、地域のために学校や村で無料公演を行ったり、学生などのグループを無料招待することもあります。こうした活動は、私たちが社会企業としてできる範囲の小さな取り組みですが、NGOではサーカスを通して人材育成をすることが可能です。PPSは2013年に、5つの団体と共にアジア・ソーシャル・サーカス連盟(Asian Social Circus Association)を設立しました。連盟はまだ始まったばかりですが、とても大きな可能性を秘めていると思います。今後、学校を運営する資金の大部分を社会企業から賄うことができるようになったら、ソーシャル・サーカスの活動ももっと拡大できるでしょう。国際会議に参加したり、スラム街での事業を増加したり、麻薬リハビリセンターなど新たな場所を訪れて、人材育成に貢献できるかもしれません。今はできることを精一杯やっていますが、将来的に組織がもっと成長したらやってみたいこともたくさんあるのです。
ティニ・ティノー・国際サーカスフェスティバルについて教えてください。このフェスティバルはPhareが設立される前から行われていますが、どのようにはじまったのですか。
 ティニ・ティノー・フェスティバル (Tini Tinou Festival)(*4)は2006年に始まった国際サーカスフェスティバルです。元々、フランス文化センターカンボジア事務所が企画したもので、PPSは初年度からパートナーとして参加していました。それから4年後の2010年、PPSはセンターからバトンを受け継ぎ、主催者になりました。資金的な問題でフル・プログラムを開催できなかった年が続きましたが、PPSに代わってPhareが企画者となり、2014年に再開し、3都市で8日間のフェスティバルを行い、4500人の観客が来場しました。これまでにオーストラリア、カナダ、インドネシア、ネパール、日本、そしてフランス等からアーティストを招聘しています。2018年5月には、プノンペン、バッタンバンとシェムリアップで第6回目の開催を予定しています。国際的なパフォーマンスと同時に、新企画としてフェスティバル・フリンジを開催し、主にバッタンバン会場で若いカンボジア人アーティストによる公演やワークショップを開催しようと考えています。私もアーティストも、今からとても楽しみにしています。


社会企業としてのPhare

最後に、社会企業としてのPhareについてお聞きしたいと思います。ある記事のインタビューで、あなたはPhareを率いるポジションに誘われた時、Phareが非営利事業ではなく社会企業だったからこれまでのビジネス経験を活かせると思って引き受けたと言われていました。それにしても、かなり大きなキャリア・チェンジだったのではないでしょうか。
 私は13年間ビジネスの世界で生きてきました。最初は航空業界で、その後ホスピタリティと観光の分野でビジネスに携わってきました。Phareに来る直前には、数少ないカンボジア人管理職として、海外駐在員たちと同じ責任を持って仕事をしており、とても誇りに思っていました。芸術の分野で働くことになるとは、夢にも思いませんでした。2013年、PPSが最初に私に連絡をしてきた時は、寄付を募っているのだと勘違いしたぐらいです。しかし、彼らが新しく立ち上げるビジネスの経営を私に頼みたいのだとわかって、私は「とんでもない!」と返事しました。順調にキャリアを積み上げてきたのに、途中で放棄するなんて考えられませんでした。
もし、私がPPSの授業を受けていなくて、PPSの皆と知り合っていなければ、今日ここにいることはなかったでしょう。PPSのスタッフや学生を長年知っていて、彼らを大切に思っていましたし、PPSに通う子どもたちが貧しい家庭から来ていることも知っていました。PPSが、私が生まれ育ったコミュニティにどんなに貢献しているかもよく知っていました。考えてみると、空港で勤務していたので何かと手伝ってくれないかと頼まれることもあり、PPSとは長い間つながりがありました。ですから、CEOのオファーを頂いた時、最初は「ノー」と答えましたが、いつものように時間の許す範囲で手伝いを始めたのです。
決心がつくまで1年かかりました。生活の変化が大きすぎるし、突然CEOになれと言われてもどうしたらいいか分かりませんでした。しかし、私の元上司がある日私の目を見て、「ダラ、準備はできているはずだ。やってみなさい」と言ってくれたのです。びっくりして、とても混乱しました。会社は私を手放したくないだろうとずっと思っていたのです。そのとき身をもって学びました。リーダーであることは素晴らしい人材を捕まえて放さないことではなく、時に人の目を見て「あなたにはできる。やりなさい」と言うことなのだと。CEOになった現在、この精神は自分でも実践しています。手放したくない人材でも、その人にとって良い可能性があるのであれば、チャンスを逃さないよう応援したいと思っています。
PPSが社会企業を設立しようと思い立ったのは、リーマンショックが学校の主要な寄付者たちに大きく影響した2008年だったと伺いました。その結果、学校を支えるための持続的な収入を生み出し、PPSを卒業したアーティストに雇用機会を与えるための社会企業が設立されました。
 社会企業は正式には「Phare Performing Social Enterprise(PPSE)」という名称で、サーカス公演を実施する「カンボジア・サーカス・ファー」がそのビジネスの中核を担っています。傘下には他に、グラフィックデザイン、映像・音響、2Dアニメーションのサービスを提供する「クリエイティブ・スタジオ・ファー」、絵画や音楽CDなどPPSアーティストの作品や、その他別のNGOがつくったエシカルなお土産品などを販売する「ハンドクラフト・ブティック・ファー」、ホテルや企業のプライベート・イベントと国際ツアーのアレンジを担当する「ファー国際プロダクション」の3社があります。PPSE全体で恒常的に47人のアーティストと70人のスタッフを雇用しています。カンボジアには社会企業に特化した法人格がありませんので、PPSEは私的有限責任会社として運営しています。ちなみに、PPSの方はサーカスが設立される20年近く前にあたる1994年から非政府組織(NGO)「Phare Ponleu Selpak Association(PPSA)」によって運営されており、教員、ソーシャルワーカー、管理運営スタッフを含めて110人が雇用されています。経営方法を見直すため、NGOであるPPSAが2013年に社会企業であるPPSEを設立しましたが、二つの組織は目的も形態も異なります。
昨年、PPSEは初めて株主に配当を支払うことができました。PPS(PPSA)は株式の71%を所有しており、配当として126,000米ドルを支払いました。まだ学校を運営する資金源としては足りず、配当金でまかなっているのは全体予算の25%程度です。しかし、今後7年から10年の間に、それを90%まで上げたいと考えています。
PPSEの株式はPPSA以外にどこが保有していますか。ビジネスと社会的なミッションの間で意見が割れるような時は、どのように意思決定をするのですか。CEOとしてダラさんはどのような役割を果たしていますか。
 グラミン・クレディ・アグリコル・ファンド (Grameen Crédit Agricole Foundation *5)が株式の17%を保有しています。残りの株式は、10年以上ずっと私たちを支えてくれている3人の個人株主が保有しています。Phareの株主は、配当を個人の用途ではなく、社会のために使うことが義務付けられていますので、実際にはこの3人の個人株主も配当金をPPSなどの学校に寄付しています。
私たちは社会企業を経営するにあたって「ソーシャル・ビジネス憲章」に則ってビジネスを運営しています。この憲章には、6つの原則、17のコミットメント、そして31の指標が記載されています。これが、私たちの日々の事業運営をきめ細かくガイドしてくれるのです。管理職の集まる会議では、必ず6つの原則のうち最も優先順位の高い、「貧困や困難な環境で育ったアーティストに豊かな生活をもたらす」という、コア・プリンシプルを再確認します。私たちが日々活動しているのは、すべてこのアーティストたちの人生のためなのです。
社会企業や非営利団体には様々な形の運営があるでしょう。中には自分たちが何を目指すのか、アイデンティティや目標設定に悩んでいる組織もあります。私たちの場合は、Phareが会社組織で、PPSが非営利団体として社会貢献をするという明確な役割分担があります。Phareは株主を持つ企業として、ビジネスで利潤を生みだしながら、ミッションに貢献するのです。
事業に関する決断についてですが、良い取締役たちに恵まれているのでそう難しくはありません。何かの決断について、エビデンスに基づく説明が必要になるような時でも、良く話を聞いてくれます。7人いる取締役のうち、4人はPPSから来ています。彼らは、お金を稼ぐために動いている訳ではないので、私が新しい企画や複雑な案件について提案するようなときには、それはビジネスのための選択なのか、それとも社会的な目的のための選択なのか、よく考えて提案するようにしています。両者のバランスをとることが、私の毎日の仕事です。
Phareを設立するにあたって、ビジネス・マインドのあるリーダーが必要だという判断を下してくれたことをありがたく思っています。過去にも舞台芸術ビジネスを開拓しようと試みたことがあるようで、その時は卒業生が独自に起業することをサポートしたようですが、うまくいかなかったそうです。彼らはアーティストであり、ビジネスマンではなかったからでしょう。例えば、ある時アーティストがホテルと公演の商談をしようとしたけれど、双方のアジェンダと利害があまりに異なるので、結局お互いに腹を立てて交渉は決裂したそうです。こうした両者の間に立つのも私の役割で、ビジネス側が提案する突飛なアイデアと、アーティスト側が提案するさらに突飛なアイデアの双方にフィルターをかけて、できること、やるべきこと、そしてやりたいことが何なのかをいつも考えています。
現在PPSEはサーカス公演の他、デザイン業など多様なビジネスを展開しています。今後も事業範囲を拡大していくのでしょうか。
 毎年PPSから多様なスキルを持ったアーティストが卒業していきます。年々増加するこうしたアーティストたちに、雇用の機会を提供し続けることができるかどうかが現在の大きな課題です。しかし、これは課題であると同時にチャンスでもあります。私たちが夢見ていた組織の姿に向かって成長するために、必要な人材を確保する道が拓けているということだからです。
Phareのビジネスは、今後とても難しい時期に入ると思っています。その際どのようにビジネスを展開するか、ビジョンとアイデンティティを再検討しながら慎重に決めていかなければなりません。新しい事業を次々と増やしてしまうと、お金になるかもしれませんが、私たちが求める社会的効果をもたらさないかもしれません。会社の内にも外にも繰り返し伝えているのは、私たちの第1のミッションはアーティスト、特に貧困層のアーティストの人生を支えることであるということです。アーティストとスタッフの人間的・社会的成長が私たちの核です。アーティストの良い人生に貢献しないと判断すれば、学校を手放すことも厭わないでしょう。なぜなら、学校は彼らのキャリア・デベロップメントのためにあるからです。どんな新規事業に着手するとしても、私たちのミッションと共鳴するものである必要があります。もし新しい取り組みが、私たちの信念から離れ、主に収益にだけ貢献するような場合には、熟考に熟考を重ねて判断をする必要があるでしょう。
Phareのような社会企業は、カンボジアにおける新しいモデルになれるのでしょうか。今後の展望を含めてお聞かせください。
 シルク・ドゥ・ソレイユは、現在では何千人ものアーティストを雇用するグローバル・エンターテイメント・ビジネスになりましたが、彼らが1980年代に初めてカンパニーを立ち上げた時には、多かれ少なかれ、Phareと同じような経験をしていたのではないかと想像します。今後、Phareはカンボジアが誇るグローバル・ブランドになって、何千人も雇用を生みだして世界中をツアーするのか、それとも人間的な草の根の活動としてより広範な社会貢献を目指すのか。どちらの方向も不可能ではないと思っていますが、どこへ向かうのかはまだ決まっていません。はっきりしていることは、Phareがオープンで人を歓迎するような組織であり続けたいということです。競争相手を打ち負かすのではなく、活気があり、魅力的で、互いに切磋琢磨するような業界を築き上げていきたいのです。選択肢が増えるほど観光客はより長くカンボジアに滞在するでしょうし、雇用の機会が増えるほど給与が上がり、最終的にアーティストたちのためになります。そのような社会を私たちは目指しています。
以前、中国からの観光客をもっとターゲットにすべきだというアドバイスをもらったことがあります。この市場は確かに大きく、拡大を続けています。最近、とある会社が中国からの観光客を対象にした動物を使うサーカス事業を立ち上げるために1,000席の劇場を建設しているという話を聞きました。その劇場は、2017年中にシェムリアップでオープンする予定です。競合ビジネスが、私たちの会社だけではなく、アーティストたちにとっても突然現実のものになりました。今後の経営は楽ではないでしょうが、雇用主が増え、経済的に活気が出ることは、私たちがビジョンとして望んでいたことでもあります。
将来、Phareがカンボジアにおける社会企業のモデルとなれるか、お金に目が眩んだ金儲け企業になってしまうか、それとも人々にインスピレーションを与えるような存在になれるか、また私たちが大切にしているアーティストたちの生活がどう向上し、ビジネスがどのように生き残ったか。そうしたことがわかるためには、5年から10年かかると思っています。挑戦は始まったばかりですが、私たちが何をもたらすことができるのか、自分自身も楽しみにしています。

カンボジア・サーカス・ファー
Phare, the Cambodian Circus

https://pharecircus.org/

*1 しかし約半数は活動休止状態であると言われている。The Diplomat誌2013年12月3日の記事 “NGOs in Cambodia: It’s complicated” (Helena Domashneva記者)による。

*2 社会的企業、社会起業(Social Business, Social Enterprise, Social Entrepreneurship)とも。収益事業を通じて社会的な課題解決を目的とする事業体のこと。

*3 主にベトナムとソ連の支援を受け、1980年に首都プノンペンに開設された。ポル・ポト政権の虐殺により孤児となった児童45名が一期生となり、うち5名は卒業後ソ連に留学をした。86年にベトナム、ソ連の指導者は引き上げ、指導と運営は政府の文化省、のちに王立芸術専門学校へと引き継がれた。

*4 Tini Tinouはクメール語で「そこ・ここ」の意。

*5 2006年にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス博士によってバングラディシュに設立されたグラミン銀行は、マイクロファイナンスを通じて貧困削減を目指した。グラミン・クレディ・アグリコル・ファンド(Grameen Crédit Agricole Foundation)は、グラミン銀行の関連団体であるグラミン基金(Grameen Trust)と、フランスの主要な金融機関であるクレディ・アグリコール(Crédit Agricole)が共同で立ち上げた社会企業を支援する基金で、利子あるいはエクイティ(株主資本)を元に資金を提供している。ムハマド・ユヌス博士は、「ソーシャル・ビジネス」という概念の提唱者でもある。

PPSの外観

 

サーカスの授業の様子

PPSの生徒たち

ファー・ポンロー・セルパク(PPS)の様子

『Sokha(ソカー)』
(2012年制作)
ソカーは子ども時代に戦争に苦しめられたカンボジアの女性。クメール・ルージュによる暴力の記憶が悪夢となって彼女を苦しめるが、芸術に出会ったことで力を見出だし、自分自身や周囲の人の抱えるトラウマを助けるようになる。PPSサーカス課程の創設者であるクオン・デット自身の経験をもとに制作された作品。
Photo: Stefan Vontobel

公演会場の「ビッグ・トップ」

会場の前のレストラン

リハーサルの様子

 

Photo: Petra Teeuwsen

カンボジア・サーカス・ファー(Phare)の様子

『Khmer Metal』
(2013)
ロック音楽に乗せてカンボジアにおける都会生活を垣間見ることのできる作品。薄汚れたプノンペンのロック・バーのオーナー兄弟が、冒険や愛を探し求める客と繰り広げる、人間味あふれるロック・サーカス作品。
Photo: Peter Phoeng

『Sokrias(Eclipse)』
(2008)
カンボジアの田舎町で、バカにされて仲間外れにされた醜い若者が神に助けを求めると、祈りが届き彼の姿は美しく若い女性に変身する。村の男たちはすぐに夢中になるが、何かが変だと気がつき始め…。カンボジアの民話を元にした拒絶、復讐と赦しの物語。
Photo: Maureen Ow

Phareの主要なプロダクション

『Influence』(2016)
権力、生存闘争、勝利をテーマに制作されたユニークな最新作の一つ。ジャングルの原始生物、古代の王、競争相手を陥れるランナーなど、支配し支配され、騙し騙されながら世界の中で居場所を見つけようとする多彩なキャラクターたちが登場。
Photo: Scott Sharick

『Same Same but Different』
(2017)
カンボジアの文化慣習と外国から訪れる観光客たちの対比をコミカルに描いた作品。突然の大雨、予期せぬ停電、リラックスしたディナーなど、様々なシーンで、両者がとる全く異なるリアクションが笑いを誘う。
Photo: Timothy Gibson

Phareのマネジメントを牽引するメンバーたち

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