ファビアン・ジャネル

リスクのある芸術を支援する
ONDAの取り組み

2012.01.06
ファビアン・ジャネル

ファビアン・ジャネルFabien Jannelle

フランス芸術振興会(ONDA) ディレクター
1975年に地方への質の高い舞台芸術の普及と舞台芸術関係者のネットワークづくりをミッションとして設立され、文化省からの助成によって運営されているフランス芸術振興会(ONDA)。現在では、革新的、同時代的な舞台芸術を集中的に支援する新たな方針により、コンテンポラリーな創造活動に対し、2010年実績で580団体に総額約250万ユーロを支援。

年間約50回の舞台芸術関係者の会合や、公共劇場が前衛作品の上演により被った赤字の一部を補填する「財政保証」という新たな支援など、現代舞台芸術のプラットフォームとして欠くことのできないONDAの活動について、1995年からディレクターを務めるファビアン・ジャネル氏に聞いた。
聞き手:藤井慎太郎(早稲田大学文学学術院教授)2011年9月8日パリ、ONDA本部にて
まずは、これまでのご経歴を簡単に伺えるでしょうか。
 大学では、建築、都市計画、社会学を学んでいました。今とはちがって、文化政策やアートマネージメントを学ぶのに専門教育課程があったわけではありませんから、現場での経験を通じて、文化のプロフェッショナルとなることを学びました。五月革命前後の学生運動が盛んだった頃でしたから、卒業後は労働組合運動にも参加し(組合の責任者は、後にフェスティバル・ドートンヌFestival d’Automneのディレクターになるアラン・クロンベックAlain Crombecque)、1970年代に入ると経済的に恵まれない地域で文化を広める仕事をして、シネ・クラブの運営、展示の企画などをしたり、青少年の文化センターの運営などに関わったりしていました。1976年からは国立シャイヨー劇場で広報の仕事につきました。それは、残念なことに、ジャック・ラングJack Langが当時の文化大臣ミシェル・ギーMichel Guy(註 フェスティヴァル・ドートンヌを1972年に創設した人物)に劇場を追われた後のことでした。これまた残念なことに、離れた翌年に演出家アントワーヌ・ヴィテーズAntoine Vitezが支配人に就任した(笑)。

 そうして1979年、29才のときに、パリ近郊マルヌ=ラ=ヴァレ市(Marne-la-Vallée)のフェルム・デュ・ビュイソン(*1)の立ち上げにディレクターとして関わりました。当時はまだ現在のように文化施設も整備されておらず、雑草が生い茂り、荒れ果てた土地の中に、19世紀に建てられた美しい農場の建物が残っていました。マルヌ=ラ=ヴァレのような大規模な新都市を整備するにあたっては、そのための公設法人をつくり、その一貫として、文化省は劇場を中心とした文化施設を新設することを方針としていたのです。そこで、建物の改修・再利用の計画から、その空間を生かした活動内容の計画まで、複数の人間を集めて白紙の状態からすべて考え出しました。

 建物が整備されるまでは、「壁の外(hors les murs)」、つまり屋外での活動が必然的に中心となりました。そうしてミシェル・クレスパンMichel Crespinとともにリュー・ピュブリック(Lieux publics、「公共の場」の意味)(*2)を創設することになったのです。リュー・ピュブリックは1990年にマルセイユに移転した後、現在では大道芸都市の中核をなし、大道芸の創造に関するフランスの中心となった組織です。ジンガロZingaroやドロメスコDromeskoのようなカンパニーをレジデンスに迎え、彼らはその間、実際にフェルム・デュ・ビュイソンでキャラヴァン生活を送りながら創造活動をしていました。まだ電気や暖房も完備していなかった頃の話です。フェルム・デュ・ビュイソンの文化施設を正式にオープンさせ、4シーズンほど責任者を務めた後で、やれることをみんなやり遂げたという達成感とともに、1995年、ONDAのディレクターに就任しました。
フランスでは若手を抜擢して、大きな責任を伴う仕事を任せる伝統があるのは知っていますが、29才は早いですね。日本ではまず考えられません。
 今ではフランスだって充分に「日本化」していますよ。あの頃はそういう時代だったのです。1970年代当時は、まだ文化政策も発展途上にあって、新しい芸術の場が次々と生まれていました。私たちを縛るような前例もなかったし、うるさい先達もいませんでしたし、私たちの人数自体、そう多くはありませんでした。理想郷をつくり出そうとして、すべてが自由にできた幸せな時代でした。今では、文化面における国土整備はほとんど完成してしまっていますし、専門教育を受けた人たちがあふれていますから、状況はまったくちがいます。1981年にミッテラン政権が生まれて、ジャック・ラングが文化大臣になり、文化予算を倍増以上に増額させ、1970年代にすでに萌芽が見られた変化を決定的に後押ししました。1970年から90年の間に、フランスの文化環境は完全に変わったのです。
1995年当時、ONDAはどのような組織だったのですか。
 とても率直に言って、状態はあまりよくありませんでした。ONDAは、当時の文化大臣ミシェル・ギー、アミアン文化の家Maison de la Culture d’Amiensのディレクターだったフィリップ・ティリーPhilippe Tiryによって、1975年に創設された組織です。その後、20年間、ティリーがディレクターを務めていました。退任したときには70才でしたから、やや長すぎたのです。ティリーはゼロからONDAを立ち上げ、組織としてのミッション、精神、活動の方法論を生み出した、感謝すべき存在です。ただ、1995年当時は組織としては下り坂であったことにはちがいなく、文化省によって廃止されてしまう危険さえあったのです。
設立当初のONDAのミッションは、どのようなものだったのですか。
 1970年代には、地方においても、文化の家のほかにも、地方自治体や民間のイニシアティヴによって新しい舞台芸術施設がつくられていました。ただ、それは全体としてコーディネートされた動きではなく、その活動内容や上演作品にもばらつきがあり、舞台作品の供給に問題を抱えていました。一方では地方巡演を通じて舞台作品の供給をするとこと、つまり、当時の言い方をすれば、地方巡演を通じて「質の高い」、高い要求水準に応える作品の上演を可能にすること。もう一方では、関係者が集う会合の開催を通じてこれらの組織と関係者をネットワーク化することが当初のミッションでした。作品の地方巡演に対する助成を行うこと、関係者をネットワーク化して、関係者同士が知り合いになって一緒に何かをしようという気持ちを持たせることが重要だったのです。
ジャネルさんがディレクターになって以来、それがどのように変化したのでしょうか。
 まず、活動の原則における大きな変化があります。1995年にはもはや「質の高い」という言い方は大きな意味を持つものではなくなっていました。ONDAの予算は多くはありません。その限られた手段を「現代創造(création contemporaine)」(*3)と私たちが呼んでいる、アーティストにとってもプロデューサーにとってもリスクのある表現、その作品普及に対する支援に集中投下することにしたのです。文化省もそうした提案をすぐに承認してくれました。

 さて、ONDAの活動の柱のひとつは、各種会合の開催を通じたネッワーク化です。年間を通じて50回ほど開催し、2000人を超える舞台芸術関係者が参加しています。その中心になるのはRIDA(Rencontres interrégionales de diffusion artistique、芸術普及地方間会合)と呼んでいる、異なる地方都市で開催する全体的な会合で、これは創設以来、続いているものです。フランスにある劇場の全体に関わるものですが、最近は国境地域で開かれる会合を筆頭に、国外からの参加も増えています。会場を提供する劇場をパートナーとして、協力して2日間のプログラムを決定します。私の代になって、このRIDAに加えて、テーマ会合(Rencontres thématiques)と呼んでいるダンス、サーカス、大道芸、音楽などの領域別会合も設置しました。音楽、サーカス、大道芸はかつて抜け落ちていた部分です。たとえばダンスの会合には100〜150人の制作者が参加しますが、そのなかにはアニタ・マチューAnita Mathieuのようなキー・パーソン、リヨン・ダンス・ビエンナーレBiennale de la danse de Lyonなどの重要組織が含まれます。2日間参加するだけで、現代創造とそれを担うインディペンデントの芸術家についてのきわめて網羅的な知識を得ることができます。アンジュラン・プレルジョカージュAngelin Preljocajやジョゼ・モンタルヴォJosé Montalvoのようなよく知られたフランスのアーティストのことを話題になどしませんよ。今日のフェスティバルのプログラムはどこでも、ロメオ・カステルッチ、ハイナー・ゲッベルスHeiner Goebbelsのような国際的スターと、岡田利規のような国外から招聘される新進芸術家とに二極化していて、その中間領域が充分ではありません。そこを埋めるのに、こうした集会に参加して、情報を得ることはたいへんに役立ちます。

 さらに、国際交流にも力を入れています。私がディレクターになる以前にもすでに国外で制作された作品のフランスへの受け入れに対する支援も半ば非公式の状態でなされていましたが、これを業務の柱として正式に位置づけたのです。そうした作品の受け入れについての助言、財政支援、字幕作成費助成を行っています。プログラム担当者を国外のフェスティバルや見本市に派遣することも行っています。カステルッチCastellucci、ピッポ・デルボノPippo Delbono、tg STAN、ロドリゴ・ガルシアRodorigo Garciaのようなアーティストがフランスで知られるようになったのは、私たちの貢献が大きいと自負しています。

 一方で、文化省に対して、国際交流、言い換えればフランスのアーティストの「輸出」にもっと関心を持つように働きかけています。「輸出」という語に抵抗のある人が多いことは知っていますが、あえて使っています。国際交流は、主に外務省とその監督下にあるアンスティテュ・フランセInstitut francais(*4)が第一義的には担っており、文化省にとってはまずアンスティテュ・フランセの活動にもっと関心を持つことが重要ですが、フランスのアーティスト全体を管轄する文化省だからこそ、独自にできることもあると言い続けています。「Focus」と呼ばれる、演劇、ダンス、青少年演劇などのショーケース、アヴィニョン演劇祭でも「アーティストのサロンSalon d’artistes」と名づけたショーケースをもっぱら国外のプログラム・ディレクター向けに開催しています。先ほどの会合も、国外で開催することも増えましたし、国外からの参加も増えています。
現在のONDAの組織のあり方について詳しく教えてください。
 ONDAは文化省から400万ユーロほどの助成金を受けて運営されています。これは中規模の国立舞台Sce`ne nationaleの予算でしかありません。国内の劇場全体、すべての舞台芸術ジャンルをカヴァーし、そして国際交流までも扱っているわけですから、非常に効率的な組織です。スタッフについては8人の舞台芸術のプロフェッショナルを中心に、そのほか総務・経理担当者や事務職員を合わせて全部で17人が働いています。この8人で年間1200本ほどの作品を見て、年間700件のアポイントメントをこなしています。文化省以外の省からの助成金や、民間企業からのメセナはまったく受けていません。私たちの地道な活動は、残念ながら民間企業にとっては充分な可視性がないのです。一方、文化省は私たちを完全に信頼してくれています。活動内容について何かを命じられたこともなく、完全な自由度が認められています。歴代の文化大臣はみな、ONDAを完全に自由に活動させた方が利益にかなっていることを理解しているのです。

 ONDAはIETMのような会員制をとっているわけではありません。「組織された非公式性」とでもいいましょうか、緩やかな結びつきを形成しています。年月とともに大きく育っていったネットワークがもちろん存在しており、毎年、私たちの会合にはのべ1900組織ほどが参加しています。しかし、これは排他的なものではなく、常に新しい仲間が加わっていきます。また、すべての劇場がすべての会合に参加しているわけでもありません。私たちから支援を受けている劇場さえすべてに参加していないのは、残念ではありますが。

 ONDAの本部はエキスパートの集まりである以上に、舞台芸術のプロフェッショナルの集まりです。エキスパートがみんなプロフェッショナルだというわけではありません。私のもとで仕事をしている8人はみな、演劇センターや振付センターなどでキャリアを積んできた舞台芸術のプロフェッショナルばかりです。私たちは、一緒に仕事をするパートナーが直面している問題意識を完全に共有しています。私たちもパートナーも互いに同僚だという意識を持っています。ONDAがアヴィニョン演劇祭で開催した会合には400人が集まりました。アヴィニョン演劇祭のときに開催される会合は数多あれど、これだけ参加者が集まる会合はほかにありません。みんながONDAのことをわが組織として思ってくれていることの表れだと思います。
緊縮財政の影響は受けていませんか。
 影響をまったく受けていないわけではありませんが、国立劇場などもっと影響を受けているところに比べると私たちの活動は相対的に守られていると思います。ただ文化予算が不足していることは確かだし、予算なしには何もできませんから、特に、近年のインフレーションによって実質的に予算が減少た分を取り戻すことは正当だし必要なことです。その一方で、今日のような状況で、改革なしに予算を増額することもまた無責任なことだと思います。

 フランス型の文化政策モデルもある時期にはうまくいっていました。文化に対するフランスの公的支出は伝統的に際立つものでしたが、文化政策モデルというのは予算規模だけのことではありません。フランスはひとつの「例外」あるいは「模範」として、対外的にも高く評価されてきました。しかし、現在はそれもやや古びてしまい、新しい時代の要求に対応しきれずにいる印象を受けます。予算を獲得すること以上に、新しい活力を常に採り入れられるような制度を、もう一度つくり出すことが重要だと思います。

 たとえば今日、国立演劇センター、国立振付センターなどの制度化された劇場は、インディペンデント・カンパニーのセクターから乖離してしまっています。たとえば、確かに国立振付センターにおいて、「ステュディオ受け入れAccueil studio」(インディペンデント・カンパニーをレジデントとして一定期間受け入れ、創造環境を提供すること)は義務づけられていますが、それによってカンパニーが受けとる金額は微々たるものですし、それは共同制作に劇場が名を連ねることを約束するものではまったくありません。国立振付センターの多くはその点について充分にミッションが明確化されていないために、共同制作を通じてカンパニーを支援することまで自分たちの義務だとは必ずしも思っていないのです。しかも、もっとも刺激的な仕事をし、活気があるのは疑いなくインディペンデント・カンパニーのセクターの方なのですが、こうしたカンパニーは創造のための場を持たず、稽古場と制作資金を提供してくれる劇場を探さねばならず、常に不安定な状況におかれています。インディペンデントとはいうものの、制度から独立できずにいるのです。こうした若手のカンパニーこそ支援を必要としているのであり、彼らの活動が持続可能なものになるようにいかに支援するかを新たに考える必要があります。フランダースをはじめ、ヨーロッパには若手の支援についてうまくいっている例がほかに存在するのですから、そこからもっとアイディアを採り入れることができるはずです。
国際交流に関して、アンスティテュ・フランセとはどのように役割を分担し、協力し合っているのですか。
 両組織ではそもそも規模もメンタリティ・雰囲気も何もかもまったくちがいます。アンスティテュ・フランセの方が、カバーする領域ははるかに広く、職員数も予算規模(2011年度は5260万ユーロ)も桁違いに大きいわけです。私たちが国際交流に当てているのは予算(400万ユーロ)の約25%ですが、アンスティテュ・フランセは100%国際関係のための組織で、その予算の約30%が舞台芸術関係です。向こうはまた、「外交」のための組織ですが、私たちには「外交」に配慮する意識はまったくありません。むしろ「市場」として国際交流をとらえる立場から、活動を展開しています。もちろん、それがただの市場ではないことを承知した上で言っています。つまり、私たちは舞台芸術のプロフェッショナルであり、率直に言って、フランスの舞台芸術界について持っている知識、見ている作品の数、劇場との間に築いている信頼関係、どれをとっても私たちの方が勝ると確信しています。

 両組織は対立しているわけではなく、補完関係、協力関係にありますが、ときに相互の間に無理解や緊張関係が生じることまでは否定しません。そのため互いの協調と分担のあり方を明文化した協定書を準備しているところでもあります。ただ、監督官庁の外務省と文化省ではやはり目的が異なります。外務省は、17世紀のルイ14世の時代から続く伝統の延長線上にあって、フランスの対外的影響力を維持し、増大させるための組織です。アンスティテュ・フランセには文化省も予算のごく一部を拠出していますが、実質的には外務省の完全な監督下におかれています。私は「文化外交」の時代はもはや過去のものだと考えています。「フランス年」や「日本年」などは文化外交ですが、これは文化交流とは何の関係もありません。ビスケットの輸出の問題が、外務省よりも産業省の方が適切に扱えるように、フランスにおいて文化交流は外務省よりも文化省の方がよりよく扱えるというのが私の考えです。もちろん、外務省には在外公館をはじめとする世界的ネットワークがすでにあって、私の考えていることの実現が容易でないことはよく分かっていますが。
ONDAの財政的支援は「財政保証」といわれていますが、これは助成金とはどう違うのでしょうか?
 まず、これはアーティストではなく公共劇場がプロジェクトごとに申請するもので、厳密には助成金ではなく、助成金を補完する役割をもっています。もっぱら中小規模の劇場が芸術的・経営的にリスクのある作品を上演する場合を想定していますが、あくまで作品の普及に対する支援であり、劇場の運営費に対する助成ではまったくありません。運営費助成には文化省や自治体が責任を持つべきであり、私たちが心配することではないからです。支援を決定した作品の上演が終了した後に、劇場は私たちに決算報告をします。決算の数字に基づいて、当初よりも支出がふくらんだり、あるいはチケット収入が見込んだほどでなかったりして損失が出たときに、損失の一部を補填するのに財政保証が役立てられます。

 赤字が出てもONDAから財政的に支援が得られること、芸術的なお墨付きがあることがあらかじめわかっているので、劇場はこうしたリスクのある作品をプログラムしやすくなります。仮に興行としてあまり成功しなくても損失を限定的なものにとどめることができますし、監督する立場の上司や役人・政治家に説明がしやすくなります。1件あたりの金額は2000ユーロ程度、2010年度はのべ1173件の支援を行いました。予算のあまりかからない青少年演劇が含まれているので余計に低く見えるのですが、いずれにしても多額ではありません。しかし、この支援の枠組みはインセンティヴとしての役割を果たし、非常にうまくいっている試みです。
どのようなアーティストが支援の対象になっているのですか。若手が多いのでしょうか。
 支援の主たる対象は、若手であろうとなかろうとこうした支援を必要としていると私たちが考える芸術家です。たとえば私たちはジョエル・ポムラJo¨el Pommeratの作品を長年にわたって支援してきました。重要な芸術家であり、支援を必要としていると考えてきたからですが、今では彼は私たちの支援を必要としないほど確固たる地位を築きました。また、金銭的リスクがある、というだけでは支援の理由にはなりません。フィリップ・ドゥクフレPhilippe Decoufléもジンガロも太陽劇団Théâtre du Soleilも呼ぼうとすれば金はかかりますが、だからといって呼んだ劇場は芸術的なリスクを負うことにはなりません。逆に、フランソワ・タンギFrancois Tanguyは彼らに劣らない芸術家だと私は思っていますが、彼の作品を私たちは今も支援し続けていますし、フランスの「人間国宝」と呼べるクロード・レジClaude Régyもほんの少し前まで私たちの支援を受けていました。
日本にミッションを派遣する計画があるそうですね。
 まず2012年2月のTPAM in Yokohamaに、アンスティテュ・フランセと共同して、フランスの芸術家のプロモーションをしている民間の舞台芸術制作団体の人間を何人か連れて行く予定です。国際見本市がいかに組織され、機能しているか、日本の舞台芸術界の特質はいかなるものか、彼らに知ってほしいと思っています。これはモントリオールのCINARSでもすでに試みたことなのですが、彼らにとってきわめて有益な経験となりましたので、もう一度試してみたいと思っています。その後、2013年秋のフェスティバル/トーキョーには、予算が確定していないのではっきりとはいえませんが10〜15人くらいの劇場やフェスティバルのプログラム担当者を連れて行きたいと思っています。
日本にお迎えできるのを楽しみにしています。どうもありがとうございました。

*1 フェルム・デュ・ビュイソン erme du Buisson
パリの東方約30キロ、マルヌ=ラ=ヴァレ地区に1990年にオープンした舞台芸術を中心とした複合文化施設。19世紀末より操業していたチョコレート会社の工場跡を中心に、800席の大劇場及びコンサートスペース、2つの映画館、7つのホールがある文化センターなどで構成。建物は1986年に歴史的建造物に認定されている。
https://www.lafermedubuisson.com/

*2 リュー・ピュブリック Lieux publics
1983年に創設された都市の公共スペースにおける大道芸に関する組織。設立当初はフェルム・デュ・ビュイソンに本部を置いていた。1990年にマルセイユに拠点を移し、フランス文化・コミュニケーション省、マルセイユ市などと連携して文化事業を展開するようになる。2001年より、作曲家で「デコール・ソノール」を主催するピエール・ソバジョーPierre Sauvageotが代表を務めている。

*3 現代創造 création contemporaine
ONDAによる現代創造への支援は、2010年事業実績で580団体749公演、総額約250万ユーロとなっている。

*4 アンスティテュ・フランセ Institut francais
旧AFAAを改組したキュルチュールフランスを、日本では日仏学院・学館として知られているフランス学院の世界的ネットワークと統合して2011年に発足した。

ONDA(フランス芸術振興会)
Office national de diffusion artistique

1975年に設立された非営利組織。パリ9区に本部を置き、フランス文化・コミュニケーション省より補助金をうけ、舞台芸術文化の育成と交流を促進する活動を展開している。所長はシルヴィー・ユバックSylvie Hubac。
https://www.onda.fr/

この記事に関連するタグ