プラディット・プラサートーン

タイ版『赤鬼』が契機となった
バンコク・シアター・ネットワーク

2009.10.28
プラディット・プラサートーン

プラディット・プラサートーンPradit Prasartthong

俳優、演出家/マカムポン劇団事務局長、芸術監督、プログラム・ディレクター/バンコク・シアター・ネットワーク事務局長
タイでは、生活に根付いた伝統舞踊や人気のあるスターを起用した商業演劇が盛んであるのに対し、小劇団による現代演劇も数は限られているものの重要な活動を行っている。そうした劇団のリーダー格であり、積極的なコミュニティ活動を行っている劇団マカムポンの代表が演出家で俳優のプラディット・プラサートーン(Pradit Prasartthong)だ。

野田秀樹がワークショップを行い、1997年に発表したタイ版『赤鬼』を契機に立ち上がったタイの演劇人による「バンコク・シアター・ネットワーク」や、マカムポンの活動について彼に聞いた。
聞き手:千徳美穂[NPO法人メコンクラブ理事・事務局長]/2009年10月9日、バンコク市にて
まず、演劇との関わりを中心に自己紹介していただけますか。
 名前はプラディット・プラサートーンです(笑)。子どもの頃から、母親に連れられて頻繁に劇場に行き、よくタイの古典仮面舞踊劇のコーンを観ていました。それで、タイの伝統芸能に憧れを抱くようになり、スアングラーブ高校に進んでから、コーン以外にもタイの伝統音楽や演劇などを学ぶようになりました。
僕がタマサート大学(1970年代に学生の民主化運動の拠点になったことで知られる大学)に進み、そこの社会学部で人類学を専攻しながら、演劇サークルで活動しました。僕が大学生だった1970年代後半から80年代にかけては、政治情勢がとても混乱していて、ラコーン・ガンムアン(政治劇)が盛んに行われていました。1973年の学生革命で勝ち取った文民政権が短命に終わり、軍部によるクーデターを経て再び軍事政権が始まっていたのです。その頃、政治家で、文学者・演劇人だったククリット・プラモート先生(1911〜95:1975〜76年に首相を務めたタイを代表する知識人のひとり。1990年福岡アジア文化賞創設特別賞受賞)と出会いました。私は、コーンの王子役と猿役の両方を自由に演じることができるのですが、それはプラモート先生が僕に猿役をやらせてくださったからです。コーンでは通常、身体的な特徴などから王子役、猿役、鬼役などの役に振り分けられ、その型を徹底的に練習するという役者の養成方法をとっているので他の役を演じることはないのですが、プラモート先生は学生の資質を見て自由に配役される人だったので、猿役をやらせてもらえたのです。私は、今でもタイの伝統音楽の演奏やコーンの演出のルールをよく破るのですが、きっとその影響があるのだと思います。
1970年代の政治と演劇の関わりについて、もう少し詳しく聞かせてください。
 学生革命で彼らの力を知った軍事政権は市民や学生への締めつけを強化し、政府に反対した農民が誘拐されたり、殺されたりするケースもありました。そうした深刻な問題を取り上げることを考えたときに、ただ、人々に口で社会や政治の問題を伝えるよりも、演劇という形で取り上げるのが一番説得力がある。だから、私も自分で台本を書き、いろいろな公演をやりました。警察に逮捕されるかもしれない、反対勢力から襲われるかもしれないということもあり、とても怖かったのですが、とても充実していました。
この頃から、ボランティアとしてマカムポンという劇団の活動に参加していました。マカムポンが取り上げる戯曲にとても感動したので、大学卒業後にここに入団しました。現在は、事務局長、芸術監督、プログラム・ディレクターを兼務しています。
マカムポンの活動について紹介してください。
 マカムポンは政治への関心が強い集団です。元々は、社会的弱者、地方の人々などタイ国の庶民の声を反映した内容のお芝居をやっていましたが、私が入団した頃には、コミュニティと関わる活動をするようになっていました。特にコミュニティにおける教育との関わりが深くなっていました。現在のマカムポンの活動は4つの部門に分かれています。
1.コミュニティ・シアター部門
草の根レベルの演劇公演を実施し、コミュニティや地方を啓発することを目的としています。つまり、コミュニティ活性化のための演劇活動です。このプロジェクトは、地方でも都市部でも実施しています。
2.演劇教育部門
草の根レベルにおいて、教師と学生を対象に演劇を媒介とした活動を実施しています。学校外で行われる活動も含まれています。
3.公演部門
これは私が責任者として直接担当している部門です。パフォーマンスを介して、社会や共同体のコミュニケーションを促そうとする活動です。
4.国際部門
海外の演劇関係者との交流を深めるプロジェクトを実施する部門です。国内でのイベントも実施しますが、参加者はタイ国内からだけではなく、海外の演出家や役者たちも参加して、公演やワークショップの実践によってさまざまな交流を深めています。
マカムポンはどのような組織になっていますか。
 マカムポンは1980年に設立され、2005年に財団化しました。5人の運営委員と10人のディレクターがいて、プロジェクトごとに20〜30人のスタッフもいます。運営委員には毎月決まった給料が支給されますが、プロジェクト・ディレクターやプロジェクト・スタッフは、プロジェクトベースの出来高制の報酬です。無報酬のボランティアもいます。 ──現在展開中のプロジェクトについて教えてください。
 非常にたくさんのプロジェクトを展開しています。くたびれるほどたくさんあります(笑)。例えば、日本公演に向けて製作中の『赤鬼』もそのひとつです。このプロジェクトでは、“Art of Peace”という理念に基づいて作品づくりをしています。この作品をとおして、タイ南部で起きている民族問題の解決に貢献できればという思いがあり、南部地方のナラティワート、パッタニー、ヤラーの3つの県の音楽を用います。“赤鬼”という異質なものに対する差別意識は、イスラム教徒と仏教徒の問題にも通じるところがあります。
別のプロジェクトでは、ミャンマーの難民と活動をしています。また、演劇やワークショップ、公演をとおして、家庭内暴力という問題に取り組んでいます。
ミャンマーのプロジェクトでは、演劇公演を観るだけでなく、彼ら自身にも演じてもらうのですか。
 そうです。ミャンマーの難民にも自分で演じてもらいますし、家庭内暴力の被害者には、どうして家庭内では幸せを感じることができないのか、どうして夫が暴力を振るうのか、などの問題の原因を探るために、芝居を演じてもらいます。当事者が自分で役を演じて、一緒に芝居をつくることで、彼らと直接対話することができますし、彼らに本音を語ってもらうことができるのです。それから、彼らに語ってもらった話などを集めて、私が演劇公演として完成させていきます。
演劇を観るだけでなく、自身で演じてもらうのはなぜですか。
 彼らに演じてもらうのは、彼らに対するインタビューをするようなものです。口でインタビューをする代わりに、アクションでインタビューをするということです。また、演じることにより、どういうアクションをとれば第三者にわかってもらえるのかを、彼らは自分で考えなければならなくなるのです。芝居をつくる過程で、議論したり、相談し合ったりすることで、協力や互いに理解し合うということがどういうことなのか、わかってきます。芝居をとおして一般の人たちに自分たちのことをわかってもらえたり、自分たちの話に耳を傾けてもらえるようになる。最終的に、彼らは自分自身に対する自信と誇りをもてるようになります。それに、彼らの中に溜まっているストレスも軽減される。芝居をとおして、自分自身のことを見つめて、いろいろなことが学べるのです。
そして、今度は私たちが手を貸して、彼らの話をより芸術的な演劇作品につくり上げます。そうすることで、当事者の彼らにしてみれば、自分たちのライフヒストリーもこんなに立派なドラマになるのだと、自分に対する自信がもてるようになるのです。また、観客の側から見れば、彼らのことを知ることができるようになるのです。
1997年のタイ版『赤鬼』についてうかがいます。これは、国際交流基金がアジアと日本の演劇人の交流と共同制作を目的にスタートした「アジア舞台芸術家交流・研修事業」の1回目(世田谷パブリックシアターとの共催)としてプロデュースされました。野田秀樹さんとタイ人俳優がワークショップをしてつくりましたが、これをきっかけに「バンコク・シアター・ネットワーク」が立ち上がるなど、タイの現代演劇の転機にもなりました。プラディットさんはその時の『赤鬼』に出演されていますが、初めて野田さんと交流されたときにどのように感じましたか。
 最初に野田さんとお会いしたときには、近寄りがたくて怖い人という印象を抱きました。実際はそんなことはないのですが、タイの俳優である私たちから見ると、野田さんはとても偉大な演出家ですから。一般的にタイでは、権威と言われる演出家たちに接すると、敬う気持ちが強すぎて、恐れてしまうのです。野田さんに対してもそうでした。ただ、一緒に働ける絶好のチャンスだと思い、企画に参加することにしました。2日間一緒にワークショップをやったのですが、ワークショップをやると相手がどんな性格の人間なのかわかってきます。野田さんからたくさんのことを学ぶこともできますし、たとえ選ばれずに一緒に仕事をする機会がなかったとしても、長い付き合いのきっかけになる。オーディションで選ぶのではなく、ワークショップをやった野田さんと私は同じ考え方だと思いました。
タイ人は、いくら仕事だといっても、演劇は“Play”という言葉どおりに、遊びという感覚でやっているところがあります。純粋に仕事としてとらえるのではなく、芝居は楽しみながら演じるものだと私たちは考えています。最初、私たちのこの考え方が日本人スタッフにはどうしても理解できなくて頭を痛めていました。日本人には、お芝居をやるときに、真面目に稽古に取り組み、ちゃんと時間と規律規範を守らなければならないという意識がありますよね。ところが、タイ人の役者たちはそうではありません。時間を守らないことはしょっちゅうですし、台本をちゃんと覚えてこないことも度々あります。いつも遊び感覚で芝居に取り組んでいます。遊びすぎてしまうことがあるのは問題ですが(笑)。
ところが、野田さんはとても頭がいいので、タイ人の役者の働き方を観察して、それを理解しようとされました。最初に、「タイ人の役者と一緒に仕事をするときに、一番困ることって何ですか?」と質問してきました。私は、「自分の仕事に対する責任感が欠如していることだ」と答えました。タイ人の気質として、仕事をする時に真面目になりすぎることをあまり好ましく思わない傾向があるのです。外国人がタイ人と一緒に仕事をする際には、まずそのことを理解する必要があると思うと話しました。
そのためか、野田さんは、タイ人の役者たちと稽古を始める前に、ゲーム、フットボール、バスケットボール、日本の伝統的な遊びなどを取り入れました。野田さんのそういう、人間同士が交流するとはどういうことかをわかっているところが凄いと思います。
他の国の演出家と仕事をしたことがありますか?
 あります。欧米の演出家と一緒に仕事をするときには、意見の食い違いが頻繁に発生します。例えば、芸術に関する美意識そのものの違いがあったりするのです。ドイツ人はきっちりルールを守り、一度書いた脚本を絶対に変えないという融通が利かないところがあります。芸術は化学とは違う。芸術はその時の役者の気分、その場の気候、雰囲気など、たくさんの要素に合わせていくらでも変えられるものだと思います。アメリカ人演出家は、技術や枠組みにこだわりすぎます。その代わりに、台本の中身をあまり重視しない傾向を感じます。私は、体の動きによる身体表現をとても重視しているので、意見が対立してしまいます。日本人の場合は、作品を完璧に仕上げようとする志向が強いですね。
一方、タイ人は、役者も演出家も、多分アジアの場合は大方、舞台の上では大げさに演技をすることを好みます。舞台では、大げさに演技するほうが観客から見るとリアルに見える、魅力的に見えると思っているからです。こうした考え方が同じなので、香港、台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ベトナム、カンボジア、ラオスなどの人たちと一緒の仕事はとても楽しかった。特にラオス、カンボジア、ミャンマーの人たちとはとても気が合います。ラオス、カンボジア、タイで共同プロジェクトをやったときには、皆それぞれ自分たちの言葉を話し、英語を一切使いませんでした。もちろん、通訳が付いていましたが、民族が違っても不思議なことに通じる言葉があるんだなと思いました。 ──バンコク・シアター・ネットワーク(以下、BTN)について、もう少し詳しく教えてください。『赤鬼』の前には、違う劇団に所属しているタイの演劇人同士の繋がりはあまりなかったと聞きましたが。
 そうです。元々タイ人の俳優たちはエゴが強く、プライドも高いのであまり交流がありませんでした。しかも、いくつかの劇団が年1、2作品しか発表しない状態で、観客の数も限られている。そんな状態だと現代演劇を一般のタイ人に広めることはできません。それぞれが活動するだけでなく、もっと交流して、頻繁に作品を発表できる環境をつくることが大事だと思いました。それで、1992年頃に演劇のネットワークをまとめようと呼びかけことがあるのですが、失敗しました。その後もう一度やったのですが、それもうまくいかなかった。『赤鬼』が3回目のチャンスでした。日本公演のとき、野田さんを中心にみんなが集まり、毎晩パーティーのようで、昼も夜も共に過ごしました。こうして仕事だけではなく、人間同士の付き合い、交流が深まり、BTNをつくろうと初めてみんなの意見が一致しました。
このネットワークが出来た背景として、もうひとつふれておかなければいけないのが、当時、国際交流基金のバンコク日本文化センター所長だった小松諄悦さん(現・渋沢栄一記念財団常務理事)の存在です。小松さんはタイ人よりも熱心にタイの演劇に興味をもってくださった方で、タイの演劇についての情報が必要になるとよく私に電話をくださいました。それで私も情報を集めるために、他の劇団と頻繁に連絡を取り合うようになりました。そうしている間に、私と他の劇団との間に信頼関係ができていきました。もし、こうした信頼関係ができていなければ、ネットワークはつくれなかったと思います。
BTNは、まずマカムポンなど10劇団のメンバーで立ち上げました。その後12劇団になりましたが、今はまた10劇団に戻っています。積極的に活動しない劇団は除名するという決まりもあります。2002年に組織化しましたが、まだ正式な法人格をもったわけではありません。将来は財団化できればと考えています。また、個人会員としては、大学の演劇関係の教員(10大学から約30名)、報道関係者、ジャーナリスト約50名がメンバーになっています。会費は無料ですが、広報やセミナーなどに協力してもらっています。学生がフェスティバルやボランティアスタッフとして協力することで単位が習得できる大学もあります。
BTNは会費制で運営されていて、特別会員(運営委員)が年間2,400バーツ(約6,500円)、一般会員が年間1,200バーツ(約3,250円)です。非常に安い会費なので、これだけで運営できるわけではなく、常勤職員もいません。事務所も知り合いの所に間借りしている状態です。ただ、実績を積んできたおかげで、今年からバンコク・シアター・ネットワーク・プロジェクトとしてタイ政府関係の組織から支援を受けることができそうです。
BTNの目的は何ですか。
 重要な目的は、タイの演劇人と演劇界を強化することです。それを達成するために、観客、マスコミ、アーティスト、評論家、教育者、さまざまな立場の人たちに主要メンバーとして関わってもらっています。
現在取り組んでいる主要な活動は何がありますか。
 中核事業として取り組んでいるのが、演劇の社会的認知度を上げるために約30劇団が参加して2002年からスタートしたバンコク・シアター・フェスティバルです。
それ以外にも、年間をとおして、劇団や公演の運営に関するセミナーや演技や芝居に関するワークショップを行っています。違う劇団同士でコラボレーションを行い、作品を発表することもあります。今回、東京で上演する『農業少女』もその一例で、東京芸術劇場とBTNの共同制作であるだけでなく、違う劇団に所属しているタイ人の俳優同士のコラボレーションでもあります。
今回のBTNと東京芸術劇場との共同制作について伺います。まずは経緯からお話ください。
 東京芸術劇場の副館長である高萩宏さんから、野田さんの作品を演出しないか、というお誘いをいただきました。それで私が直接演出するのではなく、タイの優れた演出家のチャンスになればと思い、BTNと相談し、今年の3月に野田さんを迎えてバンコクでワークショップを行いました。このワークショップの後、演出をしたいと申し出た人が7人もいました。その中で、私が特に、野田さんの作品を演出するとおもしろくなるだろうと思ったのは、ナット・ヌアンペーン、ニコン・セタン、ダムケン・ティタピヤサックの3人です。ナットはとにかく野田さんの作品をよく知っています。ニコンは演出力が抜きん出ている。ダムケンは外国の作品をタイらしい芝居につくり上げる翻案に長けています。みんな優秀な役者であり、演出家です。ニコンが演出しますが、ナットもダムケンも役者として参加しています。出演者はBTNのメンバーからワークショップをして私たちのほうで選びました。作品も、野田さんの作品のプロットを7作品ほど訳してもらい、その中から自分たちで『農業少女』を選びました。タイとの共通点が一番多いと感じたからです。
『農業少女』は現代演劇のスタイルですが、プラディットさんが演出されるマカムポン劇団の『赤鬼』は伝統的な大衆喜劇リケエのスタイルです。どうしてリケエで上演しようと思ったのですか。
 リケエはタイの社会と共に発展してきた芸能です。タイの伝統を守りながらも時代遅れにならずにその時代に生きている数少ない芸能なのです。野田さんの作品を自分の手で演出するならこの手法しかないと、高萩さんからお話をいただいたときにすぐに思いました。
リケエはマレー、すなわちイスラムの文化に起源をもった芸能です。だから、タイでもマレー系の人たちが多く住む南タイを舞台にした作品にするとピッタリくると思いました。そうそう、今回は日メコン交流年の記念事業とのことだったので、メコン川沿いの村を舞台にすることも考えたのですが、そうすると流れていったビンはもう戻ってこないんですよね(笑)。だから、やはり南タイの海辺の村を舞台に、タイ人にとっても異国情緒を感じるような音楽を使った作品にしようと考えました。 ──今回の『赤鬼』『農業少女』は、今年のバンコク・シアター・フェスティバルのプログラムとしても上演されます。
 フェスティバルのハイライトになっています。フェスティバルで演劇人同士の交流を図ろうと考えていたので、2〜3年前まではバンランプーにある劇場スペースに会場を集約していました。最近は他の地域でも上演を行うようになり、『赤鬼』はバンコク市内にあるジム・トンプソン・ハウスで、『農業少女』はタイ文化センターで上演します。
バンコク・シアター・フェスティバルについてもう少し詳しく教えてください。
 このフェスティバルは、2002年に「バンコク・シアター・シーズン」としてスタートし、翌年にバンコク・シアター・フェスティバルに改称しました。現在、フェスティバルのスポンサーとなっているのは、タイ健康増進財団(Thai health Promotion Foundation)、タイ文部省、バンコク都が主なスポンサーで、資金援助だけでなく、公演会場の提供や広報協力などでも支援してくれています。
今年で8回目になりますが、活動の幅は相当広くなりました。現在、BTNに所属している劇団が3、4カ所の小劇場を運営しているので、そうしたなるべく小さなスペースを会場にして運営しています。このフェスティバルをきっかけに、私たちの劇団や活動を見てもらいたいと思っているからです。今年は50作品ほどが小さなスペースで上演される予定です。昨年は110作品あったので、50作品は多くはありません。フェスティバルに参加する場合は、1作品につき、野外公演500バーツ(約1,360円)、劇場公演1,000バーツ(約2,730円)、特別会場公演1,500バーツ(約4,090円)の参加費を払ってもらいます。さらに、チケット売上の10パーセントをBTNに寄付することを義務付けています。
タイでの小劇団の運営の課題は何だと思いますか。
 職業アーティストが少ないというのが最も課題だと思います。マカムポンの俳優は職業としてフルタイムで稽古がやれますが、それ以外のほとんどの劇団の役者たちは、昼間は生計を立てるための仕事をして、終業後に夜稽古をするので、みんな疲れてしまう。ただし、今度行う『赤鬼』リケエ・バージョンでは、リケエの演技や特別な歌、踊り、音楽の技術が必要で、その人たちはパートタイムでしか劇団に来られない人たちだったので、稽古は仕事が終わってからの時間になりました。
後は政府からの継続的な財政支援です。私たちが運営している劇場の重要性を認識してもらい、何とか維持費を支援してもらいたいと切望しています。今の政府と話し合ったところ、来年度から最低3年間の支援をしてもらえることがほぼ決まったので、それが継続することを期待しています。これが続けば、演劇のコンクールなども可能になり、タイの演劇界を発展させる起爆剤にもなるのではないでしょうか。もちろん公演の数を増やし、質の高い作品をつくるための制作費も必要ですが、何より劇場の維持が先決だと思っています。
『農業少女』に関しては、タイ政府が非常に関心を示してくれました。というのは、日本人がタイの現代演劇に興味を示しているということが明らかになったからです。タイの現代演劇、しかも小劇団の演劇が、商品としての価値があり、海外に輸出することができるという証明になったのです。年間5作品を海外に輸出して上演することができたとすると、どれくらいの収入になるのかを政府の関係者に数字で示して彼らを説得することができました。タイにはもっと大きな劇場で上演されている人気のある商業演劇もたくさんありますが、それらの作品は海外に輸出されたことがないということも強調しておきました。
いずれは『赤鬼』と『農業少女』を日本以外の海外にも輸出したいと思っています。2010年3月に、文部省の主催により海外に輸出できる作品を集めた演劇祭を開催する予定です。私としては、近年、海外公演を行ったタイの演劇作品から5〜10作品を選び、紹介するつもりでいます。そうすることで、一般の人がタイの演劇に対する関心と理解を示してくれると確信しています。12年前の『赤鬼』もタイの演劇界に大きな影響を与えましたが、今回の『赤鬼』と『農業少女』も、またタイ演劇界に新しい刺激を与えてくれたと思います。
最後の質問ですが、あなたの夢は何ですか?
 今までたくさんたくさんの仕事をしてきたので、今死んでも思い残すことはない(笑)。10年前から私をいつも応援してくれていたポーラット先生が、最近私におっしゃいました。「プラディットさん、バンランプー地区(フェスティバルを開催している地区)に住んでいる子どもたちを見てご覧なさい。あの子たちはお芝居に囲まれて育ったおかげで、とうとう自分たちでも作品をつくるようになった。あなたたちは非常に重要な役目を果たしたのです。誇りに思いませんか?」と。10年前にはなかったフェスティバルがタイ人の子どもたちに夢を与えるようになったのです。
バンコク・シアター・フェスティバルは、子どもたちがつくった作品を発表する場にもなっていて、ここで作品を発表することは自分が一人前の俳優あるいは演出家として認められることだ、という夢を子どもたちももつようになったのです。また、フェスティバルはおもしろい作品を国内外のプレゼンターに売り込む見本市としての役割も果たすようになってきました。
将来、タイ国内にもっと劇場が増え、役者たちが自分の居場所をもてるようになり、政府が演劇の世界で活躍している人たちを援助する基金を設立し、演劇人が演劇で生活できるようになること、これが今の私の夢です。
1998年、『赤鬼』のために日本へ行くビザを申請するとき、申請書の職業欄にどう書くのか、迷いました。その時に日本側のコーディネーターから「Artistですよ」と促されて、私はやっと職業欄に「Artist」と誇りをもって記入することができた。それがとても嬉しかったのを覚えています。商業演劇ではなく、人格を形成する演劇が、タイ社会で高く評価され、広く受け入れられ、認められるよう、これからも努力していきたいと思います。
ありがとうございました。
 こちらこそ、ありがとうございました。

バンコク・シアター・ネットワーク×東京芸術劇場共同制作公演
『赤鬼』
『農業少女』

[日程]2009年11月19日〜23日
[会場]東京芸術劇場小ホール1・2

伝統舞踊
伝統舞踊(および伝統音楽)は、王立舞踊学校や国立大学の伝統舞踊学科等で、集中的に訓練が行われている。小学校にも伝統舞踊・音楽の時間が設けられており、伝統舞踊・音楽の素養は多くの国民がもっている。これら伝統舞踊・音楽は観光施設(レストラン等)で上演されることは多いものの、本格的な公演として上演される機会は少ない。 大衆喜劇であるリケエはお祭りや寺の行事に併せて頻繁に上演されているが、本格的な仮面劇コーンは年に数回しか上演されない。大衆喜劇リケエのスタイルは、テレビのバラエティ番組にも、形を変えて継承されている。 また、100年以上の歴史をもつタイの人形劇(ラコーン・フン・レック)は、現在、ジョールイス劇団の努力により、ルンピニナイトバザール内の専用劇場で定期的に上演されるようになった。タイ南部で有名な影絵芝居(ナン・ヤーイ)も細々とではあるが、次代に継承すべく、各劇団が工夫を凝らした上演を試みている。

現代演劇
商業ベースでは、近年、タイのトップスター等を起用したミュージカルが盛んである。小劇場系劇団による公演は観客の動員が難しいようである。劇場の数も限られているため、これらの劇団は、その都度、レストランの一角やビルの一室など場所に工夫を凝らして公演を行っているが、恒常的に活動していける劇団はほとんどないといってよい。 劇場をもつ劇団としては、パトラバディ劇場、モラドークマイ劇団(客席数80席程度)などが挙げられる。その他、B-Floorはフィジカルシアター的な舞台を目指し、劇団8×8は劇作家のニコン・セタンを中心に都会的な舞台を上演している。ピピット・ニミットクンを中心にかつて活発に活動していた劇団クレセント・ムーンは、同氏の脱退後、やや活動が少ない。 そのほか、劇団マカムポムや劇団マヤ・ボックス等は、教育機関や国際機関から助成を受けながら、地方の学校やコミュニティで現代演劇ワークショップを積極的に実施している。また、各大学演劇学科主催による公演も活発に行われている。特にチュラロンコン大学、タマサート大学、バンコク大学演劇学科による公演は観客も多く、レビュー記事が新聞に掲載されるなど、注目されている。

『赤鬼』
1996年にNODA・MAPの公演として初演。翌年、国際交流基金がアジアと日本の演劇人の交流と共同制作を目的に「アジア舞台芸術家交流・研修事業」をスタート。1997年、その1回目(世田谷パブリックシアターとの共催)として野田秀樹がバンコクでタイ人の俳優とワークショップを行い、タイ版『赤鬼』を発表。その後、タイ版は98年(バンコク公演)、99年(東京公演)と再演され、2003年にはイギリス人の俳優・スタッフによるイギリス版を発表。2004年に東京で日本・イギリス・タイ3カ国版の連続公演を行い、同年の朝日舞台芸術賞グランプリ受賞。 【物語】 船に乗って砂浜にやってきた異人は、人を食う赤鬼と誤解され、村人に差別されたあげく処刑されることになる。「あの女」と白痴の兄とんび、嘘つきのミズカネの三人は、赤鬼が人でなく花を食べること、理想の地を求めて浜にやってきたことを知り、赤鬼を救出しようとするが…。

「バンコク・シアター・フェスティバル2008」の様子

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