国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan

Presenter Interview プレゼンターインタビュー

2009.3.31

Striving for regional development,
Romania’s Sibiu International Theatre Festival gathers participants from 70 countries

ルーマニア

70カ国が集合、地域の発展を目指す
ルーマニアのシビウ国際演劇祭

コンスタンティン・キリアック Constantin Chiriac
シビウ国際演劇祭 ディレクター

トランシルヴァニア地方の都市、ルーマニアの中央に位置するシビウ県シビウ市。中世の町並みが残る人口約17万人の地方都市でシビウ国際演劇祭がスタートしたのは1993年のこと。今では、世界から70カ国の舞台芸術が参加し、街中で公演が行われるなど、エディンバラ、アヴィニオンに次ぐ規模に成長。2007年にはその実績によりシビウが欧州文化首都に指定されるなど、地域の発展に大きく貢献してきた。1989年のルーマニア革命で炎上した劇場の復興に尽力し、フェスティバルを立ち上げ、シビウを文化都市として再生させてきた立役者のコンスタンティン・キリアック氏に聞いた。
聞き手:扇田昭彦/通訳・構成:志賀重仁

シビウ国際演劇祭は、1993年から始まって、今のヨーロッパの演劇祭としては、エディンバラ、アヴィニオンに次いで3番目の大きさだと言われています。2年前に私も実際に観まして、非常にスケールが大きいこと、それと非常にユニークなフェスティバルだととても感動しました。この演劇祭はキリアックさんが中心になって立ち上げられたわけですが、その経緯から紹介していただけますか?
 ちょっと長くなりますが、フェスティバルがどのように始まったかの前段からお話させていただければと思います。
私は基本的に役者なのですが、共産主義、チャウシェスク時代に私たちは国外へ旅をする可能性を奪われており、パスポートも与えられていませんでした。そしてテレビ・ラジオについても、放送時間が大変短く、ほとんどの時間帯で公式訪問などチャウシェスクの動静の宣伝だけが行われていたのが実態でした。
同時にチャウシェスクは、文化関係者を大変憎んでいました。彼が進めようとしていたのは、「ルーマニアの歌声」という全国規模の大文化祭典で、彼の個人崇拝を推進するような内容だけが奨励されるものでした。このアイデアが生まれたきっかけは、大変親しくしていた北朝鮮の金日成を訪問した時です。これが大きな理由で、演劇の活動に対しても検閲が大変厳しく行われていました。
そして、プロの演劇人たちに対しては、最低限の食べるお金は出しても、いわゆる舞台をつくる費用などの援助はほとんどなかったため、財政的に非常に苦しい立場に置かれていました。自分たちのチケット収入で演劇活動をしていくことを強いられていたわけです。それが理由で、年にだいたい400本ぐらいのステージをこなさないとプロの役者は生きていけないという状態に置かれていました。1日に1本やっているような状態です。大変厳しい時代でした。
一方で、演劇というのは自由の空間でもありました。どういう意味かと言いますと、例えばシェイクスピアの『リチャード三世』をやったとすると、観客は我々のやる『リチャード三世』を見て、これはチャウシェスクのことを言っているのだとみんな判るわけです。ですから、演劇の言葉を通じて、ある意味で第二の自由な言語の世界が築かれていたと言えます。その意味で私たちは、独裁に反対する活動で大きな責任を負っていたとも言えます。ですから、演劇人は、国民、大衆から大変尊敬されていました。
同時に、これは非常に皮肉なことなのですが、誰も国外に自由に出て行けないということで、私たちは多くの勉強する時間ができたのです。一生懸命本を読み、そして多くの人が外国語を勉強しました。それが理由で、私たちの観客の文化的レベルが非常に高まったということができます。ですから、独裁には非常に悪い側面もたくさんあったのですが、それに反して良い面も、逆説的ですが進行していたところがありました。
私のような役者、あるいは他の演劇人たちは、先程言ったように多くの舞台をこなさなければならなかったので、自分を心身ともに鍛えなければ生き残っていけなかった。つまり、この時代は、演劇の基礎、役者としての基礎を徹底して鍛えられた時代でもあったのです。
そして1989年の革命が起こり、シビウの劇場は炎上しました。歴史的に4度目の炎上でした。1788年に創設された中部・東欧圏でも一番古い劇場のひとつがシビウにあることからもわかるように、シビウは大変古い時代から演劇活動が盛んな街でした。劇場には、バラの木で飾られたバルコニー席があり、ドイツ語の演劇誌も発行していました。
チャウシェスク政権の崩壊直後、私たちは、ドイツの演劇人たちにシビウの劇場の再建に力を貸してほしいという内容のアピールを出しました。その反響は大変なもので、私はすぐにベルリンに招待されました。招待されて行った劇場の壁一面には、観客に見せるために私の送った手紙が拡大して張ってありました。こうしてシビウの劇場との連帯が組織されていったのです。ドイツのテレビ局でも放映されましたし、当時のコール首相の官邸にも招かれて話し合いをもちました。これがある意味で世界に向けての第一歩、私の外国への第一歩だったのです。
私は共産主義時代には、一人芝居のショー活動を集中してやっていました。個人的には、英語、フランス語を話せますので、崩壊後、特にラテン語圏で一人芝居を持って回る機会が開けていきました。1993年、ベルギーのアントワープが欧州文化首都に指定されまして、ここに招待されました。同じ年、ユーゴの内戦が勃発し、アントワープでの行事の最中に、サラエボのフェスティバル・ディレクターから電話が入りました。セルビアによる爆撃が始まった、ぜひ支援をしてくれというアピールでした。アントワープに集まっていた芸術家たちは、即座に反応し、イニシアティブ委員会なるものを組織して、1カ月間だけですがサラエボをもう1つの欧州文化首都に指名することにしました。EU・ジャパンフェストの事務所に行くと、その時の、私たちがイニシアティブを取ったサラエボ欧州文化首都のポスターが残っています。この時に私は、自分たちでもフェスティバルをやろうと決意しました。そして同時にシビウをいつか欧州文化首都にしようという考えをもちました。
そして1993年に初めてフェスティバルを組織したのですが、第1回は「学生」という限定がついた学生演劇フェスティバルでした。当時の私は、フェスティバルの組織というものがどれほど大変なものなのか全く知識がなかったので、とにかく闇雲に始めたのです。情熱だけはありましたが、それ以外は何もない(笑)。情熱と自分の回りにいた友人たちだけが財産でした。
それまで、ルーマニアに演劇フェスティバルはなかったのですか?
 文化省が音頭を取って行っていた演劇フェスティバルと、あとは幾つかの劇場が一緒になってやっていたフェスティバルの2つがありました。しかし劇場といっても共産主義時代はすべて国立劇場ですので、基本的には国が組織に入ってやっていたものです。いずれにしても、国内のみの演劇祭で、国際演劇祭ではありませんでした。
私が組織したフェスティバルの方は、第1回には3カ国から8公演が参加しました。それから、1994年に第2回を開催しました。学生時代に日本の友人(通訳をしている志賀ら)との出会いがあり、演劇祭を始めた時から、ぜひ日本には参加してほしいと思っていたのですが、2回目に1団体が参加し、その後は2つ、3つと増えていきました。
フェスティバルの参加国は、掛け算式に増えて行きました。第2回は12カ国から28公演、第3回は15カ国35公演が参加し、4回目からは、有名な劇団あるいは演出家の作品は特別な部門でやってもらいながら、演劇学校の学生たちの部門、それからダンスシアター部門などと分野を拡げていきました。
最初の3回は、3月27日が世界演劇デーなので、それに合わせて3月末に数日間の会期で行っていました。4回目には、25カ国から80公演が参加するまでになり、会期も5月末から6月上旬に変更しました。同時に、大道芸と言いますか、オープンスペースの部門も始めました。また、フェスティバルにテーマを設けることにし、ヨーロッパの演劇祭ネットワークの一員として活動することも決意しました。
当時、ヨーロッパあるいは世界では、フェスティバルについての否定的な経験が蓄積されていました。具体的に言いますと、政権が変わると演劇祭もその政治的な影響を大きく受けてしまうということです。それで、私たちはフェスティバルが誰からも干渉されないようにフェスティバルの著作権とでも言いますか、そういう権利を取得できないかと考え、特許庁に「シビウ国際演劇祭・キリアック」と登録しました。同時に、フェスティバルを財政的に支える基金を創設しました。この基金の名称は、「文化を通じての民主主義」といいます。これによってフェスティバルは政治的な圧力から守られています。
それから、シビウ大学の中に演劇科をつくろうということも1997年に決めました。これは自慢になりますが、ルーマニアで唯一、シビウの演劇科卒業生は就職率100パーセントを保持しています。このことは学校のレベルの高さ、教育水準の高さを示していると言えます。要するに、卒業すればみんな演劇人になれるということです。
フェスティバルは、スペース的にもどんどん広がり、市内のさまざまな場所に会場を設けるようになりました。特にシビウ市のもっている歴史的な遺跡や場所を会場にできるよう働きかけていきました。1998年からは、ルーマニアおよび中部・東欧で初めての演劇見本市をシビウの演劇祭の期間中に開催することになりました。
2000年には、大学の中にルーマニアでも唯一の「演劇のマネジメント学科」を創設しました。さらに2007年にシビウに欧州文化首都を招致するためのイニシアティブ委員会も組織しました。2001年からはシビウの演劇祭に著名な演出家を招待して作品を創ることを始めました。アンドリー・ゾルダック(Andry Zholdak)、シルヴィウ・プルカレーテ(Silviu Purcarete)らを招きました。この時期は、フェスティバルの質的向上、量的拡大が図られた時期に当たります。シビウの演劇祭もこの頃になると、かなり知られるようになり、参加希望者もさらに増えていきました。
2002年には、アンドリー・ゾルダックが演出した『白痴』で、私がディレクターを務めるラドゥ・スタンカ劇場として初めて日本公演を行いました。2004年には、これまでの活動が高く評価されてラドゥ・スタンカ劇場が国立劇場の指定を受けました。また、その年に私がEU委員会に招待され、この委員会の席で2007年にシビウを欧州文化首都に、という私たちの立場を発言させてもらいました。それまで欧州文化首都はEU加盟国が指定されていたので、ルーマニアがまだEUに加盟していなかった段階でシビウに招致したいと申し入れるのはとても難しいことでした。ご存知の通りルーマニアがEUに正式加盟したのは2007年1月1日です。しかし、私たちの提案が非常に良い内容であったことと、私たちのフェスティバルの質の高さへの評価によって、EU委員会も我々の提案を受け、積極的に検討していただき、2007年にシビウが欧州文化首都に指定されることが決まりました。
この間、俳優としての活動はどうされていたのですか?
 ラドゥ・スタンカ劇場の俳優としての活動を行いながら、平行してフェスティバルも組織していました。2000年にラドゥ・スタンカの主要ポストが公募制になったのに伴い、私がディレクターに選出されたので、それからは、役者だけでなく、ディレクターも務めています。また、2005年からはシビウ大学の演劇科の教授もやっていて、その他の大学でも教えています。
私も拝見しましたが、シビウが欧州文化首都に指定された2007年のプログラムについて紹介してください。
 2007年の欧州文化都市のプログラムでは、日本との関係がひとつの特別な構成要素となりました。2006年から欧州文化都市の準備委員会を発足させ、EU・ジャパンフェストの委員会とも関係を築き、このプログラムを共同で推進しようという約束をしました。
2007年に日本から参加したのは9団体で、レニ・バッソ、Co.山田うん、劇団地点、劇団新宿梁山泊、中馬芳子、萬狂言、マイムシアター、廣田丈自、そして2年連続での参加となる音楽グループのZIPANGです。それから他にはないユニークなプログラムとして、欧州文化首都のボランティアを組織しました。ボランティアは400人に及び、その内日本からの参加者は65人に上りました。ボランティアと私たちの劇団のメンバーが協力してカフカ『掟の門』の公演とダンスパフォーマンスの2つのプロジェクトも行いました。ボランティアグループの活動は、大変高い評価を受けたので、その後も演劇祭の中で継続しています。
2008年のフェスティバルでは、4年半ほどの粘り強い交渉の成果として、中村勘三郎の平成中村座をシビウに呼ぶこともできました。説得するまでには大変な時間と努力が必要でした。最終的には「文化」のためにお互いに協力しようという一点で合意しました。事前にシビウに来ていただいた時に、串田和美さん、勘三郎さんに工場の廃屋で行った私たちの『ファウスト』を見ていただきました。この舞台には150人が出演しています。廃屋は共産主義時代の大きな工場だったもので、総延長が87メートル、横幅が40メートルあります。天井のクレーンなど当時の設備がそのまま残っており、これも装置として利用しました。お二人はこの舞台を見て、この工場でやらせてくれるなら演劇祭に参加しようと言ってくださいました。私もその場でOKしたのですが、工場が取り壊されることになり、急遽1カ月半で別の工場を改装して対応しました。
初日には550席の客席が満席になったほか、100人を超える立ち見客が入り、外にも200人が並ぶほどで、その後も中に入れない観客が日々増えていくといった状態が続きました。勘三郎さん、串田さんとは、今後も協力関係を続けていこうという話し合いができています。
今年のフェスティバルについてご紹介ください。キリアックさんは俳優として出演されますか?
 残念がながら舞台には立ちません(笑)。
今年は70カ国が参加し、62カ所で公演が行われる予定です。フェスティバルのテーマは、「イノベーション」です。ただ、普通の書き方ではなくて、innovation(刷新)と、ovation(熱狂)の2つをかけています。フェスティバルの創造と刷新の年にしたいと思い、そういうテーマにしました。
日本からは、山の手事情社(『タイタス・アンドロニカス』)、東京演劇集団「風」(ブレヒト『乞食あるいは死んだ犬』)が参加し、加えて2つの共同制作作品が予定されています。1つは、芦澤いずみさんの演出で、日本、アメリカ、イラン、ルーマニアの俳優が参加して舞台をつくる共同プロジェクトです。
もう1つは、私が大変興味をもっている面白いプロジェクトなのですが、世界的にみても著名な3人、狂言師の茂山千之丞、イタリアのコンメディア・デッラルテのアレッサンドロ・マルケッティ、そしてスイスのクラウン・ディミトリーが協力してつくる舞台です。シビウでプレミアを行い、ヨーロッパ各地を巡演します。今年がドナウ年であることから、ドナウ川沿いの都市、ミルチャ・ディネスクという城塞、ブルガリア、セルビア、ハンガリーを回り、ファイナルは今年の欧州文化首都であるリンツになる予定です。
ボランティアも継続していて、日本からは18人が参加する予定です。
『ファウスト』も上演されるのですか?
 やります。『ファウスト』はエディンバラ演劇祭にも正式に招待されています。フェスティバルのメイン作品としての位置付けで、5回上演します。エキスポ・パビリオンという特別なスペースを使い、私たちが必要とする空間に改装してくださるそうです。
ラドゥ・スタンカ劇場についても紹介していただけますか。フェスティバルとはどのような関係ですか?
 ラドゥ・スタンカは、フェスティバルの共同主催者です。例えば今年の予定では、フェスティバルのためにラドゥ・スタンカとして11の舞台を用意しています。レパートリーとしては、ギリシア悲劇やシェイクスピアから実験的な作品まで58の非常に幅広い演目をもっています。今年は新作を14作発表する予定です。劇場だけでなく、ほかに5〜6カ所の会場で、合わせて1カ月間に30ステージの公演を行っています。
組織については、劇場の雇用者は全部で140人です。内訳は、俳優が60人、管理部門(財務も含めて)が20人、マーケティングと国際関係担当が14人、その他が技術スタッフです。ですから、同時に2、3のステージを回すことができます。私たちの常任演出家は一人だけで、ラドゥ・アレクサンドル・ニカ(Radu Alexandru Nica)といいます。若く、大変有能な演出家です。その他は、ルーマニア国内あるいは海外で著名な演出家を招聘して作品を創っています。例えば今年の予定でいうと、プルカレーテが2つ、アンドリー・ゾルダックが1つの舞台を演出します。フランス、ルクセンブルク、クロアチア、ロシア、そしてルーマニアの著名な演出家も予定しています。詳細はまだ具体的になっていませんが、2011年には串田さんを招いて演出をしてもらう予定です。
フェスティバルの規模がこれだけ大きくなると、相当な予算が必要だと思います。予算はどのぐらいで、どのようにして資金を集めていますか?
 確かに規模は大きくなりましたが、予算的には世界のさまざまなフェスティバルの中で第87位なので(笑)、そんなにお金があるわけではありません(ちなみに2008年度は約10億円規模)。
資金については、ルーマニアで行われている最大級の国際的な文化行事として大統領の後援を受けていて、政府からの直接的な支援もあります。ですから文化省、外務省、県庁、シビウ市役所からお金が出ていますし、さまざまな機関からも財政支援を受けています。これらが予算の全体の約35%を占めています。
これ以外の30%は、国際的な、ヨーロッパあるいは世界的な規模でのプロジェクトからの支援です。チケット収入は約10%になります。残りはスポンサーから協賛してもらっています。また、メディアからも多くの支援を受けており、ルーマニア国営テレビ・国営ラジオを始め、5つの民放のほか9つの有名なメディアから支援を受けています。
手元に2007年のプログラムがありますが、支援企業、協賛企業が多数掲載されています。特にコカ・コーラの支援が大きいようですね。
 そうです。主要スポンサーです。屋外での舞台がたくさんありますし、旧広場だけでも3〜4万人が集まりますので、そこで売れるコカ・コーラの量はバカになりません。残念ながら契約の関係で金額は公表できませんが、大変大きな支援をいただいております。
そういった交渉もキリアックさんがされているのですか?
 私のチームがアポイントは取ってくれますが、直接交渉をするのはすべて私自身でやっています。プログラムの内容について言いますと、ルーマニア国内にとどまらず、世界的に色々と意見を出してくれるチームがありますが、最終的に決定するのは私です。フェスティバルの準備はほぼ2年前から始めて、例えば日本についてだと、3月末には次の年のフェスティバルに何を呼ぶか候補を決めています。こうした交渉のために海外に出掛けることも多く、これまでに101カ国を訪問しています。日本には8回来ていて、フランスは100回を超えると思います。
キリアックさんは現役の俳優でもいらっしゃるわけですから、自分の舞台の稽古などもありますよね。しかも、ラドゥ・スタンカのディレクターでもある。よくお時間が取れますね。
 教授もやっていますしね(笑)。まず何よりも、私には大変強力なチームがあり、彼らが私を支えてくれているということが大きいです。自分が声を掛けて一緒に仕事をして来る中で力を付けてくれたチームです。それぞれが大きな権限、責任をもって仕事をしてくれています。劇団、フェスティバル、演劇学科、演劇マネジメント学科と、私の仕事は多岐にわたりますが、それぞれの部門に責任者がいて、それぞれが連携して仕事を進めていけるようにしています。このような構成で仕事をしているのは、おそらく世界でもなかなかない、ユニークな組織をつくることができたと思っています。
シビウはおそらく、文化を通じてひとつの地方都市がさまざまな面で大きく発展することができたモデルケースになっていると思います。国際演劇祭を軸にして、シビウの経済、観光、教育、そして民主主義など、さまざまな分野で街が大きく発展してきたのです。これは、世界的にみても稀な例だと思います。
私たち劇団が創る舞台のチケットは、1枚残らず常に完売を続けています。また、若い俳優、演劇学校の生徒たちがバーやディスコなど街のいたる所で住民とのコミュニケーションをとる活動をしています。私たちが推奨して、演劇の魅力を伝えるという活動を組織しているのです。私たちは劇場の中だけではなく、劇場の外でも住民たちと密接に結びついています。私ももちろん参加しており、マックスというレストランで活動しています。
ルーマニアにはシビウのほかに、ブカレストやクラオヴァなどの都市もありますが、ルーマニア全体でシビウの演劇というのはどういう位置付けになるのでしょうか?
 シビウは欧州文化首都にも指定され、ルーマニアで最も活発に活動する劇場があります。さらにルーマニアで最も素晴らしい屋外博物館、ブルケンタールなどもあります。そういう点から言えば、ルーマニアの文化リーダーとしての位置をもっていると言えます。さらに演劇面では周辺諸国にとってもリーダー的役割を果たしていると考えています。
例えば、ラドゥ・スタンカ劇場は、今年だけで国際的なツアーを28予定しています。ブカレストには12の大きな劇場がありますが、それらを全部合わせても、これほどの数の海外ツアーを行ってはいないので、ラドゥ・スタンカがいかに頑張っているかお解りいただけるのではないかと思います。
クラオヴァでは国際シェイクスピア・フェスティバルが開催されていますが、このフェスティバルとの関係は?
 このフェスティバルは2年ごとに行われています。シェイクスピアに特化したなかなか質の高いフェスティバルです。だいたい10〜15ステージを国内外から招聘しています。数は少ないですが、非常に重要なステージを選んで呼んでいます。ブカレストではこれ以外に、国内演劇祭が開催されています。ルーマニア全土から、その年の良い作品を集めています。5〜6ぐらいの海外のカンパニーを呼ぶこともあります。ほかにも小さなものも含めると、現代演劇に特化したもの、ルーマニアの劇作に特化したものなど、主要都市のほぼすべてでフェスティバルが開催されています。
シビウの演劇祭では色々なルーマニアの劇団の芝居を観ましたが、私が個人的に感じたのは、俳優が非常に上手く、身体性が強く、さらに芝居の実験性が非常に強いということです。キリアックさんはルーマニアの演劇についてどのようにお考えですか?
 ルーマニアの演劇は、地理的に一種の交差点みたいな所に位置していまして、スタニスラフスキーに発するロシア演劇やドイツの表現主義の影響なども受けています。今日で言えばハイナー・ミュラーなどです。同時に、私たちの国はラテン民族ですので、身体表現に強いコンメディア・デッラルテのようなイタリアの影響なども受けています。こうした周辺からの影響もあって、ある意味で大変豊かな演劇状況をもっていると言えます。
チャウシェスクの時代に、実験演劇的なものは禁止されていなかったのでしょうか? ほとんどの社会主義国では社会主義リアリズムが全盛だったと思いますが、ルーマニアは違ったのでしょうか?
 ポーランドでは、カントールのように共産主義体制下でもけっこう実験的なことは行われていました。ルーマニアにも、そういうポーランドの影響を受けた流れがありました。また、世界的に重要な演出家たちのスタイルを真似るような実験的な動きもありました。チャウシェスク時代には、一種の実験室のようにしていろいろなことを試みていました。しかし、当時の秘密警察は常にこうした動きに目を光らせていましたので、ちょっと危ない、特にイデオロギーに関わるものをやると、そういう運動のリーダーはだいたい国外に追放されました。数十、ひょっとしたら百を超える演出家、俳優が海外に出て行きました。例えば、アンドレイ・シェルバン(Andrei Serban)などはそういう時代に色々な試みをして目を付けられて、出て行った演出家のひとりです。
最近の国際的な経済危機は演劇祭に影響を与えていないのですか?
 私の考えでは、今日の世界的な経済危機の根源は、相互の信頼、相互理解が不足していることにあると思っています。パートナーを信じられない、あるいは各国の機関、政府間の相互理解が上手くいっていない。そういう意味では金融危機よりも、そういう信頼関係が築かれていないことのほうがはるかに重大な問題だと思っています。金融危機はどうにかすれば必ず解決しますが、世界的な信頼関係の欠如のほうが危険だと思います。
もちろん、今の経済危機はフェスティバルにも大きな影響を与えています。しかし、興味深く、そして皮肉なことですが、ひとつのビジョンをもっている組織あるいは人、さらには強力なパートナーをもっているグループは、普通の状況よりも危機の状況においてこそさらに素晴らしい成果を達成したりするものです。そういう意味で私は、否定的なものも含めて現れるさまざまな現象について、いかに自分たちがそれを活かしていくか、前向きに立ち向かっていくかだといます。お金が足りないと泣くのは一番簡単なことで、それでは何も始まりません。困難な時にこそ、それを逆手にとって積極的に動くことが重要です。
もちろんルーマニア政府も危機ですから、国家予算をいかに適切に振り分けるかに腐心しています。こういう状況だからこそ、しっかりした提案をもっていったものにはしっかりした予算が付くし、実績も内容も無い提案は拒否されてしまう。外国に多くのパートナーたちの支持と協力があるプロジェクトであれば、例えば私たちの演劇祭のように予算を増額してもらえる。逆に、大きな成果もなく、特別な特徴がない演劇祭は、こういう状況では縮小される、あるいは中止されることになるのです。
ちなみに、今、EUから資金を調達し、新しいプロジェクトとして、新劇場の建設計画を進めています。500席、300席、150席の3つのホールとそれぞれが同じ規模のリハーサルスペースをもつ大きな施設がつくられます。客席は自由に動かせるようになっていて、椅子の並べ方を変えると、1,500席の会議場としても使用できます。2つのエレガントなレストランと70人収容のミニホテルも併設する予定なので、ここで公演したい海外のカンパニーが宿泊することもできます。こういう施設があれば国際的な共同制作もやりやすくなりますし、新しい観光客も呼べるようになります。
最後に。演劇は民主主義に貢献すると思われて演劇祭をやられているのだと感じましたが、この点についてどのようにお考えですか?
 先ほど文化を通じてひとつのコミュニティーが色々な分野で発展することができると言いましたが、欧州文化首都を準備した3年間について言いますと、ほぼ25年以上にわたってシビウに投資されたであろう金額と同じ額が、わずかこの3年弱の間に集中的に投資されたわけです。またこの期間中、大道芸などの重要なカンパニーを世界から招聘し、質の高い大衆演劇、大道芸や屋外演劇などを行い、できるだけ多くの市民に演劇を普及しようと務めました。無料の公演もずいぶんやりました。もし6万人が1日に演劇祭に参加するという大きさになれば、スポンサーも積極的に支援をしてくれますし、チケットもそれだけ安く提供できるようになるという相乗効果が生まれます。あるいは史跡など街のさまざまな場所で文化行事を組織することによって、一度も劇場に足を運んだことのないような人たちも演劇に親しむことができるようにしました。
こうしたことによって「芸術の奇跡」を体験した人たちが増えていき、また、このシビウという街を自分の誇りに感じられる市民が増えていきました。15年ほど前、シビウに初めて足長の大道芸を呼んだ時には、おばあちゃんと小さい子どもは、「とんでもないものが現れた」と通りに伏せて十字架を切っていたのに(笑)、今ではそれをみんな自然に受け入れています。私がタクシーに乗ると、フェスティバルでいつも世話になっているから、と言ってお金を受け取ってもらえないこともあります(笑)。こうしたことはとても素晴らしいことで、(演劇祭を通じて)街全体が大きく変わり、民主主義の基盤が強化されている例だと思います。
大変刺激的なお話しで、ありがとうございました。