ヴァルター・ホイン

ドイツのコンテンポラリーダンスのインフラ整備に尽力
タンツプラットフォームの創設者に聞く

2007.01.22
ヴァルター・ホイン

ヴァルター・ホインWalter Heun

1962年生まれ、ミュンヘン在住。85年から89年にわたり、ダンス・ミーツ・ミュンヘン(フェスティバル)、ダンス・エナジー(グループ)、ダンス・テンデンシー・ミュンヘン(スタジオ)などのディレクターを務める。また、90年には全独ダンスフェスティバルBRダンスを創始して中心的役割を果たす。94年からダンスプラットフォーム・ドイツの共同設立に参画し、隔年の開催地持ち回りフェスティバルとして、これまでに国内7カ所で実施。2000年にはスイスでのダンスプラットフォーム開催に協力するなど、数々のフェスティバル運営に携わる。
87年以来、コンテンポラリーダンスリサーチ・欧州ネットワークやダンスネットワーク・ヨーロッパで芸術監督(1994〜2000年)を務め、また、自ら90年に制作会社ジョイント・アドベンチャーズ、91年にナショナル・パフォーマンス・ネット(NPN)を設立するなど、欧州のコンテンポラリーダンスを中心とする舞台芸術の発展に寄与している。
現在、ダンスワークショップ・ヨーロッパおよびルサーン劇場振付センターのルサーン・ダンスプロジェクトのディレクターも務める。

80年代半ば、ヨーロッパのコンテンポラリーダンスが上昇気流に乗ると同時にドイツ・コンテンポラリーダンスも草創期を迎えた。当時、ミュンヘンを拠点としたダンス・テンデンシー・ミュンヘンのディレクターを振り出しに、全独ダンスフェスティバルBRダンスの実施、見本市&フェスティバルのダンスプラットフォーム・ドイツの創設などを主導してきたドイツ・コンテンポラリーダンスの仕掛人、ヴァルター・ホイン氏。ダンス・コミュニティの整備に尽力し、現在は制作会社ジョイント・アドベンチャーズを主宰するホイン氏に、ダンスにおけるフェスティバルと協働の意義について語っていただいた。
聞き手:立木燁子、協力:ダンストリエンナーレTOKYO、(財)児童育成協会・こどもの城、(株)ワコールアートセンター
今回は、「ダンストリエンナーレTOKYO」のフェスティバル ディレクターズ フォーラム(主催:国際交流基金ほか)で来日されましたが、ご自身についてアーティストの一番の友人であり、プロデューサー、フェスティバル・ディレクター、コミュニケーター、エデュケーターであると自己紹介されていました。非常に多彩な仕事の内容ですが、まずは、コンテンポラリーダンスにかかわるあなたの経歴から教えてください。
高校時代にジャズダンスの授業に興味があったのですが、女子のみ受講できるクラスだったので、放課後に男同士10人ぐらいで集まってダンスをやっていました。作品をつくって、観客の前でパフォーマンスをしたこともあります。ダンスを続けたいと思い、兵役を終えてからダンススタジオを探してレッスンを受けるようになりました。大学に入ってからは、以前から興味をもっていた映画のゼミがあるシアター(Theater)を専攻しましたが、結局、ダンスへの興味の方が強くて卒論もダンスをテーマにして書きました。現存する最古のコンテンポラリーダンスの教育機関である「エリザベス・ダンカンスクール」が卒論のテーマです。
ホインさんがダンスのキャリアをスタートさせた1980年代半ばというのは、ドイツのコンテンポラリーダンスにおいて重要な時期でした。ドイツのモダンダンス(タンツテアター)が衰退し始め、ヨーロッパのコンテンポラリーダンスが上昇気流に乗っていたころです。
はい。私もタンツテアターが円熟期にあったことを実感していました。もちろん現在もタンツテアターからすばらしい作品は生まれていますが、当時すでに芸術(表現)様式としてのピークを過ぎていたと思います。そのころ出てきたアーティストたちはタンツテアターとは違った新しいことを始めようとしていて、私はそこに関わり、徐々にプロデューサーやプロモーターとしての仕事をするようになっていきました。
最初は、不平不満を言うダンサーたちの話を聞きながら「じゃあこうしたらどう?」といった感じで彼らのコンセプトを紙に書き留めていただけでした。それが何頁にもなり、ミュンヘン市のコミッションを得て、「ダンス・エナジー」という集団を立ち上げることになりました。ダンス・エナジーは、振付家のミカ・プルッカーをリーダー格にした5〜6名の振付家集団で、私はマネージャーでした。
当時のミュンヘン市はダンスについてどういう政策をとっていたのですか?
1985年のミュンヘンはある局面を迎えていました。当時、市がダンス全体に与えていた助成金は総額1万8000ユーロ(約2,880,000円)、折半で2カンパニーに与えられ、市は「この金額できることを・・・」と言うばかりでした。
それで、アーティストらは団結して地元カンパニーのプロダクションを集めたフェスティバルを始めました。そのフェスティバルでプルッカーが中心的な役割を果たしていたのですが、4週間の会期でチケットはすべてソールドアウトだったにもかかわらず、地元新聞社でレビューが取り上げられたのはたった1回だけ。これでは資金も話題も増やせない。それで、私はフェスティバルをもっと組織的に運営すべきだと提案しました。
その翌年から私がフェスティバル・ディレクターに就任し、会期を3週間に短縮するかわりに質的な向上を図り、メディアにも取り上げられるようになりました。これが地方のダンス・コミュニティのコラボレーションの第一歩でした。チケットが売り切れるたびに、「継続的なコラボレーションができれば、われわれははるかに良い仕事ができる」ということを市にアピールし、「場所とカンパニーが共同制作できる組織と、そしてもう少しの資金があれば・・・」と訴え続けました。
その結果、87年には、ミュンヘン市のダンス・コミュニティへの公的援助が前年の約10倍に増え、地元カンパニーのための「ダンス・テンデンシー・ミュンヘン」という1000平方メートルのスタジオが整備されました。私は、そこで6年間ディレクターを務めました。
実に画期的ですね。
はい。そこにあるコンセプトは「コラボレーション(協働)」です。皆で集まれば、政治家のところへ行って「資金と施設を与えてくれれば、今よりずっと良い仕事をします」と直接アピールができます。ここでいうコラボレーションには芸術的な意味だけでなく、実務的な意味も含まれます。つまり、アーティストのニーズと、行政の方針と公的資金調達の可能性を照らし合わせ、それぞれを実現するために相手に圧力を加えることによって、両方をもたらす方策を試すのです。
なぜミュンヘンなのでしょう。あなたがそこに住んでいるからですか。
私は1972年からミュンヘンに住んでいますが、実際何かを始めるにはどこでもいいんです。ミュンヘンは私の地元もあり、活気ある街でもあります。ラッキーなことに、市の文化局の担当者はダンスにたいへん関心を持っており、コミュニティを築く上でさまざまなサポートをしてくれました。現在も、その担当者はわれわれが必要な行政の理解を取り付け、支援してくれています。
ダンス・テンデンシー・ミュンヘンのディレクターとしてどういった活動をされていましたか。
ダンス・テンデンシー・ミュンヘンは単なる地元カンパニーの創作のためのスタジオではありません。私はディレクターとして、そこを拠点にした5人の振付家たちのツアーのオーガナイズもしていましたが、もし誰もドイツのカンパニーを呼ぶことに興味がなくなってしまったら・・・ということをいつも考えていました。
それで、ディレクターになって2年後の1989年に、「ダンス・ミーツ・ミュンヘン」というフェスティバルを立ち上げました。600席のGasteigという文化センターで、地元カンパニーの、すでに評価されている作品を中心に上演し、とにかく連日連夜満員の状態が続きました。それは、ミュンヘンにとってはある種事件でした。そこで、これがコラボレーションとして大成功なのであれば、ミュンヘンだけでなく、ドイツ国内全土で実施すべきだと決意しました。そうして立ち上げたのが90年に開催した「BRダンスフェスティバル」です。このフェスティバルは、フランクフルトでメインのショーケースとシンポジウムを開催し、それと平行して15都市で地元のカンパニーによるショーケースを行うというものです。
準備として私は1年かけてドイツ中を旅し、あらゆる地域のプロデューサーに会いました。彼らにフランクフルトに来てほしいと説得し、最終的に15都市19人のプレゼンターを集めました。彼らとともにフェスティバルの運営に乗り出し、120公演を実現させました。このフェスティバルで上演された公演すべてが「コンテンポラリーダンス」です。私自身が手がけたのは、全体のコーディネートとスポンサー探しで、ポスター・パンフレットの制作含めすべての経費についてスポンサーから援助を得て実施しました。このとき私は、このフェスティバルのプロジェクトを実現するために、「ジョイント・アドベンチャーズ」という新しい会社を設立したんです。
BRダンスフェスティバルにはどのような人たちが参加していましたか。
ベルリンのDance Company Rubato、Tanzfabrik Berlin、Susanne Linkeらが参加しています。Gerhard Bohnerの最後の公演もこのフェスティバルで行われ、北米からも多数のプレゼンターが集まった歴史的な瞬間でした。
この全国的なフェスティバルを実施したとき、中央の政治家や官僚たちがそれまでまったく知らなかったコンテンポラリーダンスという世界に初めてふれたのです。助成を受けるために、コンテンポラリーダンスとは何であるかを説明しに私は何度役所に足を運んだことでしょう。さらに、コンテンポラリーダンス教育に関するシンポジウムの同時開催を企画し、教育省の州事務官に理解してもらい何とか開催に漕ぎ着けた、といったこともありました。ちなみにその事務官は現在、ドイツ議会の議長として重要なポストにある人物です。このように人々とコラボレーションしてプロジェクトを拡大し、より多くの観客を引き付けることによって、官僚にもアピールできたわけです。
シンポジウムはどういったものでしたか。
ダンス教育に関する国際シンポジウムです。当時、ドイツにはバレエアカデミーはいくつかありましたが、コンテンポラリーダンスの教育機関はエッセンのフォルクヴァングのみでした。すべてのダンス・コミュニティは、まるでピナ・バウシュのための下請けのようなものでしたから、このシンポジウムは情報提供という意味で非常に重要な役割を果たしたと思います。
シンポジウムの資料として教育省の助成を受けてコンテンポラリーダンス専門のブックレットを作成しました。地域にこういったダンス・コミュニティがあって、こういうカンパニーが活動しているといったことをコンタクト先とともに掲載しました。また、プロのダンス・プレゼンターに関する情報も掲載しました。つまり、このブックレットは、ダンスという芸術様式おいてはこのような活発な活動が行われているため、資金が必要であるということを示す資料になったわけです。裏を返せば、この芸術がドイツに立派に存在しているのにもかかわらず、公的な援助がまったく得られていないという、われわれの叫びでもあります。
うまく誘発しているわけですね・・・。
挑発し、プレッシャーをかけているんです(笑)。あらゆる手段を使ってダンスの存在を広く認知させることが重要だと思います。このフェスティバルは評論家にも絶賛され、インパクトも大きかったのですが、毎年同じことばかりやるわけにはいきません。スイスのあるフェスティバルの例ですが、それは今でも続いているのですが、3、4年後にはお決まりのカンパニーが出て、いかにもお祭り騒ぎのフェスティバルになってしまいました。毎年、同じダンスばかり集めて繰り返す必要はありません。初回にわれわれが何をやっているかをスポンサーにしっかり認知してもらい、スポンサーのビジネスにも反映できるような態勢を整え、資金調達の仕組みさえ継承できればいいのです。
こうしたさまざまな活動を重ねていき、1999年には国内6つのダンス関連機関とともにコンテンポラリーダンスへの支援を継続的に行うためのネットワーク「ナショナル・パフォーマンス・ネット(NPN)」を設立しました。NPNの考え方は、アーティストとプロモーター/プロデューサーのコラボレーション(協働)を刺激することにあります。
ダンスカンパニーを招聘するプレゼンターに対する助成金では、アーティストの社会的地位を向上するためにかならずギャラを出すよう要求します。できるだけ多くの金額がアーティストに還元されるようにしていますが、もちろんNPNの助成によってプレゼンターの負担は軽減できるわけです。これが基本モデルです。
共同創作に対する助成は、ドイツ国内の異なる州の2つ以上のカンパニーが共同で作品制作を行う場合、もしくは国外のパートナーを必要とする創作において付与されます。その振付家がドイツ出身であるかどうかは問題にはなりませんが、クリエーションがドイツで行われることと、申請者がドイツ出身であることが要件となっています。
ドイツにはたくさんの公共劇場がありますが、NPNとの関係は?
ドイツには、300の州立もしくは市立の公共劇場があり、そのうちおよそ80にはフルタイムで雇用されている付属カンパニーがあり(オペラカンパニーなどを含む)、今も増え続けています。ダンスでは、元々はバレエカンパニーしかなかったのですが、その後ピナ・バウシュやウィリアム・フォーサイスのようなコンテンポラリーダンスのカンパニーもでてきました。
しかし、こうした公共劇場の付属カンパニーはお互いに交流することもなく、地元のニーズに縛られた活動をせざるをえないということがあります。創作をしたいなら地元の公共劇場でやればいいと言われますが、それでは芸術的な課題に自由に立ち向かうことはできません。
今、ドイツから発信されているコンテンポラリーダンスはインディペンデントシーンからでてきているものが多いのですが、付属カンパニーに比べてはるかに少ない助成金しか受けていません。それで、インディペンデントなダンス・コミュニティは国際フェスティバルや制作団体とコラボレーション(協働)することで強い機動力を発揮し、公共劇場のカウンターパワーになってきました。しかし、ここ1、2年、既存の公共劇場がインディペンデントシーンと交流しなければならないという危機感を抱くようになり、深かった溝はかなり埋まってきたと思います。
公共劇場の仕組みをもたない国にはこの問題点が理解しにくいかもしれませんが、公共劇場はアーティストの仕事の助けになると同時に芸術的な発展の重荷にもなります。既存の劇場が門戸を開かない、住民が興味を持たないからといって、実験的な作品が提供できないようでは芸術的な発展はありえません。
ドイツの文化政策では州が大きな役割を果たしていますね。
実際はそうなのですが、ドイツの法律には「芸術の主管は連邦国家にある」という条文があります。つまり、法律上は、芸術に対して最大の責任を担っているのは連邦国家です。私たちは主管を州に帰属するよう法律の改正をしてほしいと狂おしいほど訴えてきました。そもそもこうなったのには歴史的な経緯があります。ナチ政権下においてすべての表現(芸術)活動はプロパガンダによって統制されていました。その反省から、表現が独裁者や連邦政府によって統制されるのを避けるため、芸術の主管を連邦国家に与えたのです。
これ自体はもっともなことなのですが、それを実際に行うのはかなり複雑です。各連邦州はみんなライバルですから、全く調整ができずコミュニケーションが図れません。また、文化省の議会運営も効率が悪く、州知事すべてが拒否権をもつため、16州すべての合意を得るのは至難の技です。さらに州としてもそれぞれの役割を果たしきれていないのが現状です。ですから、私たちが運営するNPNは、連邦州が文化のための財源としていかに連携すべきかという点において模範的な例となっていると思います。
「ダンスプラットフォーム」について紹介してください。
ダンスプラットフォームは、当初はフランスのバニョレ国際振付フェスティバルのドイツ選考会(プラットフォーム)としての役割を担ってスタートし、その第1回を1994年にベルリンで開催しました。ベルリン、フランクフルト、ミュンヘンの3都市とコラボレーション(協働)して25カンパニーの作品を上演し、世界中からの130人のプロモーターが参加しました。隔年でこの3都市を巡回し、2回目をフランクフルト、3回目をミュンヘンで開催しました。ミュンヘンでは、150席の小劇場から1200席の大劇場まで7劇場が会場となり、15作品を上演しました。Lynda Gaudreauがミュンヘン大学のメインホールで、Felix Ruckertが工事現場で公演を行い、また、350人のプロデューサーが世界中から集まるなど、大成功をおさめました。
元々開催地は3都市しか考えていなかったというか、そもそもその後も続くとは思っていませんでした。しかし、フランクフルト開催のときに「ミュンヘンが終わったらどうする?」という話が出て、内務省からも助成金が受けられることになり、工場をアートスペースにしたハンブルグのカンプナーゲル劇場が手を上げてくれ、2000年の第4回はハンブルグで開催することにしました。
プラットフォームは当初、Nele HertlingとDieter Burochそして私の3人がオーガナイザーとして共同運営していました。開催地などはこの3人で決め、プログラムについては外部の専門家にも入ってもらっていましたが、規模が拡大してきたのに伴い、2004年のデュッセルドルフのダンスプラットフォーム以来、プログラムの意志決定は、われわれオーガナイザーに選出されたダンス専門家から成る委員会の手にゆだねています。
プラットフォームの将来に関する見通しは?
世界が変化するようにダンスプラットフォームもアーティスト自身によって変えていくことができればいいと思います。2008年はハノーバーで実施しますが、2010年以降の開催については未定です。もしかしたらフランクフルトで開催するかもしれませんが、まだわかりませんね。
今、ホインさんが関心をもっているプロジェクトは他にありますか?
「ダンス・プラン・ドイツ」という連邦政府プロジェクトをご存知でしょうか。連邦政府の文化財団(Kulturstiftung des Bundes)が、コンテンポラリーダンスを活性化するために2006年〜2010年の5年間にわたって1,250万ユーロ(約19億円)を投入しているプロジェクトです。彼らのそもそもの発想は、ダンスプラットフォームを国のダンスフェスティバルにしようというもので、私たちは反対し代案を出しましたが、結局彼らは2006年のシュトゥットガルトのダンスプラットフォームで、芸術監督を公募し、独自で開催しました。さらに、このプランでは、ダンス活性化のために組織を立ち上げた8都市に対し、その活動費等について予算が割り当てられています。私は文化財団の委員を務めていましたので、ドイツには連邦主義の概念があるのだから、国が支援して16の連邦州が競いながら活性化できるシステムづくりをしてはどうかと提案しましたが、彼らの方針はそれとは若干ずれている気がします。NPNに対しては共同制作とインターネット構築などに関する予算が割り当てられています。
ダンスに関して元気のいい地域(州)はどこですか。
もちろん最も元気がいいのはベルリンです。ここしばらくは、ベルリンから発信された2つの流れがドイツのダンス界をリードしていました。1つは「コンセプチュアルダンス」と呼ばれるもので、Xavier Le Roy、Thomas Lehmen、Alice Chauchat、Jochen Roller、Martin Nachbarらがその流れに属します。もうひとつは、コンスタンツァ・マクラスやTwo Fishのような「ニュージャーマン・ダンスコメディ」と呼ばれる流れです。そもそもはサシャ・ヴァルツが発端となったもので、彼女と仕事をしていた何人かも同様の展開をみせています。ダンスコメディなんて変な呼び方ですが(笑)、私が思うに、彼らはどこか子どもじみたスタイルを持つ、モダンダンス以降の現代の新しいドイツ人像を表現しているのでしょう。ベルリンにはこの他により美術の方向に向いた創作に取り組むアーティストたちもたくさんいます。Lynda Gaudreauや、写真家とコラボレーションをしているChristina Ciupkeなどがそうです。また、Jonathan BurrowsやRosemary Butcherのように独自の切り口から振付というアートに再挑戦しているアーティストもいます。
ベルリンに次いで大きなダンス・コミュニティがあるのがミュンヘンです。また、ハンブルクやデュッセルドルフにもコミュニティがあります。劇場や有名なアーティストの存在で言えば、フランクフルトでもさまざまな国際的プログラムが実施されています。それとエッセン州には振付家センターがありますし、また、ドレスデンとフランクフルトはウィリアム・フォーサイスが拠点にしています。
ドイツでは外国人アーティストも平等に助成金を受けて活動しています。こうした国策としての多文化主義についてはいかがですか?
ドイツのほとんどの公的資金、助成システムにおいて、アーティストの出身地がどこであるかというのは一切関係ありません。彼らがドイツに住んでいて、そこで活動していることが重要なのです。ですからほとんどの助成要綱には、アーティストの生活および創作にかかわる拠点がその都市にあることという規定があります。その振付家が成功していて1年のうち3分の2を海外で過ごしているなら区別しづらいかもしれませんが、外国人アーティストが助成申請することについては、決して難しいことではありません。私はこういった現状を非常に嬉しく思っています。
ミュンヘン市の場合、基本的にアーティストが自己資金でプロデュースしたプロダクションに対して後で助成されることになっています、しかし、実際はかなり柔軟で、振付家のためのレジデンス制度もあります。
例えば、イギリス人のRosemary Butcherは新作のための助成を受けました。また、レジデンシーでは海外からのアーティストを受け入れていて、ミュンヘン在住のアーティストと平等に創作を行うことができます。Butcherの場合、ミュンヘン出身の2人のダンサーとイタリアのダンサーとともに「White」という作品をつくりました。その後ヨーロッパツアーを行い、海外の共同プロデューサーとも仕事をしましたが、主な資金はミュンヘンから助成されたものです。
ちなみに私の制作会社のジョイント・アドベンチャーズはこうした海外のアーティストのミュンヘンでの仕事の立ち上げを助けるなど、コラボレーションしています。例えば、Butcherについては、今は私たちがプロデューしていますし、ダンスワークショップ・ミュンヘンに参加したMia Lawrenceにもフェスティバルで作品制作してもらいました。ただし、彼らをずっと追いかけたりはしません。それぞれが自分なりの仕組みを確立して活動すべきだと思っているからです。
やはりドイツは外国人アーティストにとって魅力的な国ですね。
市立劇場で仕事をすることもできます。付属カンパニーには年間45万〜500万ユーロの間で助成金が支給されていますし、州立バレエ団には60人のダンサーがフルタイムで雇用されていて、デュッセルドルフのオペラハウスには、80人のダンサーを抱える付属カンパニーがあります。そうしたところで外国人アーティストが働くこともできますので、特筆すべき状況だと言えます。
ホインさんはたくさんのフェスティバルに関わってこられましたが、将来的なフェスティバルの役割について、どういう見解をお持ちですか。
フェスティバルは祝祭的な意味で存在すべきではないと考えています。ただし、観客が受け入れないものをプログラムできませんから、観客を喜ばせるために祝祭的な側面も必要になってくることはありますが。結局、どこで、何をして、どこに向うのか、そのためのシナリオをつくっていくのがフェスティバルですし、その方法はいろいろあっていいのだと思います。
私はこれまでいろいろな劇場で仕事をしてきましたが、例えばルサーンのオペラハウスで仕事をしていた時には、バレエ鑑賞中心だったプログラムにコンテンポラリーダンスを加えました。Merce Cunninghamから、Trisha Brown、Wim Vandekeybus、大音量の音楽で踊るBoris Charmatzまで、観客のニーズを少しずつ把握しながらいろいろな作品を紹介しました。もちろんクレームもありましたが、観客の手を引いてあげて、その方向へ連れて行くことができる作品であればなんでも実現できると考えました。目の前にあるものは何かを説明するよりも、終演後に質問を受けたりして、むしろ彼らが何を見出すべきかといういくつかのヒントを与えてあげる。そうするうちに半年後には実に活気がある議論となっていくのです。フェスティバルが向うべき方向もこれと同じだと思います。
私は今、「access to dance」という新しいプロジェクトを企画しています。これはどこかのあるダンス・コミュニティに焦点を当ててミュンヘンで紹介するもので、4月には、バイエルン地方の他の都市と協力してスイスダンス特集をやる予定です。近い将来にはオランダダンス特集もやりたいと思っています。もちろん共通の基盤を見つけて日本のダンス特集をする可能性もありますね。

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