国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan

Presenter Interview プレゼンターインタビュー

2006.7.18

The activities of the Five Arts Center, toward the creation of contemporary Malaysian theater

マレーシア

マレーシアの現代演劇の創作を目指す
ファイブ・アーツ・センターの活動

マリオン・ドゥ・クルーズ(Five Arts Centre代表)
Marion D’CRUZ

マリオン・ドゥ・クルーズ氏のインタビューの前に、マレーシアの舞台芸術界の現状について簡単に紹介しておこう。
マレーシアは、マレー系、中華系、インド系の3大主要民族をはじめとする諸民族がともに暮らす、多民族国家である。それぞれの民族が自らのアイデンティティを強く保持しながら共存するその社会は、「マレーシア型多文化社会」とも呼ばれている。例えば、初等教育においては、国語であるマレー語を使用する学校だけではなく、中国語やタミル語を使用する学校も設置され、それぞれを母語とする生徒が入学して学んでいる。また、英語も広く使用されており、国民のほとんどが複数の言語を解する「多言語社会」でもある。
このような社会を維持するには、想像を絶する困難が伴う。1969年には民族間の暴動により、多数の死者を出す事件も発生している。数的には多数派であるが経済的には弱者の立場にあったマレー系の地位を向上させるために、マレー系をあらゆる面で優遇する「ブミプトラ政策」はこうした背景から導入されたものだ。
従って、マレーシアの演劇界もこうした特質を直接反映させたものになっているといっていい。使用言語ごとに劇団はグループ化されており、グループ相互間の交流が必ずしも活発には行われていない。また、観客についても同様で、使用言語ごとに観客層は異なっている。
民族間の抗争に発展しかねないとして、民族問題や宗教問題について公の場で発言することは禁止されており、演劇についても都市ごとに置かれた検閲局の厳しい検閲が実施されている。また、「ブミプトラ政策」のもと、国からの支援はほとんどがマレー系劇団に向けられているのが現状だ。国立劇場での公演についても、海外からの招聘公演を除けばマレー語劇がそのほとんどを占めている。民間の劇団は企業からの支援を受けるなどして活動しており、彼らが公演に使用する劇場は300席程度以下の小規模なものが主となっている。しかし、2005年には初の民間経営の大型劇場施設「クアラルンプール・パフォーミングアーツセンター(KLPac)」がクアラルンプール市内に開館することになっており、その動向が注目されている。
こうしたマレーシアにおいて、20年間にわたって演劇シーンをリードしてきたアーティスト集団、ファイブ・アーツ・センターの創設メンバーのひとりであり、マレーシアを代表する舞踊家・振付家のマリオン・ドゥ・クルーズ氏にその活動について話を聞いた。
聞き手:滝口健(国際交流基金クアラルンプール日本文化センター)

ファイブ・アーツ・センターは、カンパニーというよりむしろ、「アーティストの共同体」と言えると思います。マレーシアにおいて非常にユニークな組織であるファイブ・アーツ・センターは、どのような経緯で設立されたのでしょう。また、設立の意図は何でしょう?
創立当時はまだ、「自国の劇作家」が確立されていない時代でした。シェイクスピアやチェーホフ、テネシー・ウィリアムズほか、主にアメリカやイギリスの英語劇を上演しているカンパニーはありましたが、非常に格式高いものと考えられていました。マレーシアの民話を英語で上演しようという意識や要望はほとんどありませんでした。70年代にK・ダスやロイド・フェルナンドらが戯曲を発表していましたが、上演していたのは主に大学のグループで、プロフェッショナルの劇場が自国の作家として彼らに目を向けることはほとんどありませんでした。

そんななかファイブ・アーツ・センターが設立され、自国で育った演劇やマレーシア独自の創造性に機会と場所を提供することを目指しました。そして現在に至るまでこれがファイブ・アーツ・センターの意図するところであり続けているのです。

当初ファイブ・アーツ・センターのメンバーは、ディレクター兼劇作家のチン・サン・スーイ、ディレクターのクリシェン・ジット、劇作家のKS・マニアム、ビジュアル・アーティストのピヤダサ、そしてダンサー兼振付家である私の5人。当時はまだ非常に繋がりのゆるい組織体でした。舞台デザインを担当していたピヤダサが程なくして辞めます。1995年にはKS・マニアムが去りますが、初期における彼の功績は非常に大きい。上演した作品のほとんどが彼とチン・サン・スーイの作品でしたから。実際、1984年のファイブ・アーツ・センター最初の上演は、マニアムの『法典(The Cord)』という作品でした。英語で上演し、公演期間は1週間。いわゆる英語劇の観客にとっては、このような長期で、しかもかなりの宣伝をした公演は非常に珍しいものでした。現在でもそうですが、当時は観客が言語グループによってはっきり分かれていました。英語劇、マレー語劇、中国語劇それぞれに観客層があります。私たちは英語上演を追求していますが、「英語劇の劇場」と呼ぶことは決してありません。実際、私たちの劇場は、20年以上にわたってマレー語や2カ国語、3カ国語でも活動してきています。これまで80以上の作品を上演してきましたが、ほぼ例外なくマレーシア人によって創り出されたものです。
現在、ファイブ・アーツ・センターはさまざまな世代の13人のメンバーを抱えています。カンパニーにはどのような成長の過程があったのでしょう。
最初の10年は、さまざまな人がファイブ・アーツ・センターに関わっていました。彼らはメンバーではありませんが、少なくとも「中心的な」人たちと言えるでしょう。1994年に、クリシェンにあるアイデアが浮かびます。それは、「創立から10年経った今、これまで僕らと仕事をした人たちに呼びかけ、メンバーになる意志があるかどうか尋ねてみよう。僕らはそろそろ、しっかり組織化したほうがいいはず」と言うのです。そのころ私たちはチン・サン・スーイ、クリシェン、私のわずか3人になっていて、私の自宅を拠点に活動していました。小さなスタジオも借りていましたが、賃料は自分たちの給料から出し合いました。すべてがその場しのぎという感じでしたが、その間さまざまな出来事もありました。私たちは10周年の記念にあらゆるジャンルにおよぶシリーズ的なものを始めようと考えました。こうして、メンバーを集め、アーティスト共同体というアイデアを発展させていったのです。もちろん公的には劇場監督を置いていますが、カンパニーのビジョンを決める固有の芸術監督というのは存在しません。

1994年ごろまでに、ファイブ・アーツ・センターが取り組むべき5分野を決定しました。演劇一般、ダンス、音楽、児童劇とビジュアル・アーツです。運営側の人材も確保しました。現在もファイブ・アーツ・センターのメンバー勧誘は続いています。

幸運にも私たちは、若い世代を惹きつけることに成功しています。興味深いのは、今ではフルタイムで芸術活動をしたいと真剣に考える若者がたくさんいること。これは以前のマレーシアでは考えられないことでしたが、非常に健全でエキサイティングなことだと思います。ファイブ・アーツ・センターは現在アクシェン(Akshen)という、若いアーティスト集団を抱えています。彼らは元々、大学生の集まりですが、ファイブ・アーツ・センターは彼らにリハーサル・スペースを提供する代わりに、劇場フロントの仕事を手伝ってもらう、という戦略的な提携を持ちかけました。そうすれば、彼らも作品やアイデアを発展させることができる。アクシェンのメンバーの1人に、近年人種的対立が起こった地域で、人種問題に立ち向かうためのコミュニティ・プロジェクトを立ち上げた人がいます。さらに最近、演出家ためのワークショップを始めました。現在こうした若いメンバーが、ファイブ・アーツ・センターの作品やビジョンにおいて、重要な位置を占めるようになっています。

この若い訓練生たちの関心事は私たちのそれとはまったく異なりますが、彼らは極めて明晰かつ献身的です。私は彼らにカンパニーを譲り渡していこうと考えています。信じて託せば、きっと受けとめてくれるでしょう。たとえカンパニーの方向性が変わってしまっても、それはそれで構わないと思っています。
ファイブ・アーツ・センターは昨年創立20周年を迎えました。この20年でマレーシアの演劇を取り巻く状況はどのように変わりましたか?
先ほどお話しましたが、20年前は地元劇団の英語上演はほとんどありませんでした。ですが、現在では多くの劇団が上演しています。80年代終わりから90年代初めにできた劇団です。以来、マレーシア国内の舞台芸術の地位が大きく変わりました。ダンスについては、20年前まで、高いステータスと言えば、クラシック・バレエだと考えられていたのですが、事態はすっかり様変わりしています。古典のマレー舞踊やインド舞踊も高いステータスを獲得しています。私が踊りを始めたころ──それはファイブ・アーツ創設前ですが──伝統的でも近代西洋的でもない、マレーシアのコンテンポラリーダンスをつくろうとしていました。当時私は「東洋的/西洋的」「伝統的/近代的」といった言葉の意味をかなり真剣に考えていました。マレーシアでの「近代」的とは、必ずしも「西洋」的であることを意味しません。私は、アジアにはまだこの問題があると感じています。世界中に広まった非西洋的コンテンポラリーダンスである日本の「舞踏」がおそらく唯一の例外かもしれません。

80年代初めにインド古典舞踊家、ラムリ・イブラヒムなどの有能なダンサーがマレーシアに戻ってきました。私自身も1981年にニューヨークから帰国しました。当初の6、7年、私たちは、コンテンポラリーダンスがマレーシアに存在し得ること、そして東洋と西洋を結びつけることが可能であることを証明するために、精力的にパフォーマンスを行いました。地元新聞に「これはダンスじゃない」「マリオン・ドゥ・クルーズは振付家じゃない」などと叩かれたりした実験的な舞台もありましたが、マレーシア人の創造性に社会的権利を持たせるのに必要なものだったのです。マレーシアの作曲家、振付家、劇作家は、西洋の作曲家らと同じくらい、もしくはそれ以上にその存在は重要なのです。そして結局のところ、演劇であれ、ダンスであれ、ビジュアル・アーツであれ、音楽であれ、私たち自身のこと、つまりマレーシア人としての自分の人生を語らなくてはいけないのです。演劇はエンターテイメントである以上に、人々に刺激を与え、考えさせるものでなくてはいけません。

観客数は確かに増えました。例えば昨年上演された『選挙の日(Election Day)』という作品は暗く重い雰囲気のある、女性のひとり芝居でしたが、14日間連日満員の観客を集めました。20年前なら、200席の劇場で5日間上演できただけで大成功と見なされていました。観客は、登場人物を自分自身と同一視するようになり、「これって私の話じゃない?」と言うようになるのです。このように自国の演劇に対する興味は以前よりずっと拡大しています。

この20年以上の間に舞台(プロダクション)の金銭的価値も上がりました。当時の公演はもっとその場しのぎ的でしたが、現在の私たちはマーケティングや広報に関してちょっとは賢くなったと思います。プロ意識が芽生えてきているのです。現在はアーティストとして食べていこうとする人が大勢いるので、私たちも報償はできるだけそれに応えたいと考えています。業界や市場をサポートしたいのです。企業のスポンサーシップも以前より断然増えてきています。
(アブドラー新内閣で)文化芸術遺産省(MOCAH)ができたことはマレーシアのアーティストにとって画期的な出来事だったと思います。MOCAHは2004年の創設以来、国内のアーティストらと対話を始め、前身の文化芸術観光省では期待はずれだった助成プログラムを新たに立ち上げています。多くのアーティストがこのような動きを歓迎する一方で、それでも十分な支援でないのではないか、と懐疑的な人たちもいます。こういった人たちに賛同しますか? あなた自身、政府は自国のアーティストをいかにサポートすべきと思いますか?
今のところ、私はとても楽観的です。政府はこの改革を大々的に公告してしまったため、今さらひっくり返すことはできません。事実、省庁がこれほどまで自国アーティストへの支援を強く示したことなど、これまで見たことがありません。実際に私たちも大きな額とは言えないまでも、ここ数年にわたり省庁から援助を受けています。例えば、政府所有の劇場(公共施設)を使いたいときはいつでも、低料金にしてもらう、というようなことまで。ですが、今新たな動きが起こりつつあります。政府は芸術振興団体(アーツカウンシル)までつくろうとしているのです。

問題は、この状態がいつまで持続するかです。こういった動きが、明確な政策として国民に理解され、永く続くのでしょうか。それとも現在の閣僚たちの在任期間だけで終わってしまうのでしょうか。わが国の問題は、政府系であるか否かに関わらず、多くの機関や施設が個人に依存しすぎてしまっているところにあります。

アーツカウンシルの設立は一つの方策でしょう。いったん明確な機関が立ち上がれば、少なくとも各ポストが、創立時のメンバーがそれぞれ退任した後も引き継がれていくからです。そうすれば企業なども、税金対策や政府認可を理由に寄付活動がしやすくなります。シンガポールのアーツカウンシルは、非常に順調です。もちろん、まったく機能していない、もっと他に資金源を探したほうがいい、と主張するアーティストたちもいますが。世界のどこのアーツカウンシルにも、それぞれにプラス面とマイナス面がありますし、どの解決方法がベストなのか、私自身も判断しかねるところです。
昨年ファイブ・アーツ・センターは、マレーシアの総選挙の物語『選挙の日』を上演しましたが、あなたは上演許可を得るためにクアラルンプール市当局の検閲委員会と戦わなくてはなりませんでしたね。マレーシアの検閲についてどう思いますか?
私たちは文化芸術遺産省との対話で、検閲についても議論を続けています。マレーシア社会が本当に成熟しているかどうかを見極めなくてはならないわけですから、これは厳しい戦いになります。私たちは常に綿密な自己検閲をしていて、ブダヤ・キタという自国文化の規範も十分理解しています。ただし、政治、宗教、人種といったいわゆる「微妙な問題」について、さまざまな異なる考え方が存在するのはやむを得ません。

かつて私たちが提案したのは演劇のレイティング・システムです。一般の人が自分で判断できるよう、例えば、「成人向け」といったような公演の内容を広告に載せるのです。また、すべてを公演主催者たちに任せてしまうというアイデアもあります。つまり、やりたいことは何でもやってよいけれど、いったんルールを破ったらそのツケを払わなくてはならない、というものです。しかし、自分たちはルール違反しているのか、そのツケとは何なのか、といったことを認識しない限りは、そのアイデア自体も結局は、私たちにとって非常に危険なものにすぎません。

そんななかでも『選挙の日』はまだ良いほうだったと言えます。というのは、この話題が新聞に取り上げられたため、問題の一部始終を劇場のロビーに貼りだし、毎晩観客と議論することができたからです。公の場でこのような大きな議論になったのは興味深いことです。観客同士も議論をし、問題の経過に深く関わっていきました。もちろん常によい反応ばかりだったわけではありません。検閲委員会の注文どおりに台本修正することに同意した、と言って私たちを非難するアーティストもいました。

最近の変化ははっきりとは分かりませんが、もはや上演台本を検閲委員会に提出する必要はないはずです。クアラルンプール市当局は『選挙の日』以降、検閲委員会を解散していますから。

検閲はとにかく、悪です。私が教えているナショナル・アーツ・アカデミーで講義するとき、学生たちは「微妙な問題」について話すのを非常に怖がります。問題が「微妙」なのはひとえに、私たちが話題にしないからなのです。問題について堂々と話せば、それはもう「微妙」でもなんでもなくなります。

しかし、それがもっとも難しい。例えば、マレーシアの人種問題について言えば、私の子どものころと比べると、人種間の社会的緊張がずっと高まっています。私がジョホール・バルの小・中学校に通っていたころはマレー系、中国系、インド系の生徒たちがすべて混ざり合っていました。現在、学校に行って休み時間に生徒たちを観察してみると、マレー人だけでかたまり、中国人だけでかたまり、インド人も彼らだけでかたまります。ひどい状況です。人種間の交流があり得るのはロック・コンサートか、国立スタジアムでのサッカーなどのスポーツの試合か、そして現代演劇だけなのです。

現在、マレー系の人々の多くはイスラム文化の自覚を持っています。しかし、イスラム教がマレーシアに伝わったのは1400年代になってからです。人々はイスラム以前に存在していたマレー社会、マレー文化の記憶を無くしてしまっているのではないでしょうか。実際、マレー文化はヒンドゥー教とアニミズムの要素がすべてです。人々はその事実を無視しようとしていること自体、恐ろしいことです。マレー舞踊のダンサーが「インド人の子はマレー舞踊を踊れないね」とかつて私に言ったことがあります。このような人種の偏見がアートの世界にもいまだ存在します。

先ごろ、マレーシア政府は「国の結束」を達成すべく国家奉仕プログラム(徴兵を含む国民研修)を開始しました。しかしこのような人種システムの中で18年間も教育を受けてきた若者たちが、どうやってたった3カ月の研修で意識を変えることができるでしょう? 私たちが政府に助成申請するたびに「カンパニーにマレー人は何人いるか? 中国人は? インド人は? その他は?」と問いただすのです。これにはうんざりします。しかし、人種混合を促進しなさい、というのが彼らの主張です。とにかく、こんな考え方は止めてほしい。
この20年間、ファイブ・アーツ・センターは日本を含め、国を超えたアーティストとのコラボレーションに積極的に参加してきました。コラボレーションに関心を持ったのはどういった理由からですか?
当初からファイブ・アーツ・センターにはさまざまな地域出身のメンバーがいましたので、ジャンル横断的な作品制作のほうにフォーカスしていました。例えば、演劇とビジュアル・アーツ、ビジュアル・アーツとダンス、ダンスと音楽、といった組み合わせです。こうして見ると、そもそもこのようなジャンルの区分は非常に人工的なものであることがわかると思います。伝統芸能の舞台を見ればなおさらです。例えば、影絵劇の名人はすべてをこなします。彼らはミュージシャンであり、歌手であり、役者であり、人形作家でもあるのです。いわゆる近代演劇がこういった区分けを生んだのです。ですから、私たちはより融合的なアートへと戻ろうとしているわけで、ファイブ・アーツ・センターの児童劇プログラムを「融合アート」と呼んでいるのもそのためです。つまり、コラボレーションはファイブ・アーツ・センターの本質的要素と言えます。

コラボレーションは、豊かさをもたらすものだと私たちは考えています。ファイブ・アーツは共同体です。例えば、私たちが行うミーティングはかなり長時間に及ぶものですが、それはメンバー一人一人の意見が非常に重要であるからです。そのプロセスは長く、労力を要するのですが、常によい結果が得られます。同様のことがコラボレーション作品についても言えます。プロセスは時にとても困難で苦労や苦痛を伴いますが、結果的にそこから学ぶものは極めて豊かなものであるのです。
ファイブ・アーツ・センターが日本人アーティストと行った主なコラボレーション・プロジェクトには『ダンス東風2』(1996年、竹屋啓子ダンスカンパニーと共同制作。佐藤信演出、竹屋啓子振付)と、『クアラルンプールの春』(2003年、パパ・タラフマラと共同制作。小池博史演出)があります。この2つのプロジェクトを比較すると?
国際コラボレーションはある意味、非常に自然発生的でさまざまな物事の混合体と言えます。佐藤信氏から『ダンス東風2』を持ちかけられたとき、彼の切り出し方は面白かった。私たちはかなり以前から劇団黒テントを知っていました。彼らの舞台はとても政治的で、私たちの舞台も、彼らほどではありませんが政治的なものだったからです。彼は日本の東南アジアとの関係について──日本は東南アジアとどうすれば向き合うことができるのか──ということについて非常に率直で誠実でした。作品でも戦争問題について無視できないことを理解していました。彼は既にフィリピンのPETAと活動を始めていたのですが、彼と夫人の竹屋啓子氏の、アジアのアーティストとコラボレーションしたいという要望は真摯なものでした。

彼らは既に『ダンス東風』の最初のバージョンをインドネシアとタイのアーティストらとつくっていました。そのなかでは、あるセクションの振付はタイの振付家が担当し、別の部分は啓子が振り付ける、といったように、ただセクションごとに切り離してつくっていました。パート2をつくろうと私たちに話を持ちかけてきたとき、私はファイブ・アーツの学際的バックグランドがありましたから、単にマレーシア側からダンサーだけを持ってくるだけにするのはやめようと提案しました。こうして、ビジュアル・アーティスト1人、女優/ダンサー1人、ミュージシャン1人、マレーシア人舞踊家1人に、ダンサー/振付家1人──これは私自身ですが──を選びました。異質の集団になりました。日本側は、啓子以外にコンテンポラリー・ダンサー2人、舞踊家1人、ミュージシャン1人が参加しました。

私たちが彼らとコラボレーションしたいと思った理由は第一に、信と啓子の手がける作品を信頼していたこと。第二にコラボレーションという発想自体が豊かな経験をもたらしてくれると信じていたことです。私たちはアートを利用してお互いを知り、理解し合い、いわゆる文化的ステレオタイプを打ち破っていったのです。結局のところ、コラボレーションは作品制作のみならず、お互いの関係構築においても行われたのです。

実際これは、私がかつて経験したなかでも最も対等なコラボレーションの一つでした。コラボレーションのあり方として、より多く発言したほう、もしくはより強い意見を持っているほうが相手を支配するという傾向があります。コラボレーションはとかく支配的になりがちです。しかし、この作品では10人の参加者一人一人に創造する時間と空間を与えようとする動きがありました。構成もすごく面白いものでした。そして、佐藤信氏を演出家として迎え、ちょうど私たちには外側から見る眼を求められていたわけですが、信の演出としての目は最終的に彼らを一致団結させました。

ここで興味深いと思ったのは、日本で公演をした際、日本の観客は語彙やスタイルがダンスらしくないファイブ・アーツのスタイルだったので、「マレーシア人ダンサーが日本人を支配している」と言っていたこと。一方、マレーシア公演ではマレーシアの観客は照明や衣装が非常に日本的だったので「ああ、日本人ダンサーがマレーシア人を支配してしまっている」と言っていたことです。今『東風』を見てみると双方の意見に同意できます。本当にこの作品は有意義で、奥深いコラボレーションでした。

『クアラルンプールの春』では、「コラボレーション」という言葉は、人によって異なる意味を持つことを教えられました。幾度かのワークショップを経て、「私のアイデアを提供するからあなたのアイデアをください」という私が慣れ親しんでいたコラボレーションとは違うことに気がつきました。小池博史氏のコラボレーションというのはパフォーマーを全員集め、彼がディレクションするというものでした。これはコラボレーションとは言えない、という人がたくさんいました。演出家の文脈、演出家の視点、つまり演出家が見たいと思っていたものでしたから。特に博史は、非常に明確な独自の視点を持っていました。そしてワークショップからプロダクションに移行する時点で、私はパフォーマーたちに「しっかり目を見開いて臨みなさい。学ぶことは多い。でも、ある意味、これはコラボレーションだとは思わないで」といった話しをしました。ですから『クアラルンプールの春』をコラボレーション作品と呼ぶべきかどうかはわかりませんが、素晴らしい経験でしたし、結果的にとてもよい舞台になりました。しかし全体を仕切っていたのは、演出家一人でした。

しかし、この日本のパフォーマーたちとのリハーサルを通じて、表現という点においてはコラボレーションが実現し、充実したプロセスでした。ただ、基本的にパフォーマーは演出家の視点を表現するように求められました。面白かったのは、おそらくグループ内で私が年上だったからでしょうが、演出家は他の人にディレクションしても私には何も言いません。そういった意味で、彼と私の間にはコラボレーションが成立していました。しかし全体としてみると、何と呼んでいいのか分かりませんが、一般的な意味のコラボレーションではありませんでした。一方で、創造的な活動はすべてコラボレーションだとも思っています。そうすると『クアラルンプールの春』もコラボレーションと言えるわけです。しかし『東風』は本当の生みの苦しみを味わった、そして喜びに満ちたコラボレーションでした。一瞬一瞬が、一人一人の努力のたまものなのです。

今年の春に東京を訪れ、世田谷パブリックシアターで東南アジアの16人のアーティストが参加するコラボレーション・プロジェクト作品『ホテル グランド アジア』を観ました。アジアのコラボレーションについての面白い考察が得られました。アジアのコラボレーションとは何か、アジアとは何か──佐藤信氏から発せられたこの問いを私たちは20年以上考えて続けています。今私たちは、新しい方向へ向かっていかなくてはなりません。新たな問いを発する必要があると、強く感じるのです。


<弔辞>
ファイブ・アーツ・センターの共同創立者であり、マリオン・ドゥ・クルーズ氏の夫であるクリシェン・ジット氏が2005年4月28日、ちょうどこのインタビューから1週間後にお亡くなりになりました。ジット氏は、マレーシアで最も尊敬され、偉大な影響を与えた演劇の体現者でした。マリオン・ドゥ・クルーズ氏に対し、心からのお悔やみを申し上げます。
Manchester United & The Malay Warrior

イギリス・マンチェスターで開催された英連邦競技会関連のアートフェスティバルで上演された
『Manchester United & The Malay Warrior』

クアラルンプールの春

パパ・タラフマラとの共同制作作品『クアラルンプールの春』

ファイブ・アーツ・センター
Five Arts Centre


ファイブ・アーツ・センターは1984年に設立されたアーティストの組織体で、ダンス、演劇、ビジュアル・アーツ、音楽、児童劇の「5つのアート」を中心に活動。若いアーティストを育成し、地域社会を刺激するアートの促進を行うなど、積極的な活動を展開している。現在では、ファイブ・アーツ・センターはマレーシアの舞台芸術界で真のリーダーとして認められるようになった。ドゥ・クルーズ氏はファイブ・アーツ・センターの創始者の一人で、現在代表メンバーとして活動中。さらに彼女は、マレーシアを代表するダンサー兼振付家の一人であり、同国のダンス界のリーダー的存在であり続けている。
http://www.fiveartscentre.org