古川健

治天ノ君

2017.10.02
古川健

古川健Takeshi Furukawa

1978年東京都出身。2002年上演の劇団チョコレートケーキ第2回公演『ヒーロー』以降劇団の全作品に関わる。当初は役者として出演していたが、2009年、第16回公演の『a day』以降は出演の傍ら脚本を担当。以後の劇団作品の全戯曲の執筆を手がけている。歴史上の出来事、社会的な事象を題材にした骨太の作品が高く評価され、近年では外部への脚本提供も多い。2011年『一九一一年』で佐藤佐吉賞、優秀脚本賞を受賞。2014年『あの記憶の記録』がテアトロ新人戯曲賞の最優秀賞とサンモールスタジオ選定賞の最優秀賞を、同年の『治天ノ君』が読売演劇大賞の選定委員特別賞を受賞。2016年には『追憶のアリラン』で読売演劇大賞の優秀作品賞を受賞、鶴屋南北戯曲賞にノミネートされる。さらに同年『ライン(国境)の向こう』で岸田國士戯曲賞最終候補となる。

劇団チョコレートケーキ
http://www.geki-choco.com/

歴史上の出来事をモチーフにした作品を発表してきた劇団チョコレートケーキの座付作家、古川健の代表作(2013年初演)。1912年から1926年までの15年間、第123代天皇に在位した大正天皇の人間としての生涯を妻節子が回想として辿った作品。天皇の姿を通じて、近代日本の時代の流れを追い、初演で第21回読売演劇大賞選考委員特別賞を受賞。再演を重ねている。

劇団チョコレートケーキ『治天ノ君』(再演)
(2016年9月) 撮影:池村隆司
Data :
[初演年]2013年

 死の淵を臨む大正天皇嘉仁は、妻の貞明皇后節子に付き添われ、覚束ない足取りで玉座に着く。息子裕仁(昭和天皇)からの見舞いを受けながら、先帝天皇睦仁の亡霊に対し、期待に応えられなかった自身の不甲斐なさを詫びる。裕仁が困惑する傍、妻への感謝の言葉を残し、息をひきとる。

 嘉仁と節子が出会った27年前。仲の良い夫婦であろうと誓い合う二人を苦々しい思いで見つめるのは父親の明治天皇陸仁。天皇に私情は不要、臣下の前では空となり、感情をみせるなと叱咤する父に嘉仁は異論を唱える。

 教育係である有栖川宮威仁親王に、将来への暗澹とした思いを明かす嘉仁。それに対し、威仁親王はまずは西国巡啓に出て見聞を広めるよう勧める。

 一方、威仁は、嘉仁の帝としての資質に疑問を抱く睦仁に会い、若き皇太子には新しい時代に即した西洋風の人民に開かれた皇族を実現する可能性が備わっていると助言する。帝のあり方を変える意思のない睦仁は、帝とは未来永劫に畏怖の存在であり続けるべきだと言い、聞く耳を持たない。

 嘉仁の良き支援者であった威仁は、生来の虚弱体質ゆえ患い、嘉仁のそばを離れることになる。時を同じくして、父睦仁もその生涯を終えようとしていた。

 嘉仁の死後。喪に服していた裕仁に対し、側近の牧野伸顕内大臣は新たに誕生した昭和天皇を強く印象づけるため、明治60周年を盛大に祝うことを提言する。とまどう裕仁に、牧野は自由の風が吹いた大正の役目は終わった、今こそ明治の栄光を取り戻し、天皇はその上に君臨しなければ、と諭す。

 明治天皇睦仁の臨終の床。睦仁は裕仁こそが自分の望むところの天皇であると嘉仁へ告げる。最後まで相容れなかった親子はそのままの形での別れを迎える。

 嘉仁は、皇太子時代からの側近、原敬、大隈重信を呼び、新しい時代の指針を示す。それは列強の国々に追いつけ追い越せと猛進した時代から速度を落とし、人々の営みを豊かにする国を目指すというものだった。身近な天皇となるべく行動を起こす嘉仁に原、牧野らは困惑しながらも新しい時代の推進に尽力することを誓うのであった。

 そんな折、第一次世界大戦が勃発。日清・日露戦争で勝利した日本はさらなる勢力の拡大のため参戦を決める。時の内閣総理大臣大隈は参戦に消極的な嘉仁を説き伏せることに成功するが、そんな大隈に原は純粋な嘉仁を政治利用するな、と苦言を呈する。

 嘉仁の死後の、裕仁と牧野の会話。牧野は、当初は嘉仁の柔和路線に追従していたが、第一次世界大戦の中で、没落していった列国の皇帝たちを目の当たりにし、明治のように畏れられる帝への路線変更を決意したのだと語る。

 大戦景気に湧く日本。一方、病魔が嘉仁の身体を蝕もうとしていた。嘉仁は引退を報告しに上がった大隈に「天皇とはなんだ?」と問いただす。大隈は「天皇とは自らで作った神棚」。維新のためには将軍の代わりに民衆が拝む対象が必要であると答える。さらにその目的を見誤る事があれば、この国は危うい事態に陥ると予告する。

 長生きをして泰平の世を保って欲しいと大隈に言われた嘉仁であったが、髄膜炎の悪化により、歩行や日常の動作に支障が現れ始め、舌がもつれ、勅語を読むこともできない。

 国の尊厳を守るため、現人神である天皇の弱った姿を国民に晒すわけにはいかず、牧野は裕仁を摂政に据えるよう謀る。裕仁のヨーロッパ外遊からの帰国を機に嘉仁に君主交代を迫る牧野と原。すでに意識も記憶も朦朧としている嘉仁だったが、一瞬正気を取り戻し、自分は天皇の責務から逃れるつもりはないと言い放つ。

 君主の交代が避けられない状態となる中、慎重に事を進めようとしていた原(総理大臣)が暗殺され、一気に事態が動く。大正10年11月25日、裕仁が摂政に就任。天皇という生まれついての重責から解放された嘉仁の意識の中で、恩師威仁親王、先帝睦仁が労いの声をかけていた。

 裕仁と牧野は明治再興のため、明治天皇の誕生日を祝日として祝い、大正天皇の誕生日は平日に戻し、大正を記憶から葬ろうとしていた。明治60周年祭の計画を練っていた裕仁のところに節子が訪れ、父を再び葬る行為だと諫める。

 そんな母に、裕仁は全てはきな臭い時勢にある状況下の苦渋の決断であり、天皇は情を捨てなければならないと反論する。節子はそれならば自分の信じる道を全うし、逃げることだけはしてはならぬと言い残し、去る。

 生涯愛し合った幸せな日々を振り返る嘉仁と節子。玉座に座る裕仁。「君が代」と天皇陛下万歳の声が大きくなる中、暗転。

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