田中泯

「私は場所で踊るのではなく場所を踊る」
田中泯の“名付けようのない踊り”とは?

2022.05.24
田中泯

(C) Madada Inc./Rin Ishihara

田中泯Min Tanaka

1945年3月10日、東京大空襲の日に生まれた田中泯は、東京・八王子の里山近くで育った。ひとり遊びの好きな「物言わぬ子供であった」が、やがて盆踊りや神楽や浪花節、河原芝居や三河万歳に夢中になる。10代になって日本文学を愛読し、シュルレアリスムにも傾倒。その後、バスケットボールの五輪チームに憧れて強豪・東京教育大学(現・筑波大学)に入学するも、挫折してクラシックバレエとモダンダンスを学びはじめる。

1966年からソロダンス活動を開始。様々な場所で、パフォーマンス(行為)を多々行い、1974年に「裸体を衣裳として」選ぶ。この時代に共闘者となる木幡和枝、松岡正剛と出会う。1978年、松岡との関わりの中で発見した「身体気象」という言葉を用いた「身体気象研究所」を、八王子に創設。同年、作曲家の武満徹と建築家の磯崎新が企画監修し、パリで開催された『「間」 – 日本の時空間』展に招聘され、3週間にわたって踊りを披露。これを契機に多くの交流が生まれ、「裸の田中泯」は欧米の知識人や舞台芸術ファンの間で広く知られるようになり、各国で踊るようになる。

1981年に舞踊グループ「舞塾」結成(1997年解散)。1982年、東京・中野に表現者が共同運営する実験的なスペース「plan-B」を創設。自身の公演のほか、話芸、シンポジウム、トーク、音楽ライブ、展覧会、上映会、演劇、ダンス公演など多種多様なイベントを開催する。開設前に雑誌『遊』に土方へのオマージュ「地を這う前衛」を寄稿。これが縁となって、土方に振付を依頼した『恋愛舞踏派—定礎』を発表する。

1985年には山梨県白州に移住し、「身体気象農場」と称して踊りと農業に従事。1988年からは同地で野外芸術祭を主催し、国内外の芸術家に発表や協働の場を提供した(1997年には同地に国内の民俗芸能、伝統芸能、世界中の民族芸能の資料収集などを目的とした「舞踊資源研究所」を立ち上げる)。

2002年、山田洋次監督の映画『たそがれ清兵衛』に出演。以降、映画やテレビドラマでも注目を集めるが、「本業」はあくまで踊り。2004年にインドネシアの島々を踊りながら45日間旅して以後、日常のさまざまな「場」で即興的に踊る「場踊り」を各地で展開する。

長年にわたり、音楽家のセシル・テイラー、デレク・ベイリー、ミルフォード・グレイヴス、ライコ・フェリックス、タチアナ・グリンデンコ、ウラジミール・マルティノフ、小澤征爾、山下洋輔、高橋悠治、灰野敬二、大友良英、坂本龍一、哲学者・作家のミッシェル・フーコー、フェリックス・ガタリ、ロラン・バルト、スーザン・ソンタグ、中上健次、寺田透、美術家のリチャード・セラ、カレル・アペル、ジャン・カルマン、原口典之、中谷芙二子など、多くのアーティストや哲学者と親交を結び、協働した。

2020年1月からTHEATRE E9 KYOTOで「言葉以前の感覚に満ちたオドリ場をつくる」というソロ公演のシリーズをスタート。同年12月には劇場公演として松岡正剛とタッグを組んだ『村のドン・キホーテ』を東京芸術劇場で発表した。また、2022年1月には、映画『メゾン・ド・ヒミコ』への出演をきっかけに親交を重ねてきた犬童一心監督が、2017年8月から2019年11月まで田中泯を追い続けたドキュメンタリー映画『名付けようのない踊り』を公開した。

国内外のさまざまな場所で即興的に踊る「場踊り」を展開している田中泯。2022年に公開されたドキュメンタリー映画『名付けようのない踊り』(犬童一心監督)で改めてその存在が注目されている。土方巽との出会い、今年40周年を迎えたplan-B(東京・中野)の創設、白州での取り組みなど、彼の思考を辿るロングインタビュー。
聞き手:小崎哲哉(ICA京都『REALKYOTO FORUM』編集長)

plan-Bの開設と即興の追求

泯さんは1945年3月10日、東京大空襲の日に生まれました。今年公開されたドキュメンタリー映画『名付けようのない踊り』では、こうした生い立ちを含め、2017年8月から2019年11月まで泯さんが各地で踊った「場踊り」や山梨県の山村での暮らしなどを追いかけています。生い立ちや、泯さんが衝撃を受けたという土方巽との出会い、踊りを「名付けようのない踊り」と称したロジェ・カイヨワ、「アウトサイダー」の筆者であるコリン・ウィルソン、スーザン・ソンタグ、美術家のリチャード・セラなどとの交流と、お伺いしたいことは大変たくさんあります。
その中で、今回は、80年代以降、現在、さまざまな場所で即興的に踊られている「場踊り」につながる部分に焦点を当てて伺えればと思います。泯さんは、80年代にダンスに限らず、文学、建築、美術、音楽、映像などの先端に触れられる実験的なスペースとして立ち上がった「plan-B」(東京・中野)(https://i10x.com/planb/about)の共同創設者のひとりです。まずはここから伺いたいのですが、ご自身の発案でつくられたのでしょうか。
 僕がやりたいことを木幡和枝(アートプロデューサー、翻訳家/東京藝術大学美術学部先端芸術表現科名誉教授)に伝え、どんなふうにしていったらいいのかを相談しました。どうしてもいろんな人たちと一緒に共同運営にしたくて、多彩なジャンルの人たちが集まってスタートラインを切りました。オープニングから突っ走り、演劇は武智鉄二(武智歌舞伎で知られる演出家・評論家)から始めていろいろな人に喋ってもらったし、音楽も同じです。僕は自分の企画で「現在の舞踊」というシリーズをやり、舞踏を含めていろいろな人に来てもらって、内容は全部お任せしてやった。2年続けたかな。
plan-Bの開設は1982年ですが、その前の年から、パーカッションのミルフォード・グレイヴス、ギターのデレク・ベイリーと一緒に「MMD計画」を始めます。
彼らが初めて日本に来たとき(77年にグレイヴス、78年にベイリー)、PARCO劇場の前身に当たる西武劇場で公演をして、それを見て僕はすごくびっくりした。松岡正剛さん(雑誌『遊』編集長)がミルフォードをインタビューしたときにそばで聞いていたのですが、この後に八王子で阿部薫(サキソフォン奏者)などと一緒に共演すると言う。僕は八王子がふるさとだから、じゃあ送っていきましょうと、京王線に乗って一緒にライブハウスに行った。そしたら、ミルフォードとやりたいという音楽家がドーンと集まってたんです。
フリージャズの批評家、間章(あいだあきら)の招聘でした。間さんがブームの火付け役になり、フリージャズが日本に紹介されていた時代です。
 そう、間章です。彼と話すことで、土取利行(パーカッショニスト)にしても、近藤等則(トランペッター)にしても、そういう人たちとつながっていくわけです。僕は間さんに認めてもらっていたので、パリの『間』展(78年に武満徹と磯崎新が企画監修して話題となった展覧会)の後、79年にロンドンでデレク・ベイリーとふたりだけでやりました。それからデレクと一緒にニューヨークのザ・キッチンというスペースで公演したのですが、その時にデレクを誘ってミルフォードのところに行き、初めて3人で会ったんです。
泯さんがデレクとミルフォードをつないだのですか?
 ええ、そうです。それで、早速、日本で一緒にやることになった。でも大変でしたよ。音楽の世界の人たちですら、あんなに違う巨人ふたりが一緒にやるなんてありえないって。でも、大成功だった。日本中、ものすごい客が入りました。
デレク・ベイリー、ミルフォード・グレイヴス

はじめてあったときの写真
(左からデレク・ベイリー、ミルフォード・グレイヴス、田中泯)

当時、フリージャズやインプロビゼーションの音楽家が、ダンサーと即興コラボレーションすることは結構あったのですか。
 普通にはなかったですね。踊りも「即興」とは言うけど、僕は即興をインプロビゼーションとアドリブとに分けていて。アドリブは自分の倉庫にあるものを使って組み替えること。空間が変われば同じ動きでも違って見えたりするし。壁との距離が変われば、どんどん違ってくるし、砂漠で踊るのと森の中で踊るのでは同じことをやっても違って見える。でも、インプロビゼーションはやったことのないことをやるということで、これは決定的に違うんです。自分の持っているものだけでは済まなくなる。
互いに触発されるためにコラボレーションするわけですからね。
 デレクは「見たこともない雲に会いたい。それが即興だ」と言うし、ミルフォードは「一瞬たりとも休まない革命である」と言う。大友良英(ギタリスト、ターンテーブル奏者)や灰野敬二(実験音楽家)もみんなMMDを見ています。ミルフォードもデレクもplan-Bでやってもらいました。

 ミルフォードもパワーで突っ走るけど、その後、セシル・テイラー(詩人、ピアニスト)というもっととんでもない人と出会うんです。死ぬ前にホイットニー美術館が主催した「セシル・テイラー展覧展(Cecil Taylor-exhibition)」では、パフォーマンスにダンサーとしては僕だけが出演した。「ある時、私たち、土色をした人間たちはお金で買われてアフリカから世界中に移動した。これは戦争以上に大変な事件じゃないか」って、ピアノを弾く合間に白人ばかりの客席に彼は、彼流の言葉「詩」をもって問いかけるんだから!
セシル・テイラーは2013年に京都賞を受賞します。受賞記念公演は泯さんとのデュオでした。
 授賞式だから、ほかの人たちは講義をするように自分の成果を発表したけど、彼はしゃがれた声で詩を朗読して、そこに僕が出てふたりで即興をやりました。最初は京都賞の稲盛財団の担当者から連絡があった。「セシル氏が京都賞を受賞することになり、その式典で祝辞を述べるよりもピアノを演奏したい、そしてあなたと一緒にパフォーマンスをしたいと言われている。彼のお願いを受けてもらえないか?」という感じで丁寧に尋ねられたと記憶してます。授賞式で賞状などを授与されるときには親族が一緒に登壇するけど、彼には親族もいないので、それも僕と一緒にと…。僕は本当に心からのお祝い、彼の存在への尊敬のみで、立ち合わせてもらいますと答えました。

土方巽との出会い

plan-Bを開いたのと同じ年に「地を這う前衛である」を雑誌『遊』に発表されましたね。土方巽へのオマージュ的なテキストです。
 plan-Bを開いたのはそれを発表した後です。plan-Bは地下で地上階にThe Shopという場所があり、公演が終わった後にみんながそこで飲んだり話したりできる。そこに、合田成男(舞踊評論家)が土方さんを連れて来たんです。楽屋で準備していたときに合田さんが「土方が来てるよ」って。僕はもうガクガクで(笑)、めちゃめちゃな踊りになった。で、終わってThe Shopで話したときに、合田さんが「今日の泯は全然駄目だった」と言ったら、土方さんが「あがることなしにダンスができますか?」って。もうびっくりです。僕を相手にしてちゃんと話をしてくださったのはそれが初めてです。

 77年に、日本中いろいろなところで踊る「ハイパーダンス1824時間」をやっていて。留守番電話に何時からどこでやると伝言を残して、許可もとらずに即興で踊りました。その総仕上げで、今はなくなった青山タワーホールの前で踊った。この年に稲垣足穂(小説家)と野尻抱影(随筆家、天文学者)が死んだから、その追悼も兼ねて。それを土方さんが見て、終わった後すぐにそばに来て、「指と指の間に隙間があるでしょ、そこに例えば割り箸を挟んで練習してごらん」と言われた。多分、僕も気づかない癖について言われたんだと思います。

 土方さんはその頃、踊りの世界にまったく帰ってこなくなった。それで、81年、MMDをやる直前ぐらい、仲間を募集して「舞塾」をつくった頃に、図々しくも土方さんの稽古場に電話しました。また踊ってくださいと伝えたくて。そしたら、電話に出たのは間違いなく土方さんなんだけど、ガラガラ声で「先生は秋田にお帰りになっています」って。でも僕はどうしても「土方さんですよね」って言えなかった(笑)。「それではよろしくお伝えください」と言って電話を切りましたが、僕からの電話だってことはわかっていたはずです。
面白すぎますね。
 本当に面白い。僕の踊りをplan-Bで見た後、「これから六本木に行こう」と誘われ、タクシー3台ぐらいに分乗して当時の舞塾のメンバーも一緒に行った。土方さんは六本木の交差点で先頭切って降りて、お札をばら撒いたんです。踊りを踊るようにして撒いていた!
そのときに土方が見た泯さんの公演というのは?
 『感情』というシリーズです。
なぜ『感情』と名づけたのですか。
 その前は、自分の踊りを「ハイパーダンス」とか「舞態」とか名づけていて、J.G.バラード(SF作家)の「ドライブ」という概念が好きだったので踊りに行くことを「ドライブ行ってきます」とか言ったり(笑)。それで舞塾をはじめて、若い人50人ぐらいと2カ月ぐらい付き合うわけです。毎日、朝から晩まで、ものすごい量のワークショップを考え出して、ヘトヘトになるまでひたすらカラダを動かす。お互いのカラダの癖を真似し合うようなことをやっていたのですが、そのときに、「感情」を題材にしようと思いました。

 進化の過程で、人間は最初から喜怒哀楽というものをはっきりと持っていたわけじゃないでしょう。それが脳の発達によって、喜怒哀楽という分けられる感情を手にすることになる。踊りって、毎回内容も変わるし、個別の感情を表現してるわけじゃない。でも、感情に関わることであることは確かで、同じ瞬間に泣く人と笑う人がいる。

 音楽だって、出会い方が違えば感情は変わってきますよね。ひとつの記憶が流れてきてフッとなる人もいれば、フフンって鼻先で笑える人もいる。自分の中に感情の種をつくってはいるけれども、外側からの刺激がない限りそれは眠ったまま。自分で起こす、動かすことがなかなかできないもので、踊りと近いものだと思います。そんなことを考えて、『感情』というシリーズにしました。これはヨーロッパをはじめ海外でもずいぶんやった。ニューヨークで引き受けてくれたのがラ・ママ(1961年に開設された実験劇場)で、エレン・スチュワート(創設者)が、「うちでやりなさい」と言ってくれたんです。

カラダを発見する方法としての「舞踏譜」

土方はその後、plan-Bで活動を再開しますね。
 最初にやったのは、シンポジウムやスライドだけの上映会でした。4〜5人にスライド映写機を持たせて、土方さんが動きを振り付けて、壁一面に映写する。演出も全部やって、音楽もブースにいて指揮する。めちゃめちゃ新しかったですよ。スライドの映像は黒川芳朱(くろかわほうしゅ)という身体気象研究所にいたこともある映像作家。彼を土方さんが気に入って、写真ばかり使って、60年代の映像をつくりました。ああいうのは、繰り返し若い人が見るといいですよね。

 それから、若い舞踏家たちが毎日のようにソロをやったり、芦川羊子(土方が拠点としたアスベスト館の中核ダンサー)が踊りはじめたりした。ひとりひとりのダンスが終わると、土方さんと僕とで道に出て、どう思ったかを話す。それが僕には大変な個人教授になった。彼は、みんな性格通りの舞踏をやっていると言うんです。しつこい奴はしつこい踊り、跳ね上がりたい子は跳ね上がってばかりいる、と。

 それから癖についても話しました。僕はいま、手をこうやってこの位置に置いてるでしょ。たぶんこれは僕の癖で、こういう空間をつくりやすいから。それをポジションとして取っておくことは大切だけど、その隣に何かあるはずだって言うんです。

 本当にその通りで、土方は踊りで自分のカラダをすっとずらす。ここに立っていたと思ったらポンとこっちに移動する。隣に行った瞬間に、空間から何からみんな変わってしまうと言うんです。みんな自分が大事で、自分の癖を癖と思っていなくて、自分が好きな位置や好きな方向だけで踊ってる。それを壊す方法はないのだろうか、と考えるのが「舞踏譜」です。

 いま舞踏譜と言われているものは、それに従えば舞踏ができる、舞踏を踊るための方法だと思われています。だけど、土方さんの言っているのは違う。自然から習って、カラダを発見していくための方法が舞踏譜です。ですから、ひとりで書き上げるものじゃない。みんなのカラダがそこに参加していて、同じ内容の言葉なんだけど、参加している人たち自身に書かせる。自分で書いて覚えなさいと言って、その人が話を聞きながら、手書きでまとめて書いていくんです。

 晩年、最後の方の彼の講義は筆記作業がすごく多かった。永田耕衣の俳句を、今日はこれを題材にすると言って、まずみんなに書かせるとか。筆記とか模写というものを、ものすごく大事にしていました。鶏小屋で1日過ごして、次の日に鶏の踊りを踊りましょう、ということもやっていた。

 土方さんは西洋的な振付を馬鹿にしていましたからね。西洋から入ってきた言葉を「振り付け」と翻訳したのだとしても、「振り付け」という日本語には当然そこに違う意味が入ってくる。でも、そこを捉える知性を日本の舞踊家は発揮してこなかったんです。

 西洋的な振り付けとはまったく違うことを考えていたのが土方で、彼には、カラダに革命を起こすとしたらこうしたいという美意識がありました。僕はそれを直に習って、僕のカラダを粘土のようにいじくってほしいって思いました。だから「カラダあげます」くらいのつもりで、一切自分から動きませんっていうことでやってもらった。
それが、1984年に上演された『恋愛舞踏派—定礎』ですね。
 そうです。土方さんを初めて見たのは60年代ですから、そこに至るまでに15年かそこらかかった。土方さんと僕が急接近したのは、この1回限りです。お弟子さんたちがやってもらっていることを僕もやってもらおうと。初めて見たときに「すごい」と思ったけど、あまりに強烈で、この人のそばにいたら決定的に影響を受けてしまうとそれまでは敬遠していた。家族に例えれば、最初から家出している息子のような思いでした。

 それで振り付けていただけますかと聞いたら、すぐ「君は賢いね。やろう」と。頭がいいというより、よいタイミングのときに依頼してくれたね、という意味だったと思います。
この題名は、どういうふうに決まったのですか。
 「舞踏派」というのは彼が名づけたのですが、この「派」というのは積極的な教え=教えられる関係というふうに受け止めてほしいと言われました。それで「恋愛舞踏派」というカタログをつくったときに、僕はそれまでに、70年代に1824時間のハイパーダンスを経て多分すでに2000回くらい踊りを踊っていて、踊った後にメモのようなものを書いていたのですが、それをすべて土方に渡しました。
どんなメモですか。
 いろいろです。誰々さんに会ったとかいうような現実に起きたことや、自分のカラダの問題とか、ちょっと哲学的なことを書いたり…。そうしたら、そのメモを全部カタログに載っけようと言ってくれた。

 印刷に出すギリギリのタイミングで、一緒に喫茶店に入ったときに、土方さんが「恋愛かな」って言い出した。聞いたときは恥ずかしかったのですが、「恋愛舞踏派でいい、ふたりでつくるから」って。要するにふたりだけの派だったんです。
村のドン・キホーテ
村のドン・キホーテ

『村のドン・キホーテ』(2020年12月4日~6日/東京芸術劇場 プレイハウス)
撮影:平間至

「私の踊りなんていうものはない」

ほかの人に振り付けされたのはモダンダンスを離れてからは初めてですよね。どのように感じましたか。
 面白くて、面白くて。舞踏譜って言われてるものの原型に近いと思いますけど、カラダのあらゆる部分に自然から取った刺激を付着させたり、あるいはそこで動きを探してみたり。例えば、「花面を風がそっと触る」という言葉を感じようとして必死にやって、少しずつ大きくしていくとか。カラダの中で、あるいは心の中で感じたものを捕まえて、それを外側に出していってだんだん大きくするんです。
振り付けの指示はどのようなものだったのでしょう。
 全部言葉です。ボソボソ喋る。動いて見せたことは一度もない。
土方巽の著書は『病める舞姫』も『美貌の青空』も、耽美的というか、詩的な文章が連なっていますよね。そういう言葉ですか。
 近いかもしれませんけど、もっと、もっと具体的です。風が自分の髪の毛をさらっていって後方にどんどんどんどん引っ張っていく。それが何万キロまで伸びていくとか。ブドウ棚の下で背を丸めて、3000キロ離れたふるさとに手を伸ばしていくとか。
土方の踊りは、泯さんとつながってはいるけれど全然違うように思います。
 まったく違います。あのように踊っても、僕のカラダは、ひょっとしたら拒否するかもしれないし、そうなりたいとも思ってなかった。土方はほとんど何もしないんです。その典型が、人間座がアートシアター新宿文化で1970年にやった野坂昭如(小説家)の『骨餓身峠死人葛』の公演です。それには土方と瑳峨三智子が主演していました。

 そのときの土方は巨大なお釜の中に入って、開演と同時に客席の背後から若者たちに担がれて来て、舞台にドンと置かれる。そして釜から出て、釜の中にくっついていたご飯をしゃもじで取って食べ、ふーっと立ち上がる。それまでに、なんと30分も経っている。その間、踊りらしいことなんてこれっぽっちもやっていません。出てくる、横たわる、中を覗く、口に入れて食べる、そしてふわーぁと立ち上がっていくだけ。びっくりしました。

 彼は、「自分は例題だ、一例であってトップに立つものでは決してない」と思っていたんです。
カラダはそれぞれ固有で、踊りはみんな違うということが前提だったからほとんど何もしなかった、ということでしょうか。
 そうです。ひとりひとりになるということが土方の夢だったと思います。だからおそらく、「舞踏」はいずれ邪魔になると思っていたのではないでしょうか。亡くなる前には「踊り」としか言わなかったですから。例えば大野一雄(舞踏家)のことは年齢差もあるし、土方流のあだ名のように「先生」と呼んでいましたけど(彼はよく人に勝手に独特のあだ名をつけて呼んでいた)、彼が神様のようになってきたことは嫌悪していたと思いますよ。

 僕も大野一雄の晩年は嫌悪します。あの年齢でカラダを動かせなくなって車椅子に乗った人は日本中にざらにいます。それなのに、なんで大野一雄だけが踊ってもいないのに踊っていると言われてしまうのか。あれを踊ってるという人に質問したい。踊りが見えてないのに、あなたには見えるのですか、と。彼らは感情でしか見ていない。踊りの歴史に参加していない。歳を取った大野一雄という長老がやっている祝祭に参加させられてるだけです。言っておきますが、彼が踊っていた頃、僕は大野一雄さんは天才的なダンサーだったと思っています。

 僕が土方の死後、舞踏に興味がなくなってしまったのは、まぁ、そういうことが原因だと思います。すごい時間をかけてつくりあげてきたもの、特にバレエなんかがヨーロッパから日本に入ってきて、それを日本人が意外に簡単に受け入れて、ヨーロッパ的な綺麗なもの一辺倒になっていった。あの時代に生まれていたとしたら、僕だって相当へそを曲げていたと思いますよ。本当はね、土方さんにはそこら辺のところをぶちのめしてほしかった。本来ならばバレエをやるような人がやったって舞踏になるという教え方をしなければ駄目だった。
ふたりでオリジナリティの話もよくされたんですよね。
 私の踊りなんていうものはない、踊りは「私の」と名づけられるような、所有できる存在ではないんだという話ですね。所有できる存在だとしたら舞踏の種ってどこにあるのかとか、例えば、バレリーナが「私の踊り」って言うけど、それはどこから始まったのかというような問題です。「私の」というのは、私がバレエという踊りを踊っているということでしかない。これは理屈っぽいけれども、本当にそうで、「私の踊りをお見せします」では空間は成立しません。
土方は『恋愛舞踏派—定礎』上演後、1年半もしないうちに亡くなります。
 僕が1985年に山梨県白州に移ったときに、土方さんはまだ生きていましたが、既に死ぬ準備をしていて。映画『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(監督:小川紳介)のためにしばしば山形に行っていました。で、秋になって入院し、86年の1月27日に亡くなっちゃうわけです。

 死ぬってわかっていたんだと思います。今日死ぬって連絡があって、10数人と会って話をして、そのことにも愕然としましたが、全員と会って30分後に死にました。

 僕は、あえていうと、彼の「意志」に本当に憧れます。

踊りと農業の相互影響

白州に移住した1985年前後は、plan-Bの開設、『恋愛舞踏派』の公演、チェコの革命グループに招かれた東欧での巡業など、大変多忙な時期でした。なぜ移住を決意し、なぜ白州を選んだのですか。
 まだ中央高速ができる前、高校生の終わり頃ですが、八王子から山梨を突っ切って諏訪まで、甲州街道をバイクで飛ばしていました。その当時は、カミナリ族と呼ばれていましたが、まったく人と連まないでひとりで走る。その頃に見た、八ヶ岳とか、南アルプスとか、あの周辺で畑と家を借りられるようなところがないかなと思ったら、本当に見つかった。うまい具合に借りられたのがいちばんの理由です。
いつ頃から白州に行くことを考えていたのですか。
 舞塾を結成したのが81年で、最初の稽古場は八王子でした。奇跡的にへそ曲がりな地主さんがいて、その人と一晩飲んで、子どもの頃の遊びの話とかしている内に気に入られて、稽古場を建ててくれたんです。プレハブですけど60坪あって、床下に(ダンスの衝撃を吸収する)タイヤまで入れてくれた。僕は建築費を一銭も払ってなくて、出来てから家賃だけ払いました。それから4年間借りたけど、最後の1年間は家賃を払えてない。そこをそのままにして、もっと自由に使える場所が欲しくて、同じ市内に稽古場を移動しました。

 でもその稽古場が使えなくなって、それで白州に移りました。そのときにはまだ八王子は持っていて、使いたいという劇団に貸したりしていた。その後、大家さんに申し訳ないことをしたと謝ってお返しして、数年間は滞納した家賃の代わりに収穫したお米を送ったりしていました。大家さんはその内に亡くなりましたが、本当に素晴らしい人でした。
農業をやろうと思ったのはなぜでしょう。
 舞塾に外国人が多かったのと、当時、30人か40人いた若者がみんなアルバイトをしていて。昼間アルバイトをしてから稽古するのはつらいし、アルバイトが原因で練習できなくなるというのは本末転倒でしょ。

 一方で僕自身も、都会の稽古場で踊りの練習をしていることに違和感を感じていた。「綺麗な稽古場でワン・ツー・スリー・フォーなんてやって踊りになるのか」と思ったら、何か疑わしくなってきて。それで実際に百姓を始めたら、いやいや踊りどころじゃないぞ、と。命とか、植物とか、自然観とか、死生観とか考えなくちゃいけないことが出てくるわ、出てくるわ。それをみんな、地面から湧き出すように感じたんです。これも考えなきゃいけない、あれも考えなきゃいけない。その中のひとつに踊りがあって……。
「その中のひとつ」に変わったわけですね。
 変わっていった。でも、踊りと全然関係ないわけじゃなくて、踊りをやっていたからこそいうことに気がついたわけで。死生観ばかり考えていたら踊りは生まれなかったかもしれないし、ほかのことや、普通の営みみたいなものにつながっていかなかったでしょうね。

 土方さんは、言語は肉化しなきゃ駄目だ、カラダに落ちなきゃ駄目だって散々言っていました。それを頭から信じていましたし、いまだに信じていますが、落とせる場所が踊り以外にも見つかったということです。
農業は最初からうまくいきましたか。
 全然いかない。まず、土地を貸してくれない。家は借りられたけど、借りた段階で持ち主のおじさんとか親戚とか、いろんな人たちと一緒に飲み会をするわけですよ。飲んで飲んで、歌って歌って。借りた家が壊れかかっていたんで僕たちが修理を始めたら、その人たちがみんな手伝いに来てくれる。コミュニティ的なものが生まれてくるんです。そこで、地域というものを猛勉強しはじめるわけです。
そのころは休耕田などが相当増えていた時代だったのでは?
 もちろんです。自分たちの息子や娘は都会に出ているから、荒れ地や荒れた畑がいっぱいあって。貸してくれてもいいのになぁと思うけど、そこに知らない若者がやってきて貸してくれと言っても信用してくれない。ここは冬寒いぞ、どうせあんたたちは冬になったら逃げていくに違いないって。それにちょうどオウム真理教が問題になった時期で、僕のところにいる連中は本当に汚かったから怪しく見えた。
白州に移った年には「第1次南方熊楠計画」というのを行っていますね。
 僕のところ、身体気象研究所にいた青年のひとりが、紀州田辺でいちばん大きい高山寺という寺の跡取り息子だったんです。自分は家を出たけど、うちの寺には南方熊楠(在野の博物学者・生物学者)の墓があると。それから熊楠のことを勉強しはじめて、ものすごく興味を持ちました。で、熊楠計画をやろうということになり、その一環で田辺の海岸で踊っていると、中上健次(紀州出身・小説家)が見に来た。その晩に飲んで親しくなって、田辺の若者たちと酔っ払って、腕相撲大会とかやったりして。

 その後、白州でフェスティバルを始めたときには中上さんも参加して、最初の内は美術家と喧嘩したりしていました。喧嘩してより濃い関係になる時代だね(笑)。80年代は、みんなしっかりと話し合って、相手のことを理解し、その上で喧嘩をしていた時代です。中上さんは、ジル・ドゥルーズの「器官なき身体」の話なんかをしてましたね。

アートフェスティバルの開催

1988年に「白州・夏・フェスティバル」を始めます。きっかけは何でしたか。
 剣持和夫(美術家)が相談に来たのがきっかけです。磯崎さんが設計した御茶ノ水スクエアA館という建物の中にすごい作品をつくったんだけど、突然撤去しろと言われた。そのときに泯さんの白州が頭に浮かんだ。ここに置かせてくれと言うんです。あまりにも熱心なので、鶏の遊び場になっている広場に建てることにしました。

 ところが出来上がったものが高さ10mぐらいあって。次の日、雪が降ったのかな、先に雨だったかな‥‥。とにかく3日か4日の間に天候がガラガラ変わり、彼が建てたものの表情がまったく違って見えた。これはすごいと思って、友達に美術家がいっぱいいたので連絡すると、原口典之、高山登、榎倉康二らがマイクロバスを借りて10数人で見に来たんです。

 それで村をぐるっと回って、こんなところもある、あんなところもあると見せて、言ったんです。「作品を美術館に搬入して展覧会が終わったら搬出する、それでいいのか。そうじゃなくて“朽ち果てるまで”というのをコンセプトにして展示をやってみたらどうなの」と。そしたらすぐに「やろう」ってなった。

 最初にみんなで決議したのは、出来上がったものを持ってきて設置するのではなくて、その場でつくるということ。もちろん助っ人をいっぱい呼んでもかまわない、寝泊まりは全部世話するからと。もうひとつ、農地につくるわけだから、地主さんと付き合うということを決めた。そして、誰であれ、フェスティバルとして援助できる金額は一律8万円。みんなそれで合意して、最後の最後までその決まりのままでいきました。
資金はどうしたのですか。
 始めるに当たって推進会議というのをつくりました。ぴあの社長の矢内廣さんや、磯崎さんもいたかな。それに、下河辺淳(しもこうべあつし)さんという「官僚の神様」って言われていた人。戦後日本の国土計画を担ったり…簡単には説明できない方ですが、たしかフェスティバル実行委員事務局長の木幡が連れてきて、ある日、僕の踊りを見たんです。それから3日後ぐらいに、お茶を飲みながら話したいというので会ったら、開口一番「君の踊りを見ると次の日仕事ができなくなるので、休みの前の日に踊ってくれないかい」と(笑)。それから友人になり、彼の関係のシンポジウム、要するに政治関連のシンポジウムだったりするんですが、そんなところに時々呼ばれて行くと、ロビーでふたりで座って全く関係ない「樹木の話」とかをするんです(笑)。樹が喋っているのを聞いたことがあるという人が結構いるんだ、という話とかね。

 下河辺さんの縁もあり、白州にはサントリーの工場があるので、社長の佐治敬三さんが支援してくれた。そうした調整は木幡がやってたから、僕はお礼を言った記憶もない。フェスティバルに資金が足りなくなりそうになると、「下河辺淳を囲んで話を聞く会」を開き、集まった人がカンパを置いていく。そういうことをやってくれる人でした。
フェスティバルのテーマはどのように決めたのですか。
 僕ひとりで決めました。ポスターとかのイメージの横にすっと1行書く。それが三木清(哲学者)や、永山則夫(連続殺人による死刑囚・小説家)の言葉だったりする。僕がつくったこともありました。20数回、全部僕が決めて、それを木幡やみんなに見せて、これでいこうってなる。その1行で全体のテーマが決まるんです。
日本の現代アートの世界では、美術館ではないところを中心に広域で行われる国際アート展は、北川フラムが企画した「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」が嚆矢とされています。第1回は2000年ですが、白州でのフェスティバルが始まったのはその10年以上前。彫刻家のリチャード・セラも来ています。
 セラが来たのは、2回目か3回目ぐらい。僕のほうからアプローチしたら来てくれました。その前に東京のギャラリーで、セラのちょっとした鉄の塊を使った展示があり、僕が裸体で踊ったんです。

 白州では、白から黒までグラデーションしていく紙を手でめくり、それを上から撮った映像を出してくれた。その映像はセラが舞台美術で参加したパリでやった『春の祭典』(1990年、オペラ・コミック座)でも使いました。
1993年に「アートキャンプ白州」と名前を変えますが、これはなぜですか。
 ボランティアとして何年か続けて来るようになった若者たちが、もう少し表現に近づきたいと思いはじめるんです。それで、単に見せるための期間だった5日間を思い切って1カ月に延ばし、その間にいろんなワークショップができるようにした。同時に、「キャンプ」と呼んで、その感覚をリアルなものにしていこうとしました。

 それから、子どものためのキャンプを始めました。親は連れてくるだけ、差し入れは一切なし。小学校1年から中学3年までの子どもたちが共同生活をするんです。生活は全部テント。フェスティバルの初日はパレードがあって、彼らは動物と一緒にパレードする。鶏、猫、犬、山羊、ロバもいましたね。鶏と犬の世話や、ロバの糞を掃除するのが彼らの日課です。そして、自分たちでTシャツもつくる。ペンキで手描きして。

 僕が学校の勉強はしなくていいって言ったから、心配になった親が早めに迎えに来たこともあったけど、小学校1年生の子どもが食器を洗ってたりするとびっくりするんです。あなたがやらせないからです、試してごらんなさいよって言いました。いまでも連絡を取り合っている子がいます。
アートキャンプも舞塾のメンバーが支えていたのでしょうか。
 舞塾は『春の祭典』をやった後にパリで解散しました。みんながいつまでも続くという姿勢になりかかったときがいちばんつまらなくなるので、「やめましょう」って。安定感は悪くはないんだけど、安定感にお尻までべったりつけて座っちゃう姿勢はどうも駄目なんですよ。もともと、かろうじて立っていられればいいという、その感覚が好きなんですね。それでも来たい人は来ていましたが…。

 僕はその時々で名前をつけているけれど、一貫して名前はどうでもいいんです。名前をつけるとある種の集団っぽさってのはどうしてもでてしまうけれど、僕にはどんな関係性でも境界線がなかった。「仲間」や「群れ」みたいなものに憧れていましたが、ずっといる人が偉いんじゃなくて、時に遠ざかる人がいても良かったんです。

 当時、僕のところに出入りしていた若者がたくさんいて、しかも踊り手だけじゃなかった。映像、美術、小説、科学なんかにも携わっている人たちもいた。そして「身体気象農場」っていう言葉は、その前に東京で使っていた「身体気象研究所」から、その前は単に言葉として発見した、または感覚した「身体気象」って言葉でしかなかった。だから全てはそこから発展した「言い方」でしかない。なので、支えていたのは、あの時あの場所でたまたま出会っていた人たち、と言いたいな。
その後、2000年に桃花村舞踊団を結成します。詩人の吉田一穂がイデアとして描いた架空の村の名を取ったとのことですが、舞塾とはどう違うんでしょう。
 舞塾は外国の若者が多かったのですが、桃花村になると日本人が多くなった。それで、日本語をより大切にするようになるし、踊りにしていく対象がかなり絞られてくる。桃花村舞踊団の初期公演は、ほとんどゴヤの『ロス・カプリチョス』(版画集)から何枚か選んで踊りにしていきました。その過程で、自分のカラダがそこに参加して、自分のカラダが今いる位置を見つけていく。
それがゴヤであって、例えば『北斎漫画』でないのはなぜですか。
 動きのほうに傾きそうだし、あのポーズを踊りにするのは、僕はできるけどほかの人には無理です。『北斎漫画』みたいに正しい瞬間を描ける北斎はすごい。ほとんど嘘がないですから。
 とはいえ、舞塾時代よりも僕自身が頭も良くなっているし(笑)、経験が多いカラダなわけですから、教え方はというか、言葉の使い方は格段に良かったでしょう。しかし、それを受け取るのはまたその人それぞれなんでなんともいえません。公演回数だけでいえば比較にならないほど桃花村舞踊団は行ったかな。
舞塾なり、桃花村舞踊団なりのメンバーには、どのように接するのでしょう。
 自分から何かを見つけて、自分で始めるのが理想です。ただ、そこに至る過程で、本当に踊りをやりたいと思うようなカラダを自分でつくっていく、僕はそのお手伝いをする。またはそういう環境を提供しているのかなと思う。でも、一貫して踊りは教えない。話はそれますが、ましてや舞踏なんて教えてませんよ(笑)。 例えば、2カ月のワークショップの最初にそのことを言うんです。終わったときにも念を押すんですが、国へ帰ると「舞踏スクール」と言う。ほとんどみんなそうです。がっかりですね。その内、「身体気象」っていう概念が舞踏の一派になってしまった。僕はその産みの親でmaster of butohにされるんですよ。どうにもこうにも…です。

「場踊り」では場所の皮を剥く

2004年にインドネシアの島々を回られますね。「場踊り」はこのときに始まったのでしょうか。
 そうですね。ACC(アジアン・カルチュラル・カウンシル)から「泯さん、そろそろアジアを回ってくれませんか」と連絡が入ったんです。アジアの国々で向こうの芸術家と会っていろいろ交流してほしいと言われ、最初は断った。向こうの芸術家と話して何になるんですか、と。僕はそういうことをしない人間だし、友達がほしいわけでもない。インドネシアのダンス界で言えば、ジャカルタ芸術大学の学長になったサルドノ・W・クスモ(舞踊家)もずっと前から知っていて、行けば彼にも必ず会うわけで、わざわざ芸術家に会うなんていう仰々しいことは考えなくても済む。僕は村を回りたいし、島を回りたい。そこで祭りや踊りを見たいと言って、7つか8つの島に行って、現地の踊りをずいぶんたくさん見ました。

 インドネシアに行くと、村や島の人たちがみんな芸術家だと思える。「日本では踊りを踊ると、お金をもらえるんですか」って聞かれて。「私たちの島では、全員踊りも歌も音楽もやります」と言うんです。あるとき、小さな村でお別れをするので一緒に踊ろうということになり、「自由に踊ろう」って言ったら、「自由に踊るってどういうことか」と問われました。「自分たちには昔から踊っている踊りがある。それをみんな踊る」と。

 それが自由なんです。いつもの踊りを踊ることが彼らにとっては自由に踊るということだった。しまった!と思いました。そういうのを僕がリアルに体験することが、芸術家とサロンみたいな中で話すことよりもはるかに素晴らしい教えなんです。

 それで帰ってきて、2006年に朝日舞台芸術賞というのをもらうんですが、その授賞式で「これで舞台に出るのやめます」と言って劇場の舞台からおさらばして、場踊りを始めました。人が常に目にしたり感じ取ったりしている場所というものを舞台にするのが僕には一番ふさわしい。それをできる限り続けて、理解を深めていく──それが僕の中の踊りをさらに醸成していくということだと思うからです。

 それを人が見ることによって、その人の踊りもさらにそこから醸成されていく。人によってそれは音楽と呼ばれるものかもしれないけど、それも含めて全部踊りと呼んじゃっていいと思います。みんながダンサーになる必要はないので。
「場踊り」については、「場所の皮を剥く」というようなことをおっしゃっていますね。
 その場の表面が、その場の皮が1枚剥けるような感覚っていうか。そこにいつも暮らしている人が、踊りが始まった瞬間にその場の様子が違って見えるっていうか。場所が別の生を持って息をしているっていうか、そんな感じですね。
泯さんが触媒ということですか。
 そうですね。例えばカンゲアン諸島に真珠の養殖をやってるインドネシアの友達がいて。そこの海にボートを浮かべてその上に立ち上がると、僕のカラダを見なくても風景が違ってくるように見えると彼は言っていました。いつもとまったく違う海になっていたと。

 あるいは、写真家の故・田原桂一と行ったアイスランドのものすごく広い黒い砂漠。いくらカラダを伸ばしても端っこには行けない、まさに宇宙の金輪際みたいなところですけど、そういうところにも場所性はある。無限に近い場所性というのがあると思うんです。そういう場所の皮を剥く。
インドネシアで思い出しましたが、バリ島に踊り手の少女がトランス状態になるサンヒャン・ドゥダリという舞踊がありますね。泯さんが踊るときにもそんな風に見えることがあります。「トランスなんかできるわけない」とおっしゃっていますが、技術的にコントロールするのでしょうか。踊っている間、具体的にはどうしているのですか。
 例えば足の裏を意識して、そこを頼りにして立ったり動いたりしている瞬間と、オフバランスな、バランスが完全になくなる瞬間があります。わざと揺さぶりをかけるというか、それを自分でつくる場合と、そうなっちゃった場合があって、なっちゃった場合のほうが僕は多いです。

 ですから、うまくいってないことが面白くなっていく場合もある。コントロールしきれることはめったになくて、コントロールとでたらめの間を感覚的に行ったり来たりしている。「でたらめ」というのは、もっと言えば「間に合わせ」かもしれない。でも、それがとても大切な部分だろうと思うんですね。
いざというときにそれを発揮するために、日々体を鍛錬するわけですね。
 カラダを鍛錬することと、自分の中にある踊りという素材──土方が言う「中の素材」──にスピードを持たせる。僕の場合は「細胞的素材」ってキザな言い方をしますが、カラダの動きよりも速く動いている何かが頭の中にあるっていうのがいちばん正しいかな。

 だからできちゃうことが多いのですが、言葉で言えば「間に合わせ」なんです。自分の中に、ある感覚が押し寄せる。それを引き伸ばそうとして僕は生きてない。瞬間でいいんです。人間臭さからどんどんどんどん遠ざかっていく。だって僕は細胞と付き合ってるんだもん。
泯さんの踊りを「名付けようのない踊り」と評した哲学者のロジェ・カイヨワが、主著『遊びと人間』の中でシャーマンの話を書いています。シャーマンのトランスは、すべてが演技であり、と同時にすべてが本物であると。そして、事故を防ぐために必ず助手が付いていると。泯さんの中にはシャーマンと助手が両方とも存在しているんでしょうか。
 そうですね。基本的にシャーマンは、ものすごい速度で次に何かが来るぞ、来るぞっていうのはわかっているわけです。僕も踊る時、コンディションがいいとそういうことがしばしば起きています。例えば、もうすぐ雲が動いて太陽の光をこっちに送ってくるとか、そういうのはしょっちゅう感じながらやってる。光りが当たると嫌だから、その前にあっちを向かないとヤバいぞとか、逆に当てちゃおうとか(笑)やってる。
そういうことを感じる才能がないと、決して身に付かないテクニックですよね。ちなみに場踊りでは音楽がないことも多いでしょうが、頭の中では鳴っていますか。
 鳴ってはいません。でも、不思議なことに、歌のように自分の中に出てくることはあります。ほかの音楽が流れているときでもそういうことはあるし、無音のときもそういうことはある。

 見る人の中で、音も踊りも合流していけば、それが一番いいんじゃないかなと。現場での音と踊りが一切束縛し合わない、でもそれが触れ合っているように見えたり聞こえたりしていくのが理想でしょうね。
場踊りでは、よく「胎児のポーズ」を取られます。「ときに安易なクリシェ(紋切り型)のように思われることもあるけれど、あえてやる」とおっしゃっています。「あえて」の意味を教えてください。
 例えば100の胎児のポジションがあるとして、でも、見ている人が選択するのはひとつですよね。それがその人にとって、そこで今起きていることなわけです。それでいいじゃないかっていうことです。

 もちろん僕がやっていることは毎回違いますよ。場所が違うし、タイミングも違うし、条件も違うし、僕のカラダの太さも違うし、柔らかさも違う。人がやってるわけですから、1回1回厳密に測定すればみんな違うわけです。だからそこに聞こえてくる音楽も違う。見る人によっても違う。それを、いつもと同じ格好をしてるじゃないかという人は、もう子ども心を失っている。同じ遊びをして何が悪い? ということです。僕にとってはすべてが今なんです。

 三木成夫先生(解剖学者・発生学者)が、私たちが体内で受精してから出てくるまでの間に、生命が進化してきた数十億年の歴史を追体験していると言っていますよね。それに近い。踊りって、ひょっとしたら生まれてくることを、人々に繰り返し、繰り返し見せているのかもしれない。あるいは場所の発生を促しているのかもしれない。
泯さんは、いままで3000回ぐらい踊っていますよね。ということは、3000回ぐらいその場で生まれ直しているのかもしれません。
 そうですよね。だから「うまく踊ったぜ」というよりは「自分が踊りをやって脱皮したぜ」っていうような感じがいちばん好きですね。で、これ、いっぱい踊りすぎているので、経歴的にこう書いてはいるんだけど…正直3000回も軽くこえちゃってて…まあ、どうでもいいかな、とはなってる(笑)。
今年12月には松岡さんとタッグを組んで、東京芸術劇場で良寛(江戸時代の曹洞宗の僧侶・歌人・書家)をテーマにした劇場公演をされると伺っています。良寛と泯さんには思想的に重なるところがあると感じていますので、とても楽しみにしています。長いインタビューにお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
(2022年2月26日、3月1日、京都にて収録)


【参考文献・映画・ウェブサイト】
田中泯 写真=岡田正人『海山のあひだ』(工作舎)
田中泯 写真=岡田正人『僕はずっと裸だった──前衛ダンサーの身体論』(工作舎)
田中泯×松岡正剛『意身伝心──コトバとカラダのお作法』(春秋社)
ベン・ワトソン著 木幡和枝訳『デレク・ベイリー──インプロヴィゼーションの物語』(工作舎)
土方巽『病める舞姫』(白水社)
土方巽『美貌の青空』(筑摩書房)
吉田一穂『随想 桃花村』(彌生書房)
塩野半十郎『多摩を掘る──花と縄文を追って』(武蔵書房)
ロジェ・カイヨワ著 清水幾太郎・霧生和夫訳『遊びと人間』(岩波書店)
『ユリイカ』2022年2月号「特集*田中泯」(青土社)
にんげんドキュメント『田中泯 土に踊る』(NHK)
伊藤俊也監督『始まりも終わりもない』
犬童一心監督『名付けようのない踊り』

田中泯オフィシャルウェブサイト
http://www.min-tanaka.com/

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