林英哲

太鼓音楽の革新者
林英哲の思い

2011.04.08
林英哲

林英哲Eitetsu Hayashi

太鼓奏者。1952年広島県生まれ。高校時代はビートルズのリンゴ・スターのドラムにあこがれ友人とバンドを結成。71年グラフィックデザイナーを目指して上京後、「佐渡・鬼太鼓座」創立に参加。「鼓童」結成に参加後82年、独奏者として活動を開始。84年ソリストとしてカーネギー・ホールにデビュー。海外公演、オーケストラとの共演も多い。98年の「万零」を皮切りに伊藤若冲、藤田嗣治など画家をテーマにコンサートを開催。2010年には11年ぶりにソロコンサート「月山 II」を行う。洗足学園音楽大学客員教授。著書に「あしたの太鼓打ちへ」がある。

http://www.eitetsu.net/

林英哲は後世、日本の音楽史に「革新者」として記される日本の太鼓奏者だ。日本の伝統にはなかったテクニックと体力を要する大太鼓のソロ奏法を創出、多種多様な太鼓を配し一人で打ち分ける太鼓演奏法など、伝統的に伴奏楽器として用いられてきた太鼓に現代の独奏楽器として生命を吹き込み、新しい音楽分野を開拓した。影響を受けたマン・レイや伊藤若冲ら美術家の生涯をモチーフにしたシリーズなど、コンサートでは太鼓のための自作曲を演奏。尊敬するジャズピアニスト山下洋輔、世界的モデル・パフォーマーの故・山口小夜子ら音楽に限らず多彩なアーティストと競演。現代音楽の作曲家が林英哲のために作曲したオーケストラとの協奏曲も多く、独創的な演奏家として、演出・振付・衣装も含めた太鼓音楽の創作者として国内外で活躍している。2010年には演奏活動40年の集大成ともいえる「月山 II」をサントリーホールで発表し、大成功を収めた。太鼓音楽をステージアートとして高め続け、来年ソロ奏者となって30周年を迎える林英哲の思いに迫る。
聞き手:奈良部和美
林さんが太鼓を始めて40年、ソロ奏者となって来年は30年です。
 説明するのがとても難しいのですが、僕は最初から自分で太鼓をやりたいと思って仕事にしたわけではありません。それでもここまで来てしまった、というのが今の正直な気持ちです。
19歳のときに、新潟県の佐渡島に職人大学を設立するための資金づくりをするためにはじまった太鼓グループ「佐渡・鬼太鼓座」に参加されます。
 資金づくりのツールとして太鼓を中心にした芸能で世界を行脚しようということで、グループがつくられました。佐渡で共同生活をし、毎日マラソンをして体を鍛え、ストイシズムを前面に押し出した緊張感の高い舞台を見せる。日本にはこれだけ力強くてすごいものがある、というのを海外に出す。それが寄付金を集めるための趣旨でした。
当時、日本の太鼓は非常にのどかなもので、我々が習いに行ったおじいさんたちは酒を飲んで酔っぱらって、アドリブで打っていた。今でこそ日本の太鼓というと、集団で一斉にそろって打つのが伝統の形式のように思われていますけれど、ああいう形式はそもそも伝統芸能にはありません。
岩手県盛岡の「さんさ踊り」のように、舞踊を伴うものは振りを揃えてやりますが、太鼓がメーンではない。広島県や島根県で行われている「囃田(はやしだ)」という平安時代から続いている田植え行事では、揃い打ちの太鼓が並びますが、太鼓メーンの音楽というより太鼓踊りと呼ぶべき芸能です。太鼓メーンの日本の太鼓芸は揃って打てないもので、アドリブが中心でしたし、中心の太鼓を打つ人もだいたい一人です。盆踊りの太鼓もそうですが、歌に合わせて打って、疲れたら次の人が代わって打つ。細かい手順とか、習得しなければならないテキストのようなフレーズがない、というのが郷土芸能としての太鼓でした。能や歌舞伎の囃子では「四拍子(しびょうし)」といって、笛、小鼓、大鼓、太鼓による独特のリズムがありますが、やはり太鼓がメーンというより、謡や三味線ありきのアンサンブル楽器です。
当時我々のグループは、そうした郷土芸能や伝統芸能をそのまま再現するのではなく、太鼓をメーンにした人々にインパクトを与えられるような新しい表現を創ることを最初から目指しました。
多くの人は、太鼓を揃って打つ集団演奏は伝統芸能のひとつの形だと思っていますが、それは誤解というわけですね。
 揃って打つのは戦後出来た組み太鼓という形式です。僕はそういう形態とも違う方法を目指しました。今、一般の人がやっている太鼓は、組み太鼓と僕のやり方が混在したもので、それをすべて「和太鼓」と呼び古い伝統のように思っているようです。僕が始めてからでも40年経ちますから、それなりの歴史がある分野になったとも言えますが、古式の伝統ではないのは確かです。
伝統的な演奏だと捉えられている原因はどこにあると思いますか。
 初期のグループ時代に、実際に佐渡という辺境に生活しながら、肉体を土俗化するような訓練を本気でやっていたからだと思います。僕は新しいステージアートを作る気でいましたが、そういうことを離島でやるとは誰も思わなかったし誰もやれなかった。プロ化していないからこそ、できたことです。そうやって作り上げたものが、逆に先祖還りした伝統芸のように人々の目に映ったということでしょう。
林さんがそうしたグループを離れ、ソリストになったのはステージアートとしての太鼓を追求したいと決意されたからですか。
 あまり明快なイメージを持っていたわけではないんです。僕は伝統芸能を継承しなければならない家の出身でもないし、少年期に生まれ育った土地の太鼓を打った経験もない。そもそも美術を志していて、巡り合わせから太鼓をやることになった僕がソロで何ができるのか。誰かが既にやっていることは真似たくありませんし、自分の中から湧き出てくるものを太鼓というツールを使って表現するしかない。グループ時代に11年間、世界中を公演して回る経験をして、海外のお客さんから絶賛されていましたし、それなりに高い評価を得られるという感触を持っていました。どういうふうに曲を作っているのか、練習はどのようにやるのかと、共演したオーケストラの打楽器奏者が真剣に楽屋に聴きに来る。そうした経験を通して、日本の太鼓は、打楽器音楽として、かつて世界中になかった音楽形態として、パフォーマンスとして、「これはいける」という確信はありました。
でも集団演奏のやり方は僕の中ではもうグループ時代に十分やってきたことなので、これからは一人でいくしかない。ちょっと大げさな言い方ですが、探検家の植村直己さんや、世界一周単独ヨットレース「アラウンド・アローン」の初代優勝者になった多田雄幸さんのように単独行を目指したわけです。
ソロになり、集団演奏とは違う音の作り方、打ち方など様々な試行錯誤があったと思いますが、目指す形はあったのですか。
 全然無い。何をやればいいかも分からなかった。誰もやったことがないから、手本もないし。「自分でやるしかない」という気持ちでした。太鼓という道具がいる仕事なので、生活も大変でした。(巨木をくり抜いた)大太鼓は1台何千万円もする。家が1軒、高級外車が1台買える値段です。まだ大太鼓は買えないので、ベニヤ板を丸めて胴をつくり皮を張って直径3尺(90センチ)の太鼓をつくりました。ベニヤ板なので胴に膨らみのあるものは作れませんから、ストレートで音はあまり良くない。でも、これはこれで軽くて運びやすくて便利でした。
グループ時代は集団生活で、新聞もテレビも見ない修行僧のような生活でしたから、膨大な刺激が入ってくる東京での一人暮らしは毎日必死でした。出会う人すべてが僕にとっては学習の相手でした。だから、どんな仕事であろうと、お話が来れば全部やろうと思った。歌手のバック、商業ビルのオープニングでの演奏、パーティーでの演奏も。享楽的な雰囲気で望まれるものもできなければ、プロとしては駄目だろうと一生懸命でした。グループ時代は享楽的な演奏というより聴衆を威嚇するような演奏で、それがかえって受けていたところがあったのですが、今度はエンターテインメントにしなければならない。ただ、僕の性格では一生懸命、まじめに打つことしかできないので、パーティーでやっても結局盛り上がらない(笑)。
その頃から、正面から太鼓を打つ「正対構え」を特に意識してやるようになりました。きっかけはデザイナーの山本寛斎さんです。寛斎さんは当時大がかりなファションショーをやっておられて、その中で太鼓のシーンのお話をいただきました。大太鼓を打つにはリズムの伴奏方が必要なので、当時の僕は伴奏方を一人頼んで演奏していたのですが寛斎さんは「英哲さんは一人がいいから相方なしで一人でやって」という注文を出された。一人で打つというのは、歌手が全く伴奏なしで、アカペラで歌うようなもので、非常に難しい。太鼓を打ったことがないから、寛斎さんは無茶を言うと思いました。
それが、ソロになった翌年、1983年7月、新潟県五泉市で行われた「やまもと寛斎パリコレクション」での演奏ですね。正面から太鼓を打つ演奏形式はグループ時代からのものだと思いますが、ソリストの演奏として工夫を加えたのでしょうか。
 「正対構え」はグループ時代に僕が始めたことです。巨大な大太鼓を打つリズム奏法は伝統芸にはなかったので、自分なりに工夫して練習しながら創った打法でしたが、集団の共有財産ということにされてしまって、後に生まれた「鼓童」などもやるようになったので、ソロになってからは封印するつもりでした。褌姿で鉢巻きを締めて打つイメージも集団カラーが強すぎて、ソロには合わないですし。褌姿というのは、人様に裸を見せるわけですから、情けないものです。みなさんは悪い意味ではなく、背中がきれいだとか、お尻がきれいだとかほめてくださり、パフォーマンス効果も高かったのはわかっていましたが、自ら望んで裸を見せたかったわけではないので、30歳でソロになってからはやる気はありませんでした。ただ、大太鼓の真正面から打ち込む「正対構え」は、自分が創った物なので、奏法としてもっと極めたいと思うようになったわけです。背中を向けて演奏していても、お客さんの反応が集中してくるのは感じます。締太鼓や桶胴太鼓を組み合わせて一人で打つ奏法も開発して、上達するべく練習をしていたわけですが、大太鼓一台に立ち向かって一人で打つ、という姿や響きは圧倒的にお客さんの反応が変わるのです。「凄い!」と言っていただける。ただ、その演奏技術を身につけるのは大変でした。
腕を高く上げたまま、腰をしっかりと低く構えた姿勢を崩さないでリズムを一瞬も止めない。これを30分、一時間と続ける練習をするわけです。直径が130センチもある大太鼓を独奏で長時間演奏するという形式は自分で言うのもおこがましいですが、今のところ世界で例がないだろうと思います。
両手を長時間上げ続けるのさえ辛いのに、その姿勢で太鼓に向かい長時間打ち続ける。しかも一つの太鼓で表現するために、音の構成から何から何まで全部一人で考えなければならない。
 そうですね。ソロの演奏として成り立たせるために、単なる運動としての練習以上に曲の内容をどうすればいいのか、ということは常に悩みました。音楽の方向性をどうすればいいのか、伝統芸能のようなテキストがないわけですから。考えたのは墨絵のようなイメージです。墨絵の濃淡の中にある色彩感や空気感、距離感のようなものを、音程がないと思われている太鼓で現すことができないかと思ったのです。撥の工夫、打つ打面を変えるなどさまざまな工夫をしました。マレーシア・フィルと共演した時、イギリス人の指揮者に「凄い。あれだけ太い撥で、あんなに細かいニュアンスを表現できるのは信じられない」と言われました。打楽器出身の彼には、僕の工夫がよくわかったのでしょう。クラシックの共演者には「音色がカラフルだ」と評されることも多いのですが、そう受け取ってもらえるのは本望です。
林さんがつくり出した和太鼓の独奏という音楽が、世の中に認知されたと思うようになったのはいつ頃ですか。
 1980年代は日本経済がバブルに向かっていく時期でしたから、斬新な企画やイベントが多くて、ちょっとアートっぽいイベントも盛んに行われました。そういう時期にソロ活動を始めたのはラッキーでした。デパートの池袋西武がやっていたスタジオ200や、渋谷にあった小劇場ジァンジァンのように、実験的な企画の出来るスペースがけっこうありましたし、お客さんもよく足を運んでいました。隅田川にかかる永代橋の近くには巨大な三菱倉庫があって、その中にあったコンクリート打ちっ放しのモダンアートギャラリーでも1時間半にわたるソロのパフォーマンスをしました。サッポロビールの恵比寿倉庫やデパートの納品所でも演奏しました。僕の太鼓音楽、パフォーマンスは劇場でつくり上げてきたというより、そういうちょっと不思議な空間で鍛えられてきたと言っていいかもしれない。太鼓をそういう空間で打つと面白い効果が生まれます。本来、太鼓がないはずの場所に太鼓があるという異化効果もありますし。それから、お寺や神社の境内や、鎌倉大仏の前でも演奏しましたが、そういう音響効果もよくて絵としても面白い場所でシリアスに演奏することで、僕の演奏は受け入れてもらえるようになっていきました。
太鼓は空間に左右される音楽でもある。
 そうです。太鼓の響きは、皆さんが想像されている以上に空間によってまるで変わってしまいます。音量も変わります。太鼓は、大きな波の打ち寄せる広い海岸のような所で聞きたいというイメージを持っている方が多いようで、わざわざ演奏会場をそういう所に用意されることがありますが、そういう場所では残念ながら音が響きません。湿気が多くて皮が湿り、反響するものがないので音が鳴らないのです。
太鼓の独奏のためには新しい楽曲を作る必要があったと思います。林さんのコンサートは音だけではなく、所作、いわゆる見せ方が作品ごとに練り上げられていると感じるのですが、作曲するにあたっては演出も含めて考えられるのですか。
 曲だけ先に創って、後から動きをどうするかと考える場合も有りますが、大体は、演出や振り付けなどの条件も考えながら曲を書きます。例えば、正面から右、左と打って撥を止めるのと、同じ正面を打つのでも左から右へ振り下ろすのと、打ち方によって音が変わりますし、印象も変わってきます。ですから、太鼓の曲を創るということは、音を考慮して太鼓の種類を選び、リズムも考え、振り付け・演出も考えながらという複合的な作業になります。前もって五線譜に書いたり、譜面なしで稽古をしながら創っていく場合もあります。尺八や三味線など太鼓以外の演奏家と一緒にやる曲は、譜面にします。
動植物の細密描写にたけた江戸時代の画家伊藤若冲をテーマにした2000年の『若冲の翼』や日本の植民地となった朝鮮半島で朝鮮美術の素晴らしさを説き続けた浅川巧(あさかわ・たくみ)を描いた2002年の『澪の蓮』など、美術家をテーマにした作品も創られています。美術家をモチーフにしようという発想はどこから得たのでしょうか。
 1998年のマン・レイをテーマにした『万零』が最初です。これがとても好評で、美術や美術家がテーマなら自分には創りやすいと気付き、連作につながりました。僕の太鼓にはクラシック音楽のような伝統的なテキストはありませんし、どういうものを手掛かりに曲を作るかと考えた時、ふとマン・レイが浮かんだ。僕は十代の頃、美術学校で学んでいてグラフィックデザイナーになるつもりでしたから、美術の分野ならちょっとわかるのです。創作のモチーフは、伝統芸能の分野から学ぶことも多いのですが、能や文楽や歌舞伎は好きでも、近松や世阿弥を太鼓でやるわけにはいかない。崩せない世界です。『万零』はたまたまでしたが、これでふっ切れました。自分の中にあるもので行けるのだと。
ジャズピアニストの山下洋輔さんや、現代音楽の作曲家の石井眞木さんなどが、林さんのために作曲されていますが、その場合は所作についてはどのように指定されていますか。
 僕を想定して書いてもらったオーケストラ曲はもう10曲になりました。作曲家の作品は譜面の上にすべてが音で表現されているわけですが、僕はそれをどう表現するか、動きを含めて考えます。書かれたイメージを立体化する、ということでは俳優と似ているかもしれません。
グループ時代の1976年に石井眞木さんが書いてくださった「日本太鼓群と銅鑼のための『モノクローム』」の出だしでは、楽譜にはピアノ記号が4つ書いてあって、32分音符がただ並んでいるだけです。それをそのまま演奏しても、音としては良くても日本の太鼓の曲らしくはならない。曲の持っている静謐で厳かな雰囲気を最大限に表現するために、日本人ならではの姿勢や動作を考えました。ゆっくりとした動作で座り、撥を合わせた両手を一度顔の前に立ててから、ゆっくりと太鼓に向かって下ろし、カタカタカタと最弱音で打ち始めるという所作です。現代曲であっても日本の太鼓に見え、聞こえなければならない。譜面に書いてなくてもそういう工夫は日本の太鼓奏者と自称している者として当然と思います。
オーケストラと共演する時も、日本の太鼓の伝統的な所作や打ち方を意識されますか。
 もともと、僕がやっているような様式や作法が、日本の太鼓の伝統だったわけではありません。ただ日本人の美意識や、大げさに言えば精神性、思想のようなものを表現したくて、ああいう形になりました。衣装を含めて日本人は美しい、と思ってもらいたい、高潔であると思ってもらいたいというようなつもりはあります。そして、演奏内容は前衛でありたい。この両立は矛盾しないはず、と自分では思っているのですが理解しにくいかもしれません。
でもオーケストラとの共演では、これが成立するのです。長い伝統に培われたヨーロッパのオケが、前衛的な現代曲を高いレベルで演奏することは当然のように受け取られています。共演してみると、そのことがよくわかります。フランスを代表する世界一のウインド・オーケストラと呼ばれるパリ・ギャルド・レビュリケーヌ・オーケストラとラベルの『ボレロ』をやった時に面白いことがありました。オケは譜面の通りですが、僕は譜面通りにリズムをやっても面白くならないと思って、リハーサルでいろいろ別なリズムで暴れてみたのですが、指揮者が「勘弁してくれ、それじゃボレロでなくなる」と言って来ました。最初は了解して面白がってくれたのですが、やはりあんまり違うことはできない。フリージャズのピアニスト山下洋輔さんとの共演とは違うわけです。でも、日本の太鼓が加わる『ボレロ』をプログラムに決定するという態度、度量はすばらしいと思いました。
オーケストラは百人近いプロ音楽家の集団ですから、共演はとても楽しいことです。でも楽しいと思えるようになるまでには、いろいろとありました。1976年、ボストンシンフォニーオーケストラと小澤征爾さん指揮による石井眞木作曲『モノプリズム』を初演した時は、多くの楽団員がリハーサルで耳をふさいでしまいました。あからさまに「うるさい」と団員に言われたこともあります。今では、リハーサル終了後、楽団員から拍手が沸き、みんな口々に感動を口にして握手を求められたり、写真をせがまれたりします。松下功さんが創ってくださった「飛天遊」は世界中のオーケストラと百回近く演奏していますし、全く雰囲気は変わりました。お客さんの反応も良くて、特にアジアで演奏すると、「うちのオケで聴衆が総立ちになったのは初めてだ」とよく言われます。
ソロ活動30年の成果でしょうね。昨年、林さんは11年ぶりにサントリーホールでソロコンサートをされました。1999年が「月山」、2010年が「月山 II」。残念ながら私は当日拝聴できず後日DVDで拝見したのですが、暗い会場にしんしんと降る雪のように大太鼓が一打、また一打と響く中を、温かに光る行灯が左右の舞台袖から運ばれるところからコンサートは始まります。雪のように白い舞台に斜めに差し込む青い光の帯、真言宗豊山派の僧侶の声明が唱えられる中を林さんは舞台後方に一直線に並べられた団扇太鼓を打ちながら摺り足で登場。きっと1曲目の「四智梵語(しちぼんご)」で会場は清められたような静謐な空気に染まったのだと思います。太鼓セットを使う2曲目の「峠」から次第に音が躍動し始め、最後に演奏された大太鼓のソロの前には、僧侶たちが声明を唱えながら散華するという、荘厳なステージでした。
月山というと山形県にある山を連想します。霊場として信仰を集める山であり、民間信仰では死者の行く山といわれます。このコンサートをDVDの解説では「祈りと再生の旅」と表現されていますが、「月山」というタイトルは林さんがライフワークとされているテーマを表しているのでしょうか。
 「月山 II」の最後の大太鼓の曲は『日の太鼓、月の太鼓』と名付けました。円形の大太鼓は照明が当たると月に見えたり、太陽に見えたり、宇宙を象徴するものに見えますから。月山は死者が生まれ変わる場所、よみがえりの山といわれています。輪廻転生です。自分が歩んできた月日の中で応援してくださった人、理解してくださった人が、どんどん僕より先に逝ってしまう。いずれ僕もその河に流れていって、その先の海のようなところに還って行くのだろうというイメージがあります。そんな漠然とした、命が巡っていく月日を表現しようという意図はありました。
でも、演奏中はそんなことはとても考えられない。必死なんです。譜面通りに打っているか、間違った時はどう修復するか、取り替えた撥は間違いないか。いつ沈むか分からないような激流を泳いでいるようなもので、一瞬も油断できない。ソロというのは流されてしまえば助け船はないので、流されたままの姿をお客さんに見せなければならない。「太鼓を打っている時、どんなことを考えていますか」とよく聞かれますが、ロマンチックなことは何ひとつありません(笑)。パフォーマーはみんなそうだと思いますよ。
そろそろ林さんの切り開いた音楽を次の世代に引き継ぐことを考える時期にきているのではありませんか。
 僕は代々継承する伝統芸能じゃないから、そういう発想はありません。例えばピカソが自分と同じ絵を描く弟子をいっぱい作ろうと思うでしょうか。絵描きがみんなピカソやゴッホになったら面白くないでしょう。もちろん、教えてほしいと来れば教えます。でもそれは、伝統芸能のように家元になるとか、英哲流という流派をつくることではない。英哲のコピーをつくろうとは思いません。
「英哲風雲の会」という林さんに学んでいるグループは「師匠と弟子」という感覚ではないのですか。
 彼らは弟子ですし僕が指導していますから僕が師匠なわけですが、それぞれ独立した奏者になって欲しくて作った「ユニット」という感じのグループです。1995年頃、弟子入り希望者が少しずつ増えてきたので舞台にも登場させるようになりました。身びいきですが肉体的な訓練も演奏の訓練もかなり積んでいますから、非常に優秀で、動きも含めてあれほど精度の高いアンサンブルは他にないと思います。ソリストとしては、これからが勝負でしょう。
型を伝えるのではなく、林さんの考え方や基礎的な練習法を伝えるということなのでしょうか。いくつか大学でも教えていらっしゃいますよね。
 洗足学園音楽大学では打楽器科の選択授業で5年ほど教えていますし、東京芸術大学では年1回の特別授業、2009年からは筑波大学大学院でも年1回集中講義をしています。まだ授業時間が多くないので、太鼓サークルを立ち上げてやってはいますが、まだ風雲の会のレベルの人材は育たないですね。でも打楽器科の学生はそれなりに自分で曲を作るチャレンジもしていますから、ひょっとしたら新しいタイプの演奏家が出てくるかもしれない。
今の学生たちは、ほとんど西洋音楽しか知らないし、都市的な環境で育った若者は郷土芸能と言ってもピンと来ないので、日本の太鼓のできるだけ原形に近いものを教えることにしています。それと現代の音楽作品も経験させる。最初は身体技芸としての打法から教えるのですが、まずみんなそこで悲鳴を上げますね。
稽古は必ず素足で行います。昔の日本人は畳に座ってご飯を食べたし、トイレも和式で、立ったりしゃがんだり日常的にしていましたから、太鼓に向かって構えた時に素人でもピタリと決まった。ところが今はテーブルと椅子の生活で、腰を落とすことが日常生活からなくなっているので、改めてそこから教えなければならない。特に女性はヒールの靴を履くので、素足で踏ん張ろうとしても指が開かない。それでは打っているうちにフラフラしてくる。重心を落として素足で踏ん張ることができれば、上体を自由自在に動かせます。見た目もきれいで、重心移動を覚えれば太鼓から太鼓へ移動しても腰を傷めたりしない。演奏中に乱れず、楽器への移動が素早くできれば演奏家として身体能力が高いという評価につながります。
教師を目指す音大生は和楽器奏法もある程度身につけなくてはならないという事情もあって受講しに来る場合もあります。でも僕の授業で教える方法は、たとえばオーケストラなどの洋打楽器奏者になったとしても僕の太鼓の授業で学んだ奏法がきっと生きるというメソッドを教えるようにしています。僕の身体の使い方、打ち方を体得すれば、腰や身体を痛めない一生ものの技術が身につくから頑張れと言っています。
海外にも日本の太鼓の演奏者が増えてプロとして活動しているグループもありますが、林さんの影響も大きいのではありませんか。
 太鼓という日本発の新しい芸能形態が海外に出て行ったのは、アニメやカラオケ、鮨が世界に広まったのとよく似ています。一種のサブカルチャーとして日本の文化が受け入れられた。そのひとつとして日本の太鼓は驚くほど広まりました。手製の「和太鼓」をつくり、欧米やオーストラリアなどではプロ集団もいくつもあり、さかんに演奏活動や指導などもしています。
その他に驚くのは、我々が70年代から行ってきた海外公演の影響を受けたストリ-トパフォーマーや大学生たちが、日本の太鼓をみごとに翻案したステージをつくりあげていることです。たとえばブルーマングループや、ロンドン発のモップやバケツなどで演奏するストリート・パフォーマンス「ストンプ」のショウなどは、はっきりと日本の太鼓に影響を受けたと言っています。アメリカの学校単位でやっているマーチングバンドをショー化した「ブラスト!」もエンターテインメントとして舞台に乗せる発想は日本の太鼓の影響だと思います。日本の太鼓をそのままやろうとしても、それは亜流になりかねませんが、自分たちの出来る方法に翻案してパフォーマンスとして仕上げたのは大したものだと思います。
開拓者は孤独だといいますが、林さんの演奏活動はソロになった時と同様、今も単独行なのですね。
 ソロを始めた頃は、ここまで続けられる職業だとは思いませんでした。来年で60歳ですが、この年まで現役でいるとは夢にも思わなかった。ただ、技術や表現というものはありがたいもので、年を取って足りなくなってきた部分はもちろんありますが、逆に若い時に出来なかったことがいろいろ出来るようにもなります。太鼓奏者はスポーツに近い体力は使いますが、何分何秒という記録で勝負する分野ではない。表現というのは、以前の音は何デシベルだったのに、今は何デシベルになったのでつまらない、というふうに数値で測れるものではありません。
自分で始めたことなので、伝統芸能とちがって、先代の達人と比べられることもないし、弟子はいますが次の世代のことは彼らが決めることです。僕自身は、誰もやらなかったことをこの年になってもやっているわけですから、自分自身が実験台のようなものです。すべてゴールがどうなるかも分からない実験のようなものだったから、楽ではなかったし恥も失敗も多かったけれど、面白がってここまで続けられたのでしょう。そう思います。

林英哲 ソロコンサート2010 「月山 II」
(2010年12月/サントリーホール)
撮影:小熊栄

ソロ活動25周年記念「林 英哲 with オーケストラ」
(2007年12月/サントリーホール)
撮影:三本松淳