木津茂理

生活と労働の応援歌 民謡の魅力を現代に

2010.10.25
木津茂理

木津茂理Shigeri Kitsu

民謡歌手・太鼓奏者。神奈川県横浜市に、民謡尺八奏者・木津竹嶺の長女として生まれる。民謡の唄を父に、三味線を本條秀太郎、太鼓を山田鶴喜美に師事。幼少の頃からテレビ・ラジオの民謡番組、民謡ステージに出演。高校卒業後はポップス、ジャズ、ワールドミュージックなど様々なジャンルのアーティストのコラボレーションに参加。1997年、「第1回ウズベキスタン世界民族音楽祭」で審査員特別賞を受賞したのを機にソロライブを開始し、「太鼓を打ちながら唄う」という独自のスタイルで活躍。また、2002年に津軽三味線奏者の重鎮、澤田勝秋とデュオ「つるとかめ」を結成。民謡が本来もっていた大らかなエネルギーと楽しさを再生しようと、唄に焦点をあてた演奏活動を開始。2002年ロサンゼルス、2003年インドネシア・シンガポール、2004年ニューヨーク、2008年イタリア・ドイツ、2009年キルギス・タジキスタン・カザフスタン、2010年上海など海外公演も積極的に行っている。妹の民謡歌手・木津かおりともデュオを組む。

どこの国のどんな地域にも、古くから唄い継がれてきた「民謡」があるだろう。誰が歌詞を作り、誰がメロディーをつくったかわからないが、歌い継がれてきた労働歌や祝い歌だ。急峻な山が列島を貫き、海に囲まれ、南北に長い日本列島にも多彩な民謡がある。田植え歌、機織り歌、大漁歌、木挽き歌……。しかし、多くの国同様、日本の生活様式は20世紀後半に大きく変わり、人々の音楽の好みも欧米発のポップスやロックに傾き、民謡は次第に生活の中で歌われるものではなくなっていく。本来の民謡がもつパワーを現代に伝えたいと、洋楽とのコラボレーション経験も多い民謡歌手で太鼓奏者の木津茂理と大御所の津軽三味線奏者の澤田勝秋が異色のユニット「つるとかめ」を結成。ジャパニーズ・ヴォイスの圧倒的な歌唱力と演奏力で、日本民謡のパワーを海外にも伝えている。世代を超え、民族の違いを超えて、心に響く民謡の魅力と、つるとかめの活動について、木津茂理に聞いた。
(聞き手・奈良部和美[ジャーナリスト])
今年5月に「青山民謡酒場」と銘打ったライブを始めました。東京の青山といえば、若者が集まるおしゃれなファッションの発信地です。古臭いイメージのある民謡を青山で歌うアイデアは、どこから生まれましたか。
 ライブ会場になった「CAY」では、これまでも何回かソロライブをしています。ミュージシャンの細野晴臣さんが月に1回シークレットライブをやっていて、私も何回か歌わせていただきました。それがきっかけで、CAYの店長さんと民謡について語り合うようになり、「これからの時代は民謡だ。ここを民謡酒場にしよう」と盛り上がりました。
私はまだ小さくて、記憶はほんの少ししか残っていませんが、上野や浅草にはたくさんの民謡酒場がありました。地方出身者が集まり、自分たちのふるさとの歌を歌ったり、お酒を飲みながら見知らぬ人と話をする。民謡酒場がひとつのコミュニティーになっていて、その頃の楽しい雰囲気を青山につくれたらいいな、と思いました。
日本が急速に経済成長した1950、60年代、日本中から多くの人が東京に働きに来ました。上野は北海道、東北地方の鉄道の玄関口ですし、浅草は浅草寺の門前町で、映画館や気軽に入れる飲食店が並ぶ繁華街。地方出身者が仕事帰りや休日を楽しむ場所でもありましたから、ふるさとの歌を聞ける民謡酒場は大いに賑わったようです。木津さんはお若いのによくご存じですね。
 父がプロの民謡の尺八奏者でしたから、父に連れられて行きました。私は3歳が初舞台で、まだプロと言えるようなものではありませんが、父に習った「武田節」などを民謡酒場でも歌っていました。飲むのはビールじゃなくて日本酒ばかり。日本酒の匂いは嫌いでしたが、あの頃、民謡酒場に集まっていた人たちには活気がありました。
「青山民謡酒場」では、当時のそういう楽しい雰囲気が出せたらいいなと思っています。青山は若者の街ですが、青山向けに飾ってロックっぽくしたり、フュージョンっぽくしたりしなくても、ストレートに民謡を歌ったほうが今の若い人に伝わるのでは、という気持ちがありました。というのも、私のライブにちょっとずつですが、民謡に興味をもって聞きに来てくれる若い人が増えているからです。「民謡って面白そう」と言ってくれる方もいますし、私が太鼓を打ちながら歌うスタイルに興味をもってくれる方もいます。
5月に5夜連続「青山民謡酒場」を開き、9月に続けて番外編2夜連続ライブが行われました。
 5月のライブで手応えが凄くありました。日を追うごとにお客さんが増えて、リピーターもいらっしゃいましたし、青山でやったことで普段は民謡と接触のない方々にも来ていただくことができました。CAYの店長さんも喜んでくださって、シリーズ化しようという話になっています。浅草にある民謡酒場「追分」のママが、ライバルのお店ができたと思ったみたいで「青山のどこに民謡酒場ができたの?」と驚いていたというお話を聞きました(笑)
「青山民謡酒場」は木津さんが2002年に津軽三味線奏者の澤田勝秋さんと結成したユニット「つるとかめ」のプロデュースです。結成のきっかけは何ですか。
 「つるとかめ」というユニット名を名乗って、「つるとかめ」というタイトルでCDをリリースしたのは2002年ですが、その3年ほど前からデュオを始めていたので、今年で活動開始12年になります。「つるとかめ」という名前は、越後の祝儀歌「越後松阪」の「めでためでたの、この家の座敷は、鶴と亀とが舞い遊ぶ」という歌詞からとりました。
12年前はロックやジャズの人たちと共演する機会が増えていた頃ですが、どこか違和感を覚え始めていた。今にして思えば、それはまだ自分にとっての民謡が確立していなかったからなのですが。「ここは、このこぶしで歌って」とか、民謡の唄い方のエッセンスだけ発注されているような気がして、民謡歌手なら私でなくても誰でもいいのではないかと。そういう迷いもあって、もう一度どっぷり民謡の世界に浸かってみたいと思うようになりました。
声を掛けていただいたというのもありますが、洋楽とのコラボレーションに興味をもったのは、民謡があまりにも身近すぎた反動もあったと思います。何しろ両親、妹、家族中が民謡をやっていて、学校から帰ると、プープー、ペンペン、父の吹く尺八や母の弾く三味線が聞こえてきて。でも、逃げることはできないし。それが洋楽の人たちとの共演を通して、ようやく民謡をひとつのジャンルとして見られるようになりました。
その時、改めて澤田勝秋師匠の唄と演奏を聴いたんです。もちろん、澤田師匠は小さい頃からよく知っているのですが、改めて、ああ、こんな身近にすごい師匠がいたんだと気付きました。どうしても澤田師匠と一緒にやりたい。ぜひ一緒にライブをやってくださいとお願いしても、師匠はライブの経験がないので、「何をやればいいんだべ?」という感じで、全然ピンと来ていない。ライブはこういうものです、演奏だけじゃなくておしゃべりもしてと、いろいろ説明しました。でも「難しいことはわかんね」と言われちゃうので、「一緒にやりましょう」と言い続けて説得しました。
澤田さんは根負けした(笑)わけですね。師匠と一緒にやることで、何を吸収できると思いましたか。
 師匠の三味線は歌っているんです。あの頃は、津軽三味線では木乃下伸市さんなどの若い演奏家がどんどん出てきた時期で、私は若い人と一緒にやったほうがいいのではと思ったこともあります。木乃下さんとは一緒に演奏したこともありましたし。でも、変な話、木乃下さんはまだ若い。澤田師匠は大先輩ですから、順番で言えば師匠の方が早く逝ってしまう。「師匠とやるのは今しかない」と、そんなことを思いました。
民謡に戻ってきた頃の私は、自分の意思に関わらず、自然と若手の一角に組み込まれていました。でも、何のために民謡に戻ったのか、民謡を掘り下げるには原点に戻らなければと思いました。今、津軽三味線は曲弾きが大きな流れで、演奏家もみんなテクニックを競う曲弾き志向になっていますが、元々は津軽民謡の伴奏楽器でした。ですから、三味線も歌に沿ったものがいい。私の打つ太鼓も、歌に沿って打ってみたい。歌を大事にしたいという気持ちがありました。歌を大事にした三味線を弾けるのが澤田師匠でした。
それに、澤田師匠のキャラクターは代え難いですよね。師匠は農家の出身で、めちゃくちゃ民謡が好きなお父さんに育てられ、幼い頃は「踊りの天才少年」と言われていたそうです。「歩く民謡」と言いますが、師匠が生まれた青森県では、昔、民謡の歌い手や三味線奏者が一座を組んで回る巡業がよくありました。師匠は小さい頃から巡業をされて、そういう経験をした最後の世代です。それだけでも、私には学ぶことがたくさんあります。
「つるとかめ」では、民謡のどのような魅力を伝えようと考えましたか。
 澤田師匠は青森県の津軽育ちでバリバリの津軽民謡ですが、今の主流はこぶしや声の良さを競い合っているようで、私はあまり好きじゃないんです。ですから、今よりちょっと前の時代の、三味線が伴奏楽器だった頃の津軽民謡というシンプルな形をやりたいと思いました。それと、父が新潟県の出身のためか瞽女さんにも興味がありました。
瞽女さんは三味線を弾いて、歌を歌い、節をつけて物語を語って門付けをする盲目の芸人です。新潟県の高田や長岡に本拠地を置いて各地を回っていました。彼女たちが活躍した時代は娯楽が少なかったですから、どこでも瞽女さんが来るのを楽しみにしていたといいます。最後の瞽女と言われた方が亡くなってもう何年にもなりますが、最近は彼女たちが伝えてきた芸能や生活様式が注目されていますね。
 瞽女さんは津軽にも行って歌を伝えています。それで、古い津軽の民謡と瞽女さんの歌を中心にしようと思いました。ただ、瞽女さんの芸は長時間にわたる語り物が多くてそのままでは魅力を伝えにくいので、時代の雰囲気を伝えるものから始めました。「つるとかめ」の由来にもなった「越後松坂」は瞽女さんによって越後から津軽まで伝えられたといいます。それで、「めでためでたの、この家の座敷、鶴と亀とが舞い遊ぶ」というこの歌を「つるとかめ」のテーマソングにして、澤田師匠にも、瞽女さんの弾き方が入っている古い三味線を覚えていただいて演奏しています。
津軽三味線は伴奏楽器から独奏楽器へ脱皮することで、音楽として大きな可能性が生まれたと思います。ひと昔前の伴奏楽器としての津軽三味線を弾いてほしいという木津さんの希望を、澤田さんはどう受け止めたのでしょうか。
 ストレートに言わないで、「師匠の歌が素晴らしい」と言いました(笑)。師匠の歌う節は今の人にはできないんです。「そうか?」みたいな、半信半疑だったと思いますが、三味線の問題というより、師匠の歌を中心にしたかった。
それは木津さんが民謡の「歌」にこだわっているということですか。
 そうです。いろんな古い民謡を聴くと、そこに込められた思いがすごく伝わってきます。心に響いて、この歌はどんな気持ちで歌ったんだろうと思わされる。例えば、女の人が家族の寝静まった後、ひとりで夜なべ仕事をするのは、どれほど辛かっただろうと思うわけです。でも、ただ辛いだけじゃなくて、その辛さを歌って元気になろうというパワーも感じる。
港町の女の人が、好きな漁師さんが船で去ってしまった時、演歌だったら「行かないで」というところを、民謡は「船はゆくゆく」みたいに歌って済ませてしまう。恨んだり、追いかけたりしないで、パッと新しい日を迎えようみたいな前向きな感じです。私の中では、昔の人はなよなよしていなくて、とても凛としていてかっこいい印象があります。「枕を濡らして泣くけれど、明日は元気に農作業」といった感じのポジティブで、強い気持ちをもっていた。そんな前向きな、民謡に込められた思いを歌えたらと思います。
民謡に込められた「思い」にこだわるのは、木津さんが横浜という都会に生まれ育ったことと関係がありますか。民謡は土地に根付いた歌だと思いますが、横浜育ちの木津さんと、津軽育ちの澤田さんでは民謡のとらえ方が違うような気がします。
 そうかもしれませんね。ただ、私は違う意味で民謡にどっぷりなんです。私は多分、言葉の意味もわからない頃から、父から民謡を教えられて丸覚えでやっていました。民謡を歌うには三味線や太鼓も分かったほうが歌いやすいですし、逆もまたしかりで、歌がわかった方が三味線は弾きやすい。というわけで、小学生の頃から、今日は三味線、次の日は歌、あさっては日本舞踊、太鼓、それから習字といろいろお稽古事をやっていてすごく忙しかった。しかも、たいていダブル稽古でした。高校生の頃には地方巡業などでもう舞台に出ていました。
父がロサンゼルスに民謡を教える支部をもっていて、高校卒業後、支部長さんからお誘いがあって一時期ロサンゼルスに行っていたことがあります。民謡から離れられると思って行ったら、結局毎日、民謡の稽古の相手。はめられたって感じでした。3カ月ほどしたら、民謡歌手の金沢明子さんの太鼓の伴奏をやることになったから帰りなさい、と迎えに来て。そのまま太鼓奏者として活動するようになってしまった。
津軽ではないけど、確かに民謡にどっぷりの生活だったわけですね。そしてそのままプロになってしまった…。
 まるで自分の意志がないみたいですけれど、そういうことですよね。でも、反抗しなかったということは、多少は民謡が心に引っ掛かっていたんだと思います。
金沢明子さんは、プロの民謡歌手がステージで歌う時のお定まりの衣装だった振り袖を止めてジーパンで歌うなど、新しい民謡歌手のスタイルをつくりました。そのバックで太鼓を打つ木津さんも注目されたのではありませんか。その後、様々なジャンルの音楽家とコラボレーションで活躍されるようになります。
 ワールドミュージックが流行りだした頃で、民謡以外のジャンルのいろいろな人から声を掛けられました。振り返ってみると、ただ呼ばれるままにやっていた感じで、楽しめるところまでには至りませんでした。それが、そのうちに違和感を感じるようになった。ただ、洋楽の人とコラボレーションするうちに、「あ、ここで太鼓があったらいいな」とか、「歌いながら太鼓を打ったらどうかな」とか考えるようになり、それが、太鼓を叩きながら歌うという私のスタイルをつくるきっかけになりました。
それまで木津さんのように太鼓を叩きながら歌うスタイルは民謡にはなかったのですか。
 ステージで演奏する民謡は、歌と伴奏の分業がはっきりしていて、楽器を演奏しながらは歌うことはありません。初めてこのスタイルで演奏したのは、1997年の夏にウズベキスタンの第1回世界民族音楽祭に出演したときです。急なオファーで誰も都合がつかなくて、ひとりで行くことになってしまいました。国を挙げての大きなイベントで、会場はサマルカンドのレギスタン広場というすごく大きな広場でした。他の国は楽団を従えて、人間国宝級の人たちがたくさん出演していたのに、私はたったひとり。でも、太鼓を叩きながら歌ったら結構受けたんです。もしかしたら、このスタイルでやれるかもしれないと思いました。
子どもの頃からずっと民謡をやっていて、この後もずっと民謡に携わって生きていくんだろうとは思っていましたが、具体的に何をしていくかは漠然としていて自分でもわかっていなかった。ただ、プロの民謡歌手がやるように、振り袖を着て舞台の真ん中に立って歌うようなステージ民謡の形は恥ずかしくてできない。では、太鼓奏者としてやっていくのかというと、これで一生やっていくぞ、という強い気持ちにはなれなかった。それが、レギスタン広場で太鼓を叩きながら歌ったら、骨組みがしっかりするというか、民謡のグルーブ感がすごくアピールできると思いました。叩きながら歌うと、体が心地よく動いて、声が伸び伸びと出て、民謡に込められている思いの中に自分の気持ちがすっと入っていく。「これだ、私の探していたのは、これだ」と思いました。パーンと一気に気持ちが変わって、「ああ、これでいいんだ!」と確信しました。それが今の私の演奏スタイルになっています。
新しいことを始めると、とかく批判が起きます。誰もやっていなかった演奏しながら歌うスタイルや「つるとかめ」を始めた時の周囲の反応はいかがでしたか。
 直接言われることはありませんでしたが、かなり白い目で見られましたね。私は太鼓奏者として活動していることが多かったですし、澤田師匠は伴奏の津軽三味線奏者として大御所なのです。二人とも歌手ではない。「つるとかめ」を始めた当初は、「伴奏者の二人が組んで何をやっているのだ?」という雰囲気はありました
分業がはっきりしているステージ民謡を変えたいという気持ちもあったのですか。
 そういうことではなくて、自分の気持ちに素直に従っただけです。ただ、周囲にはビックリされてしまいましたが…。でも民謡界で突き抜けた大御所といわれる大先生たちは、面白いとおっしゃってくださって、それが支えになりました。
ここで、ステージ民謡についてちょっと教えてください。民謡は、生活スタイルも変わり、労働歌や祝い歌として生活の中で歌われることはほとんどなくなったものの、現在も民謡の生まれた土地で歌い継がれています。それとは別に、明治時代の終わり頃には各地の名人上手の人がレコードを出し、ステージで日本中の民謡を歌うプロの歌手が生まれます。ラジオやテレビで全国に広まり、「ステージ民謡」とも言えるジャンルが誕生したわけですが、ステージ民謡で上手な歌い手さんというのは、どういう人をいうのですか。
 高くきれいな声で、きれいなこぶし、「ア〜ア〜アア〜」と微妙な節回しを使って歌うということでしょうね。ですから、年を取って高い声が出なくなり、演奏する時のキーが下がっていくことをとても気にします。
木津さんはそうした歌い方についてどのように思っていらっしゃいますか。
 私は、もともと歌も上手くないですし、高い声が出なくなれば、キーを下げればいい、それが自然なことだと思っています。声の調子が悪いときも全然気を遣わなくて、出る声で歌えばいいと。出ない時は出ない時、それがその日の私の民謡だ、みたいな感じで歌っています(笑)。私の声は低い方ですが、男性の澤田師匠と一緒に歌うとそれでもキーがずいぶん違う。西洋のクラシック音楽の考えではとても揃っているとは言えない。でも、それでいい、揃える必要なんてないと思っています。
美声や高い声を競うより、1曲1曲に込められた思いに興味があって、その思いを表現できたらいいなと思っています。例えば、民謡ですからちょっと猥雑な言葉やきつい歌詞もありますが、ステージ民謡ではそういうものをやめてしまって、当たり障りのないものにしてしまいます。それでは元の思いが伝わらなくなるなとも思います。
地方に伝わる子守唄の中には、背負った泣きやまぬ子どもに「海に投げ込むぞ」と脅すような歌詞をもつものもあって、幼い子守りたちの気持ちがうかがわれますが、ステージやテレビで聞く民謡にはそういう残酷な歌詞はありませんし、メロディーも聞きやすく整理されているように感じます。木津さんは歌われた土地を訪ねて、地元の人に習うこともありますか。
 習うまではしませんが、聞きにいったり、その土地に行って空気を感じたりすることはします。どっぷりひとつの地域にはまってしまうと、私が歌う意味がなくなると思うんです。地域で育った歌は、それはもう地元の人の歌う歌にはかなわないですから。それはそれで、地元の方に伝えていただいて、私はもう少し客観的に民謡のもっている力、民謡に込められている思いを伝えたいと思って歌っています。
客観的になれるという意味では、横浜育ちで良かったかもしれません。若い頃は津軽民謡の太鼓を叩くと、「それは津軽でね(津軽でない)」と言われて、どうすればいいんだと思ったことがあります。教えられたとおりちゃんと叩いているし、どこが津軽でないのかと尋ねれば、「なまってね(なまってない)」。そう言われても何が違うのかわからない。本当に悩んだ時期があります。どうしていいかわからなくなってロサンゼルスにも行ったし、洋楽とも共演した。今思うと、洋楽との共演は、民謡の一番コアな部分、私が悩んでいる部分にぶつからない気楽さがあったから、そこに逃げていたのかもしれません。
突き詰めていけば、どこかの地方出身でないと民謡をやってはいけない、生まれ育った地方の民謡しか歌ってはいけないってことになってしまう。でも、私は横浜生まれで、普段は洋服で、コーヒーを飲んで、自動車を運転して、こういう時代に生きていて、子どもの頃から民謡をやってきた。それは変えられないことですよね。だから、すべてを肯定的にとらえて、自分は自分なりの民謡をやっていくしかないと考え直しました。実際に、田植えをしたり、ニシン漁の網を引き揚げたり、そういう労働をしながら歌っていた世代ではないけれど、彼らが歌ってきた「思いを伝える」という形で、北から南まで日本中の民謡を全部歌っちゃえばいい。文句を言われたら「スミマセン」って引き下がればいい(笑)。そう考えられるようになって、自分のスタイルが出来てきたと思います。
「青山民謡酒場」には「木津社中」という木津さんのお弟子さんたちも出演しました。最近はワークショップなど民謡を教えることに積極的ですね。
 年を取ってきたからかな、と思うのですが、次の世代に伝えなくちゃ、という思いが段々強くなってきました。真剣に教え始めたのは「つるとかめ」が軌道に乗った5、6年前からです。たくさんではないですが、6歳の女の子から60歳ぐらいのオバチャンまで、数十人ほどに教えています。今は一生懸命種を蒔いている時で、将来教えた人の中から、私の考えを受け継いでプロになる人が出てきたらうれしいですね。
民謡は地声で歌いますが、民謡を習いたいという人の中にも最近はポップスやオペラみたいな声の出し方をする人がいる。でも、「一緒に歌いましょう」と始めると、段々地声が出るようになってきます。理論的に説明できないので、「ここでこぶしを回すのよ」と一緒に歌っていると、段々コツが分かってくるみたいです。私自身も、子どもの頃は訳も分からず、1時間ずーっと父を真似て歌いました。楽譜も見ずに、父の口を見ながら民謡を覚えた感じです。師匠について体で覚える、日本の芸能はみんなそうですね。
これからの日本の民謡はどうなっていくと思いますか。
 いわゆるステージ民謡や家元制度の中での生徒と先生の関係は、もうちょっとは続くと思います。家元制度といっても伝統音楽の箏曲や長唄と違って歴史が浅い。「俺が家元だ」と言えば、家元になれちゃうのが民謡なんです。だから、家元がいっぱいいますし、続いていても長くて三代目。私もプロになったのは父からですから、民謡のプロの二代目です。でも、ステージ民謡のファンは年々少なくなっています。民謡の会に行くと、60歳は若い方で80歳くらいのおばあちゃんが杖をついて聞きに来ているような状況ですから。その世代がいなくなると、下手をすれば自然消滅してしまう。でも、今、日本全体が「自分たちのDNAを思い起こそう」という雰囲気になってきているような気がするので、その一環として民謡も生き残っていける気はしています。
若い人たちにもっと民謡を聴かせたいと考えますか。
 民謡を楽しんでくれる人が増えるといいですね。若者が熱中する音楽といえばポップスやロックばかりで、私も一時は流れに負けそうになって、自分のやっている民謡をダサイと考えた時期がありましたけれど、今は「かっこいいからちゃんと聞いてよ」と言えるものを聞かせようと思っています。若い人は、津軽三味線にしても太鼓などの和楽器にしても、先入観をもたずに面白いと思ってくれるので。
日本にはもう数限りなく民謡があります。労働の歌、祝儀歌、山に入る時には山の神様に捧げる歌があって、海の神様に捧げる歌……。隣の集落に行けば違う歌があって、同じ歌でもちょっと地域が変われば違う歌になる。とても大雑把な分け方ですけれど、沖縄など南の方はスッタ、スッタと裏拍にアクセントがあって、東北地方ではアー、アーと頭にアクセントがくる、というように土地、土地でアクセントやリズムに特徴があります。そういう民謡の豊かさやそこに込められた人々の思いを、もっと知ってほしいと思います。
海外で公演する機会も多いのですが、アピールするためにこの国の人はこんなリズムが乗りやすいとか、そういうことは一切考えないで普段やっているままにやっています。そのほうが日本の民謡の良さをストレートに伝えることが出来るような気がします。ただ、言葉が違いますから意味が伝わらないので、日本で歌う時以上に言葉に思いを乗せて歌うようにしています。
海外公演を経験して、「これが日本の民謡の特徴だ」と分かったことはありますか。
 う〜ん、「揉み手」ですかね(笑)。ほかの国にはないんですよね、この感覚が(木津さん、1拍ごとに両手のひらをすり合わせ、手拍子を打つ)。手拍子のあいだに揉み手をして「間」を取っているのですが、その意味が分からないようです。祈りの動作のひとつのように思っているのかもしれません。そう、これが日本の民謡独特のものですね。揉み手が上手くならないと、民謡も上達しないんじゃないかしら。
海外に行くといろいろ吸収できますが、同じように民族音楽をやっている人たちが、自分の国のものをすごく大事にしていて、誇りをもっている。それには、とても影響を受けました。日本の民謡を大切に、誇りをもって歌わなくては。私ひとりではとても力が足りませんが、私なりに民謡の魅力を伝えていきたいと思っています。
ぜひ、揉み手の魅力を世界に広めてください。期待しています。

つるとかめ
写真提供:(財)日本伝統文化振興財団

澤田勝秋(さわだ・かつあき)
青森県弘前市生まれ。8歳より津軽の手踊りで、15歳より津軽三味線で舞台に立ち、東北各地を廻る。19歳で上京。民謡酒場で研鑽を積み、1970年にテイチクレコードより初アルバムがリリースされる。以来、今日までその演奏を収録したレコード、CDは数え切れない。津軽民謡の本筋である「唄づけ」(唄に対して即興で応えていく、津軽三味線本来の高度な技術)のできる数少ない演奏家として高い評価を受け、1992年に日本郷土民謡協会より、1999年に日本民謡協会よりそれぞれ技能賞が授与されている。現在、津軽三味線・民謡の重鎮として全国組織「澤田会」を率い、自身の演奏活動のみならず、若手の育成にも力を注ぐ。