高橋晃子

文楽のもうひとつの魅力 髪を操る床山師の世界

2010.07.08
高橋晃子

高橋晃子Akiko Takahashi

文楽床山師
国立文楽劇場部舞台技術課文楽技術室技術係。東京生まれ。女子美術大学卒業後、米国ロサンゼルスに留学。1987年から国立文楽劇場床山師・名越昭司さんの下で修業を始める。「鬘付け帳」の集大成で大阪市の1996年度「咲くやこの花賞」を受賞。

国立文楽劇場
https://www.ntj.jac.go.jp/bunraku/

文楽は江戸時代に商都・大坂で生まれた舞台芸術(人形芝居)である。現在は技芸員(人形遣い、物語を語る太夫、三味線方)が所属する財団法人文楽協会と、小道具や人形の首(かしら)の製作、衣裳、床山など舞台の裏方が所属する国立文楽劇場により継承されている。歌舞伎俳優と同じように役柄に応じて人形の髪形を結うのが「床山」だ。技芸員も裏方も男性ばかりの世界に、女性としては初めて国立文楽劇場の人形の床山となった高橋晃子さんに、文楽を支える裏方の世界について聞いた。
聞き手:奈良部和美[ジャーナリスト]
初めに文楽の床山とはどんな仕事なのか教えてください。世界中にさまざまな人形劇がありますが、髪を結う専門職がいるのは珍しいのではありませんか。
 人形劇で床山がいるのは、おそらく文楽だけではないでしょうか。例えば、『シンデレラ』を上演する場合、人形劇では場面によって髪形も衣裳も変わる数だけシンデレラの人形が必要になります。文楽も同じで、シンデレラは「娘(むすめ)」と呼ばれる首(かしら)だけを使うとすると、いくつもの娘の首が必要になるわけです。しかし、そうやって必要な数だけどんどん首を増やしていくわけにはいきませんから、人間の役者さんと同じように、役柄や場面に合った衣裳を付け、髪を結い直した鬘(かつら)を付けた人形を用意します。そのため歌舞伎と同じように床山がいます。
昔から首の数を増やさずに使い回してきたということですか。
 現在、大阪の国立文楽劇場には320ほどありますから、東京の国立劇場にあるものも入れると400弱の首があります。だいぶ数は増えましたが、外題(げだい・上演演目)が多いので足りません。
例えば、『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』を通し(全幕)上演すると、登場人物のひとりの松王丸(まつおうまる)だけで6つの首を用意します。松王丸の首は「文七(ぶんしち)」と言いますが、場面が替わるたびに髪形が変わりますので、6つの頭が必要なのです。通し狂言では主役・ワキ約合わせて全部で50から60の首が出ます。1公演で複数の外題を立てる時も、だいたい50前後の首が出ています。しかも、常に3カ月先の公演の分まで首の準備を平行して作業していますから、外題によっては文七ばかり使うということにもなります。そうなると、もう足らないですね。
そういう数少ない首に、人間のように鬘を付けていくのが床山の仕事なわけですが、仕事の内容を詳しく教えていただけますか。
 歌舞伎など人間のための床山さんと同じで、鬘をつくって、髪を結って、それらしい役柄に変えることに協力するのが仕事です。
まず銅板で鬘の土台になる「台金(だいがね)」というものをつくります。銅板を切り抜いて、叩き台という台に載せて金槌で叩いて首の形に沿って立体にするわけです。それから、蓑(みの)といって、2本の麻糸に髪の毛を結び付けた、髪の毛の縄のれんみたいなものをつくります。それを台金に穴を開けて縫い付けていくわけです。人間の鬘ではここまでが鬘師さんの仕事です。
本来は鬘師と床山は分業なのですが、文楽は同じ人が担当します。私の師匠の名越昭司先生が元々鬘師だったので人に任せられなかったのだと思いますが、そのほうが仕事は早いし、仕上がりも良かったんでしょうね。
蓑づくりは人毛やヤクの毛をびっしりと麻糸に結び付けていくわけですから、人形の頭が小さいとはいえ、時間と根気のいる仕事ですね。
 鬘を1つつくるには、役柄や首の大きさにもよりますが、だいたい長さ30センチほどの蓑が3枚必要です。時間がかかる作業なので、他の仕事の合間に編んでストックするように心がけています。
原毛は長さを指定して注文しますが、どうしても短い毛が混ざってきます。人間の鬘とは違い、人形には木蝋と油を混ぜた柔らかい鬢付け油を使えません。これは首がヒノキで出来ていて、胡粉(ごふん)という水性絵の具を塗って仕上げてありますので、油が首に付くと中まで染みこんで、メンテナンスで塗り替える時に絵の具をはじいてしまうからです。鬢付け油で短い毛の乱れを防ぐことができない人形の鬘は「髪の仕立て」が大切になります。
「髪を仕立てる」とは、髪の毛の束を逆さに握って短い毛を振り落とします。短い毛を落とした髪の毛を束にして、その中から必要な本数を抜いてクルッと丸くして2本の麻糸の間に通して結び付けて蓑を編みます。編み方は3枚とも同じですが、生え際の化粧蓑は細かく編んだものを用意します。化粧蓑は1回20本ぐらい、真ん中の中蓑は45本ぐらいの束を自分の手の感覚で抜いて結びつけていきますが、髪の毛も1本1本太さが違うので、手と目、五感を駆使して束の見当をつけています。
感覚をつかむにはどのくらいかかりますか。
 最初は、手に髪の毛が収まらないんです。右手で仕立てた髪の束から数本ずつ毛をつまんで、それを左手で必要な本数になるまで集めます。化粧蓑なら20本集め終わったら右手でスッと抜いてそれを輪にしますが、最初は手に髪の毛を集めることができない。それは髪を結う時も同じで、髪が手に添ってこない。修業を始めて1、2年ぐらいの時に、作業場に来た母親が先生の結髪している姿と、私が側で汗をかきながらやっている姿を見比べて、「先生の手には髪の毛が吸い付いているみたいね」と言ったことがありました。私がおたおたと必死に髪を掻き集めているように見えたんだと思います。
繰り返し蓑を編むことで、手が髪に馴染んでくるわけですか。
 蓑を編むことが修業の第一歩です。何度も繰り返しやることで、根気を養うことにもなります。
台金に蓑を付けた段階は、ザンバラ髪の状態ですよね。
 そうです。それ以外に、もうひとつ「油付き(あぶらつき)」というものもあります。先ほど油は使わないと言いましたが、実は木蝋を溶かした油を付けて髪をカチカチに固め、研ぎ出してピカピカに光らせる鬘があります。髪の毛を使った張り子のようなもので、主に立役の鬘、例えば松王丸の後ろの部分や武家など荒々しい役やカチッとした役の首に使われます。
例えば『艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)』のヒロインお園(おその)のような典型的な女の髪は、ザンバラの状態から結い上げていくわけですか。
 そうです。女性の髪形はまずザンバラの髪を、前髪と両鬢、襟足の「たぼ」という後ろに張り出した部分に分けます。それから、櫛を使って結い上げます。出来上がったものを長持ちさせたいので、仕上げにヘアスプレーでふわっとホールドします。 
人間が日本髪を結う時に「かもじ」を入れるでしょう。ふくらみを出すための入れ髪ですね。文楽の鬘もかもじでボリュームをつくっています。髪を仕立てた時に落とした短い毛などを集めて、「毛たぼ」というんですけど、パッキンをつくりボリュームを出すところに入れます。このパッキンが難しくて、何年も思うような物がつくれませんでした。
文楽の首は顔の大きさに比べると後頭部がないというか、額から後ろがないようなものなんです。人間の頭蓋骨と比べたら相当小さいと思います。それを毛たぼで膨らませた髪で整えて大きく見せているわけで、毛たぼの表面が凸凹で形が悪いと、その上に乗る髪の毛に土台の悪さが反映してしまいます。
髪形のバリエーションはどのくらいあるのでしょうか。
 教えていただいたのは120です。女性の髪形は40、男性が80というふうに教えられました。そのすべてをひとつずつ教わったのではなく、仕事を一緒にしながら教えてもらったというか、見て覚えたというか…。ですから、120という数は知っていますが、実際に120かどうか数えたことはありません。
男の髪形の方が多いのはなぜですか。
 性格でも立役の髪形は変わりますし、昔は身分や職業でも髪形が違います。多分物語に登場する男性の個性が色々だったり、職業の多さなどの表れではないでしょうか。首の種類も圧倒的に男性のほうが多いんですよ。特殊なものを除けば女性は子役、娘、老女方(ふけおやま)ときていきなり婆(ばば)ですから。男の首は主だったものでも、若男(わかおとこ)、源太(げんだ)、文七、検非違使(けびいし)、孔明(こうめい)というふうに何種類もありますし、おじいさんだって数種類に分けられている。
首によって髪形は違ってくるのですか。
 そうですね。その首が何の役をやるかで変わりますし、場面によっても変わります。『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』のお軽(おかる)は首が3つです。武家に仕える腰元、実家に戻った時の若女房、その後身売りして遊女になった七段目(7幕目)。みんな同じ娘の首で、髪形もみんな「島田(しまだ)」なのですが、同じ島田でも形が異なります。腰元の時は文金島田(ぶんきんしまだ)、真ん中は女房の地味な島田、最後が遊女のつぶし島田になる。そうした細かい違いも入れると120ぐらいになるのだと思います。
人形の遣い手の好みで髪形が変わることはありますか。
 以前はわかりませんが、今はそれほどないと思います。ただ、『艶容女舞衣』のお園を遣われる時、文雀師匠と簑助(みのすけ)師匠とでは髪形は違います。
吉田文雀さんも吉田簑助さんも人間国宝の人形遣い、女方の遣い手の第一人者ですね。『艶容女舞衣』の酒屋の段は、愛人の元から帰らぬ夫を案じるお園の一挙手一投足に、観客の目は引きつけられます。2人の人間国宝がイメージするお園の違いが髪形の違いに表れているのかもしれません。
 簑助師匠は「鴛鴦(おしどり)」、文雀師匠は「先笄(さっこうがい)」に結われます。文雀師匠が教えてくださいましたが、その2つの髪形の出所はどちらも吉田文五郎師匠なのだそうです。
文五郎さんは大正から昭和の文楽を代表する女方の名手ですよね。鴛鴦と先笄ではかなり印象が違いますか。
 派手なのは鴛鴦です。鴛鴦は本来、既婚女性の髪形ではありません。お園は町方の女房ですから、文五郎師匠も最初は先笄だったそうです。親しかった歌舞伎役者の初代中村雁治郎さんに「華やかな遣いに合った鴛鴦でいったらどうか」と助言を受けられてから、文五郎師匠はお園を鴛鴦で遣うようになったのだそうです。最後に遣われた時は元に戻されて先笄に結ったお園でされた。「町方の女房の鬘は先笄が本当だからな。ただやはり、お客様には派手な鴛鴦のほうが受けるな」というようなお話しを文雀師匠にされたそうです。おのずと人形の遣いも違ってくるのだと伺いました。先日、太夫さんから聞いたのですが、稽古の時に師匠から「その語りでは前髪にはならん」というふうに教えられたことがあるそうです。
「前髪(まえがみ)」というのは額あたりの髪を女方のように束ねた元服前の若い男性の髪形ですね。
 はい、若男や源太の首に結います。例えば『絵本太閤記(えほんたいこうき)』十段目の十次郎(じゅうじろう)は首を3つ使用します。その3つすべてが前髪付きの鬘で、最初が前髪の色茶筅(いろじゃせん、髷を結っている)、次は髷をほどいたサバキで戦場に向かうので兜を着けます。最後は手負いになって毛量を増やしたバサバサの髪で出てきます。前・中・後と髪形は変化しますが、実は3つ用意する頭もそれぞれ違うんです。最初は若男、次は目や眉が動かない源太、最後は眉や目が仕掛けで動く源太。登場人物の気持ちの変化に応じて首も髪形も変えているのだと思います。その変化に気づかれるお客様は少ないですが、それは、太夫・三味線・人形の創り出す物語の世界にお客様が入り込んでいらっしゃるからでしょう。
髪形や首は人形遣いや太夫の表現を引き出す役割も担っているのですね。
 事前に首を確認に来られる太夫さんもいらっしゃいます。現在は、どの首をどの役に使うかは(首割(かしらわり)と言います)文雀師匠が決められます。同じ役でも今とは違う首を使っていたり、髪形の違う古い写真を見ることがあります。これは文雀師匠が長年の経験と、本を熟読された上で変えてこられたからでしょう。ですから、これからも首や髪形は固定ではなく変化していくと思います。
新作の時にはどのように髪形を決めるのでしょうか。2009年に再演したシェイクスピアの『テンペスト』は、日本の古代を思わせる衣装や髪形でした。古典の決まり事にとらわれない外題ですから、もっと冒険できたような気もします。
 古典の世界でも新作を上演する時は、トータルコーディネーターのような、「こういうイメージでいこう」と伝えてくれる強力なパワーがあるといいですね。そのイメージを現実の形に変えていくのが現場の人間ですから。
古典はちょっとした変化はありますが、この外題では首はこれ、髪形はこれ、衣裳はこれとおおむね決まっています。出し物が決まると、衣裳も首も床山も簡単な打ち合わせでどんどん仕事を進めていきます。それで、最後にその役を遣う人形遣いさんが着付けを済ませた胴体に化粧を整え、結髪を終えた首を差してひとつの人形にする。外題が出れば何を用意しなければならないか、あの鬘はもう傷んで使えないから新調しなきゃとか、だいたい段取りが分かる。それだけ土台がしっかりあるということですから、本当に古典はすごいな、と思います。
ところで、文楽は男性の世界。衣裳を縫う部署には女性がいたようですが、ほんとうに少数派でした。高橋さんは床山では初めての女性です。文楽の床山を志すきっかけは何だったのでしょう。
 そもそもは日本髪が好きで、時代劇が好きで、お姫様が好きで…(笑)。誰の影響かわかりませんが、幼稚園に入る前から好きでした。母が働いていたので、近所のおばさまが子守に付いてくださった。年配の方で針仕事ができたから、私のバービー人形に端切れで着物を縫ってくれたり、バービー人形の髪を束ねて、「これが桃割(ももわれ)、これが島田」と、たった2種類の髷ですが日本髪も結ってくれました。私もやりたくてやりたくて、小学1、2年の頃には、友達の髪の長い妹を捕まえて、自分の着物を着せて、髪を結って、かんざしを挿したり紙人形をつくったりして遊んでいました。
そこが出発点だったわけですね。
 そう思います。今は伝統回帰とかいわれて、若い人も日本の伝統文化に関心が向いていると思いますが、昭和30年代は伝統から離れよう、「こんな古いものは捨ててしまえ」という時代だったように思います。西洋的なものに憧れて、着物よりはドレスという時代。私も憧れがなかったわけじゃなくて、シンデレラも白雪姫も好きでした。だけど、やっぱり着物の裾を長く引いてかんざしがごてごていっぱい挿してある日本髪のお姫様のほうが好きでした。テレビで放映していた時代劇『琴姫七変化』の世界ですね。友達は若い男性歌手グループに夢中でしたが、私のアイドルは中村錦之助のような時代劇の俳優でした。
時代劇好きが高じて、時代劇に関連する職業に就きたいと思うようになった。
 それが、そうとも言えなくて…。その世界をつくるのではなくて、多分、江戸時代に行きたい、できることなら江戸時代の人間になりたかった(笑)。
中学高校は私立の美術系の一貫教育の学校で、クラブ活動は歌舞伎研究会でした。どっぷり古典芸能に浸かったので、大学ではその反動で努めて洋画を見たり、マルセル・マルソーやドイツのマリオネットを見たりしていました。美術史の勉強でヨーロッパを回った時に、英語で話しかけられて手も足も出なかったのが悔しかったのと、そのまま就職するのが恐くて短絡的にアメリカに留学しました。
大好きな江戸の世界を断ち切った。
 そう、自分でもなんてへそ曲がりなんだろうと思います。ただ、古典芸能一辺倒になるのはどうだろうかと。大学を出てしばらくアメリカでアルバイトをした後、帰国して仕事を探しましたがなかなか見つからない。でものんびりしてましたね。
東京の沼袋にある旧中野刑務所の発掘現場でアルバイトをしたら、住居跡やお墓が出てきたりしてこれが面白くて肉体労働も楽しかったです。でもだからといってそこから考古学を勉強するわけにもいかない。そろそろ親もしびれを切らせていましたので、興味のあったコンピューターグラフィックに繋がればと考えて何とかプログラミングの会社に就職しました。でも、OLの経験がないので、コピーの取り方もわからないし、プログラミング言語はどんどん進みますから、ついていけない。30歳間近の私はスタートラインに立つのも大変でした。
一人前に仕事ができるまでには少なくとも10年は必要。仕事人になるためには30歳が最後のチャンスだ、と思っていましたので、本当は何がやりたいのか本気で自問自答しました。結局、私はお芝居、鬘がやりたいんだと気づいた。自分が楽しむ神聖な場所を職業にして、うまくいかなかったら立ち直れませんから、できれば聖域には近づきたくない、恐いという気持ちでした。でも古典芸能の世界なら、コンピューターも使えない私でも歯車のひとつとして役に立てるかもしれない。人形が好きで、鬘が好き、そして古典芸能が好きというところで、文楽の床山になれたら、と考えました。文楽の太夫・竹本津駒大夫さんの奥さんが中学時代からの先輩で、彼女が文楽の床山は後継者難で、57歳になる名越先生が「1人で頑張っている」と教えてくれたんです。
後継者を探しているからといって、男の世界に女性を薦めるというのは先輩も冒険家ですね。
 劇場は後継者を育てようと広報誌に募集記事を載せたんですが、応募がゼロ。名越先生は何人かの応募者の中に男性が1人や2人はいるだろうと思っていらしたのでショックだったようです。ちょうど男女雇用均等法が施行された年でしたから募集は性別不問でしたが、私が東京公演中の国立劇場の楽屋におじゃまして、「やりたいんです」って言った時は、当然ですがお返事は「ノー」でした。
それでも諦めなかった。
 そうです。23年前になりますね。ノーと言われて行かなくなったら絶対アウトだと思ったので、仕事が終わってからと休みの日にまた楽屋に伺いました。先輩の勧めと協力で、翌6月には大阪の国立文楽劇場にお訪ねして、2回目にはアパートも決めて、7月には仕事を辞めて大阪に押しかけました。無給で先生の所に座り込んだってことですね。若かったし、パワーはありましたねえ(笑)。
名越さんはノーと言いながらも拒否はされなかったのですね。
 東京で先生に「男だったらな」と言われたので、「私が男だったら雇ってもらえたんですか」とお聞きしましたら「うん」とおっしゃった。そうか、ノーの理由は性別だけ、私個人はOKなわけだと勝手に良い方に解釈しました。
先生は誠実な方で、少しでも情報を与えて諦めさせようと思ったんでしょう。「巡業にも行かなきゃいけないし、女でやっていくのは大変だよ」とおっしゃる。どんなに大変な仕事かわからせるつもりで、蓑編みとかやらせてくださる。全く相手にされないんだったら諦めたかもしれませんが、裏目に出ましたよね。この先生についていこう、と思いましたもの。閉まっている扉の前に座っている状態で、ここで後ろを向けば二度と扉は開かない。とにかく開くまで座り続けようと開かないことは考えませんでした。
大阪では毎日、楽屋へ押しかけたのですか。
 その頃、文楽はそれまでのホームシアターだった朝日座から国立文楽劇場に引っ越してまだ1、2年で、大阪の床山楽屋は全く整理がついていませんでした。そこで先輩が「掃除機だと思って置いてください」と強引に私を置いていかれて…。本当にたくさんの人にお世話になりました。髪の毛や銅版、とんかち、櫛と、材料・道具がごちゃごちゃと置いてある雑然とした仕事場で、虫なんかも出たりときれいな所じゃありませんでしたが、私は元々汚いお部屋は平気でしたし、かんざしや縮緬、小裂類はどれも私にはお宝ですから、もう、その中にいるだけで幸せでした。少しでも先生の手を空けて何か1つでも教えてもらいたい、説明してもらえたらという一心でした。片付けるにしても、どれを何に使うのかわからないので、どんなことでも先生に聞く。どんどん片付けていくと、先生はどこに何があるか段々とわからなくなって、「あれ、どこやった?」と聞かれる。見つけられなかったら大変だと緊張する半面、「しめた!」でもありました。
技術を伝えるには時間が必要ですから、57歳の名越さんは後継者のことを真剣に考えていたでしょうね。そこにあなたが現れた。
 今、先生と同じような立場に置かれ、そのお気持ちが少しずつですがわかります。私が毎日無給で働いているので劇場は放っておけなくなって、2カ月経った頃にはアルバイトにしてもらい、1、2年で文楽劇場の職員になりました。
名越さんは「技術は盗め」という古い修業をしてきた方で、マニュアルなどない。どうやって技術を学びましたか。
 やっぱりゼロになること、素直になるのが一番ですね。抽象的な言い方で申し訳ありませんが、先生がくれようとしているものを貪欲にもらうためには、自分をどれだけむなしくするかだと思います。自分をカラにして吸収する。とにかく観察すること、そしてやってみることです。やってみなければ、どこがわからないのか、わからないものです。先生は一度や二度は教えてくれますから、とにかくやってみる。何回かやってみるうちに体が覚えていく。手順を頭で考えているうちは、身に付いていない。先生は古い時代の修業をされた方ですが、大層進歩的な人で、私ができないとどこが違うか一緒に考えてくださった。聞けばいくらでも教えてくださいました。
最初に覚える結髪は髷捌きです。劇中、島田などの髪形が一瞬にして乱れ髪になる仕掛けです。髪を結う手順は本当に効率よくできていて、無駄な動きがない。先人が積み上げてきた伝承の強さだと思います。それでも、「これがオールマイティーではないよ」と言ってくださるのが、先生の凄いところです。「工夫せい」と言ってくださる。技術も素材も、基本は大きくは変えられないけれど、工夫して変えている部分は常にあって、創造がなくなったら伝統は死んでしまうと思うんです。だから、「基本は変えずに工夫はしなさい」という先生はとても有り難い。手順を一度自分のものにして、自分のものとして咀嚼することが大事です。その上で何かひとつでも工夫を加えられたら最高です。
もちろん、最初はなかなかできないです。できないと「あっ、もういいから」って取り上げられちゃう。当然悔しい、次のチャンスはいつくるんだろう、と。そのチャンスに備えて、先生の手元をじっと見て、段取りを覚えて感覚を養う。これの繰り返しです。
自分の結った鬘が舞台に初めて出たのはいつ頃ですか。
 それが案外早くて、7月に大阪にお邪魔して翌年の3月から正式に舞台に出していただきました。先生が巡業に行かれていたので、大阪公演の捌きは私がやらせていただきました。毎日、投光室から舞台を覗きました。捌きが失敗したらどうしようって気になって1、2年はこそっと除いていましたが、「プロなんだから捌けて当たり前、ドンと構えていなさい」と先生に言われまして、毎日はやめました。今でも公演中に数回は出来上がりが舞台でどう映るか確かめに行きます。
舞台映えが悪いと変えるのですか。
 変えます。髷の大きさなどバランスが悪ければ工夫して、翌日の舞台に反映したいと思いますから。人形遣いさんから注文が出ることもあります。いつだったか簑助師匠が遣われた捌きで、仕掛けの栓を抜いた時にポーンとはじけなくて、揺らしているうちにフワッフワッと大きくなって徐々に崩れたことがありました。偶然です、これは。ところが、師匠は「あれがいい」と。翌日から知恵を絞って徐々に崩れるように、できる限りの努力をしました。
食生活の変化で日本人の髪の色や質は変わってきているでしょうし、女性もショートヘアが多いので、素材の確保は難しくなっているのではありませんか。
 人毛とヤクの毛を使うのですが、どちらも基本的には輸入品です。多分9割は中国からです。洗って染めた原毛の形で私たちの所に届きます。鬘は一度結うと、捌きと事故を除けば公演期間中結い直すことはありません。1カ月縛ったままの髪は癖がつきますから、次に使う時は、その癖を熱でストレートに戻して結い直します。これは天然の毛でないと水分と熱でまっすぐには戻りませんし、ポリエステルなどの人工素材は熱で溶けてしまいます。
最近はケミカル会社が人工たんぱくでつくった髪の毛を開発していて、人工たんぱくなので熱で溶けることはありませんが、やっぱり風合いが違う。例えば人工の白髪は実際の白髪と比べたら光沢が違います。老人の鬘を作る時に使う「ゴマの毛」の黒い部分というのは黒ではなく、ちょっと赤茶けていないと黒と白を交ぜた時のコントラストが良い色味にならない。黒さが濃ければ濃いほど意地悪なおじいさん、白くなっていくほど好々爺になる。それを人工のもので表現するのは難しいだろうと思います。文楽は必要な毛の長さが短いですから、まだしばらくは大丈夫でしょうが、これから人間の鬘は大変でしょうね。
素材の確保も大きな問題ですが、気がかりなのは後継者の養成です。東京公演は前半を高橋さんが担当し、次の公演の仕込みのために大阪に帰った後を80歳の名越さんが担当されています。この綱渡りの状況を変えていかなければいけませんね。
 そうですね。2008年11月から27歳の女性が入って一生懸命やってくれています。彼女の前に2人ほど仕事を一緒にしてくれた男性がいましたが、残念ながら続きませんでした。いろいろ努力したのですが、実を結ばなかった。技術は本人の精進次第でコツコツやっていけば着実に身に付きますけれど、こんな色のものは堅気の人は身に着けない、といったような感覚、これは本当に難しい。江戸時代と生活環境が大きく変わってしまっている現代でどうやって身に付けたらいいのか。
そこは昭和30年代生まれの私自身も定かではないところです。戦前の日本髪文化をご存じの名越先生と、文楽の生き字引と言われる文雀師匠にお聞きしながら覚えてきました。文楽の髪形は風俗史として正しいものというわけではありません。舞台映えやその役らしく見せるといった、「芝居のウソ」も山ほど入っています。そういうことは風俗史や結髪史を読んでもわかるものではありません。色々なメディアからたくさん知識を吸収するのはいいことですが、それをオールマイティーだと思わずに、観察して考える自分でいたいものです。
それで登場人物の髪形を記録した「鬘付け帳」をつくったんですか。
 付け帳は自分の覚え書きとして付け始めました。長らく床山は名越先生おひとりで務めていらしたので、日々の公演準備に追われてお忙しく、きちんとした上演資料を残すことは不可能でした。先生の付けられていた資料は途中で残念なことに力尽きていました。そんな状態でしたから、先生は心配だったんでしょうね、「明日自分に何があるかわからない。明日死んでもおかしくないんだぞ」「お前ひとりでやっていけるのか」と言われて…。油断するな、1分たりとも無駄にするなってことです。恐怖でした。通し上演になると、どの登場人物がどの場面でどの髪形か、わかっていないと仕事ができないですから、もう必死でつくりました。それ以来、重複するものは避けますが、何十年ぶりにかかった外題や前回と違う髪形の時などには必ず記録を取っています。
記録ができ、後継者ができ、とりあえずは危機的状況ではなくなった。しかも、後継者は女性ですから、男女の壁は崩れたといえますね。
 辞めた2人は男性でしたが、仕事の何がどう辛いと感じるかは性別ではなく、個人差じゃないかと思います。どんな仕事でもしんどい部分は必ずあって、それとどう向き合うかでしょう。「一生修行」と名越先生がおっしゃるように、この仕事は短距離走じゃないので、上手に力を配分して後輩には頑張って続けてもらいたいですね。3人いればベストですが、現在床山の定員は2人です。今は定年退職された名越先生がお元気で助けてくださるので、何とか後輩を育てながら舞台の幕は開いていますが、どちらか一方が病気になったらと思うと本当に恐ろしい。
プロとして仕事をさせていただくのは大変です。入った頃はただ好きだという情熱だけでやっていましたけれど、お金を頂きながら仕事を覚えるのがプロなんだと気付いてから、覚悟のようなものができたように思います。私は興味のあることしかできなくて(笑)、好きな髪結いを仕事にさせてもらえた自分は本当に幸せ者だと思います。片寄った私のわがままですが、後輩にも床山の仕事を好きになってもらいたい。興味をもって仕事をするのは楽しいことですから。ただ、そこは仕事ですので、やらなければならない10の仕事の中に1つでも好きなことがあったら、ラッキーでしょう。「1割の好き」のために残りの9割は辛抱。仕事とはそういうものだと思います。

撮影:水野真澄