賀古唯義

江戸時代の息吹をつなぐ 芝居小屋の魅力とは

2010.05.28
賀古唯義

賀古唯義Tadayoshi Kako

1956年埼玉県生まれ。公益財団法人文化財建造物保存技術協会所属文化財建造物修理上級主任・1級建築士。現在、富山県高岡市の重要文化財勝興寺設計監理事務所長。

近代的な劇場が登場する以前、日本には「芝居小屋」と呼ばれる伝統的な木造劇場があった。現存する最古の芝居小屋が、江戸時代に歌舞伎を上演していた機構を残す香川県琴平町の「旧金毘羅大芝居」(1835年建設)である。明治、大正時代にも多くの芝居小屋が建設された。芝居だけでなく、さまざまな興行や演説会などが行われ多くの人でにぎわったが、時代の変化とともに次々に解体されていった。倉庫などに転用されて残ったもの、老朽化した建物を修復し芝居小屋として甦ったものなど、現存している芝居小屋は日本全国で30棟余り。うち5棟が次世代に残す日本の宝、重要文化財に指定されている。国宝や重要文化財の建造物を修復する専門家集団「公益財団法人文化財建造物保存技術協会(文建協)」の賀古唯義さんは、そのうちの2棟、日本の芝居小屋を代表する「八千代座」と「旧金毘羅大芝居」の修復で陣頭指揮を執った。「世界に誇る技術」といわれる木造建造物の修復技術と、芝居小屋の魅力について聞いた。
聞き手:奈良部和美

芝居小屋の成り立ち

賀古さんは、明治43年(1910年)に建設され、今年100周年を迎える熊本県の八千代座の平成の大修復(平成8〜13年、1996〜2003年)と、昭和50(1975)年に移築大改修された日本最古の芝居小屋である旧金毘羅大芝居(通称:金丸座)の平成の改修(平成14〜16年、2004〜06年)を手がけられました。海外の人には日本の伝統的な芝居小屋というと、東京・東銀座にある歌舞伎座の表玄関を連想する人が多いと思います。第2次世界大戦末期の東京大空襲で焼け落ちた歌舞伎座を、昭和26(1951)年に鉄筋コンクリートの建築物として再建したものです。歌舞伎座は建て替えのため、4月30日をもって閉場するので、残念ながらこの記事がウェブにアップされる頃にはもう見ることができなくなっています。
芝居小屋の修復については、後ほど詳しくうかがいますので、まずは日本の芝居小屋の成り立ちについてお話いただけますか。演劇を見る場所や興行物をさす日本語の「芝居」という言葉は、社寺の境内で行う舞を芝生に座って見たことが語源だといわれます。つまり日本の伝統的な劇場の歩みは、露天で見るところから始まったわけですね。
 そうですね。まず舞台の上に屋根が掛かり、それから客席周囲の見物料の高い桟敷席に屋根が出来、最後に中央の土間を覆う大屋根が出来ました。ただし、初めのうちの大屋根は丸太や竹の骨組みに、ワラを編んだムシロを掛けた仮小屋でした。ムシロは隙間だらけで雨水を通すように思いますが、水はワラの茎を伝って軒先に流れるのでけっこう雨除けになるんですよ。雨天興行をするようになっても、初めはムシロの代わりに木材を薄く割ったこけら板で屋根を覆った「こけら葺き」でした。元禄年間(1688〜1704年)の芝居小屋は毎年柱を建て替えていたようです。ということはつまり、掘っ立て柱の仮掛けの小屋ということです。それが、瓦屋根の本建築になるのが享保年間です。僕は享保9(1724)年だと考えています。
さまざまな仮説はありますが、本建築の芝居小屋が、いつ頃どのように成立したか、はっきりとは判っていません。
 僕は江戸の名町奉行・大岡越前守忠相が、「防火対策」のために本建築にした、というか結果的に本建築にさせてしまったと考えています。当時の消防は破壊消防で、火消しが家を壊して延焼を食い止めていました。瓦屋根だと、瓦が火消しの上に落ちてきて危ないため、江戸の町は瓦屋根が基本的に禁止されていました。しかし、大岡越前守は江戸の都市防火に熱心で、町火消しを組織化する一方、燃えにくい瓦葺き屋根にすることを奨励したんです。
当初、劇場は、「蛎殻屋根にせよ」と言われました。これは簡易防火屋根で、こけらを葺いた上に泥を塗り、それだけでは雨が降ると流れてしまうので、泥の上に貝殻を敷き並べたものです。芝居小屋は屋根が大きいから簡略な蛎殻屋根で良いと。
その時に、江戸三座、これは幕府公認の興行許可を得ていた3つの大きな歌舞伎劇場ですが、その座元(興行責任者)が蛎殻屋根にすることと引き替えに、当時禁止されていた2階建て桟敷席の設置許可を願い出るんです。すると、大岡越前守からいっそ瓦屋根にしてはどうかと切り返されます。重い瓦屋根にするには、柱など下からしっかり建物を造らなければならないので建設費が高くなり座元には負担です。そこで彼らは、建物をしっかり造ると桟敷は自然に2階建ての形になってしまいます。そこを使わせてもらえるなら、その収入を瓦屋根に充てますと主張して、ついにお上の許しを得ました。瓦屋根を強要されたことを逆手にとって、座元は収入アップのために桟敷の増設許可を取り付けた。一方の大岡越前守は幕府の金を一文も使わずに被災しやすい芝居小屋を防火屋根にすることが出来た。それで、一気に劇場が本建築に移行したのではないか…。ということで、「劇場建築」というものが日本に発生したのは大岡越前守が防火対策を芝居小屋にまで拡大した享保9年だったと、僕は考えています。
本建築になることによって、花道や回り舞台といった歌舞伎劇場独特の舞台機構が発達してくるわけですね。
 毎年造り替えなきゃいけないような仮小屋で、立派な舞台機構が出来るわけがありません。急激に舞台機構が発達するのは、18世紀後半の宝暦年間(1751〜1764年)頃からといわれています。その理由は色々あるようですが、僕は本格的な屋根が掛かり、雨が全く漏れなくなったことも大きな影響を与えたのではないかと推察しています。これについてはまだ誰もきちんと論考していないので、いずれまとめて発表したいと思っています。
ただ、結局、歌舞伎劇場は生まれ育ちが仮掛けの小屋だし、庶民が芝居を楽しんでいた小屋なので、西洋のバロック劇場のようなお城の中に舞台を造るという堂々たる建築ではなく、本建築になってもどこか仮掛けっぽい安普請なところがあります。その仮掛けの伝統が、明治時代の文明開化によって立派な建物に変わるわけです。
文明開化が歌舞伎にも影響して、9代目市川團十郎らが荒唐無稽な歌舞伎の筋立てを見直し、史実を尊重した歴史劇をつくったり、座元の12世守田勘弥が明治11年(1878年)に洋風建築の劇場を建てたりしました。
 歌舞伎座も明治22(1889)年に建てられた初期の建物の外観は洋風でした。ところが、明治44(1911)年に帝国劇場が開場して本格的な西洋劇場が出来てくると、同じことをやっていては駄目なので対抗して和風に改築した。その時に桃山風が始まるわけです。桃山風といっても桃山時代(16世紀後半)の様式でも何でもなくて、まさに江戸式で社寺建築まがいですが、桃山芸術のように華やかだというので、桃山風と称したようです。その代表的建築が4月末で閉場して取り壊される現在の歌舞伎座です。
和風に回帰するときに、日本の建築の中で一番立派な社寺建築に倣ったということですか。
 当時は社寺建築の設計で内務省に非常に優れた部門がありました。国家神道の下で、神社を建て直す時に内務省が設計の面倒も見た。日本の建築史1500年のエッセンスをギュッとまとめて史上最高の社寺建築を造ろうとした部門です。一方で、文化財をあるがままに保存・継承しようとしたのが文部省です。文部省の立場から見ると、内務省は実存したことのない建物を造ろうとしているということになり、内務省の設計部門から見ると文化財の人間はデザイン能力がない、アーティストじゃない(笑)ということになる。内務省は第2次大戦後解体されたのですが、今でも社寺建築を専門にする設計事務所には内務省系の技術が生きています。
内務省系の設計で代表的な建物は何ですか。
 東京・原宿の明治神宮などです。おおざっぱにいうと、建物の輪郭は力強く生き生きとしていた中世のシルエット、彫刻は華やかな桃山時代、それに飛鳥時代(592〜710年)などの優れた細部を組み込んで、さらに大きなデザインとしてギリシャ・ローマの意匠も取り込んでいます。歌舞伎座は木造を模した鉄筋コンクリート造建築としては最高傑作のひとつで、僕は内務省系デザインの代表作だと思っています。そういう意味で、文化財として残す価値があった。取り壊されるのはとても残念です。
歌舞伎座と八千代座はまさに、明治時代の二面性を反映していると思います。中央で政府が主導した建築と庶民の建築。帝国大学を出てレンガと石の立派な建築を造る建築家の世界と、木造建築を造る市井の大工の世界──この明治期に二極分化した文化の二重構造は今も続いています。大都会のシアターである歌舞伎座と、江戸時代の庶民の小屋の流れを引いている地方で造られた芝居小屋。歌舞伎座を惜しむというのは、そういう2つの流れの一方の雄を失うからです。ですが、歌舞伎座がなくなったから、日本の芝居小屋の代表格を失ったという見方は違います。江戸時代の古い劇場様式を残す芝居小屋を、各地の市民が一生懸命守ろうとしているからです。
その代表が、金丸座や八千代座ですね。古い様式を引き継いだ芝居小屋はどのくらい残っているでしょうか。
 最盛期には3,000あったといわれています。6,000以上あったという研究もあります。現在残っているのは廃屋同然のものも含めて30ぐらいですから、日本人は実に99%を失ったんですよ。
その30棟の芝居小屋のうち国の重要文化財に指定されているのは5棟です。文化財の中で芝居小屋はどのような位置づけなのでしょうか。
 明治30(1898)年から政府による意識的な文化財の保存が始まりましたが、建築の分野に限れば、日本の建築の歴史を示す建物はやはり寺院建築です。次いで神社。ですから、第2次世界大戦前に国の文化財に指定されたものはお寺とお宮が圧倒的多数で、民家はわずか2件、もちろん劇場建築はありません。当時の「文化財」に指定される要件は歴史の証人であり、技術の先生であり、美術の手本であり、美しく優れたものでした。民家は実用品ですから、文化財の範疇とは考えられていなかったのです。しかし、戦後、文化財の範囲が徐々に広がっていきます。特に高度成長期、1960〜70年代に日本中で開発が進み、伝統的な民家が無くなっていく状況に直面して、文化財の範囲が民家にまで広がりました。
金丸座が国の重要文化財に指定されたのは1970年です。かなり遅いですね。
 建築史学ではなく芸能史の研究者の間では、金丸座の存在は知られていました。間違いなく、日本で唯一現存する江戸時代に造られた芝居小屋だと。しかし、芝居小屋は安普請の建物だったため旧来の文化財の対象とは考えられなかったのです。金丸座に20年以上遅れて熊本県山鹿市の八千代座が重要文化財になりました。その解体修理を担当することになった時、文建協の理事長は太田博太郎先生でした。太田先生は日本の建築史学の世界では神様のような人ですが、その太田先生に八千代座修理の要点をお聞きしたところ、欠陥品だからやりにくいぞという趣旨の話をされました。木造の芝居小屋は構造的に弱い。現代的な計算をすると、どうしても客席部分が持たない。それで欠陥があると言われたわけです。
正面は立派な造りでも、裏に回れば掘っ立て小屋同然。少ない投資で利益を得ようという興行主の知恵の塊ですが、技術の先生、建築の手本という昔の文化財の基準からは外れそうですね。
 そこが仮掛け小屋の伝統です。芝居小屋は最小限の投資で最大限の利益を上げるための夢を売る場所ですから、お客様に見える所だけ立派に出来ていれば、見えない所は安普請でいい。神仏に願をかけて神社仏閣を建てる宮大工の仕事と対極にある建物なわけです。


八千代座の解体修理

数ある建物の中で賀古さんが最も魅力を感じるのは禅宗寺院だそうですが、その賀古さんが八千代座の修復を通して「欠陥建築」の魅力を発見し、以来、各地の芝居小屋の調査・修復を支援されるようになります。八千代座はどのような芝居小屋ですか。
 正面が2階建てで瓦屋根、大屋根の妻には客寄せの太鼓を打つ太鼓櫓がのっています。入り口の上には絵看板がずらずらと飾ってある。入り口の左右には下足預かりがあって、下足を預けて小屋に入ると、枡で仕切った畳敷きの平土間があり、その周りはバルコニーのように一段高くなった桟敷席で、ぐるりと提灯が下がっている。舞台の間口は7間(13.4メートル)。椅子席ではなく土間に座って見るから、舞台と床の落差は小さく、観客の目は舞台面より上にあるから役者の足元がよく見えます。そして、花道や回り舞台といった劇場機構があります。江戸時代の金丸座も基本構成は同じですが、八千代座は明治43年建造の小屋なのでずいぶん西洋臭くなっていて、プロセニアムアーチがあるし、ガス灯のシャンデリアが下がっています。回り舞台を回す車輪はドイツ製でした。
そういう芝居小屋の修復はどのように行うものですか。
 日本は木造建築の修復については世界のトップクラスの技術を持っています。八千代座でやったことは、神社仏閣、民家、城などの文化財の修復の手法と全く同じです。まず、現状を測って図面を描き、建物の傷み具合を調べます。柱はどっちに傾いているか、床はどの辺りが沈んでいるか、調べていくと、建物の弱点が分かってきます。それから、建てた時とは逆の順番で少しずつ分解していきながら、1個1個の材料をよく調べます。古い建物は長い間に何度も改築されますから、建築当初の姿のままで残っている文化財はありません。しかし、建築も芸術作品ですから、基本的には生まれた時のオリジナルの価値が一番高いと考えます。
八千代座も何度か改装されていましたが、創建当時の明治の姿に戻すことを目指したのですか。
 八千代座は明治の木造大建築の劇場として重要文化財になっていますから、改造を加えられた平成の姿を見学者に見せても、明治の劇場文化を肌で感じてもらうことは出来ません。修理なので、直すことが最大の目的ですが、それと同じくらい本来の姿に復原することも大きな目的なのです。
復原するためには学術的な調査・研究が必要です。昔の姿の図面が残っていることはまずあり得ませんから、部材に残っている改築の痕跡を基に調べていきます。例えば、今は窓になっているが、窓の所の柱を見ると壁を塗った跡があるので最初は壁で、後からぶち抜いて窓にした。本来の姿にするには壁に復さなければならない、といった具合です。ところが、もしもその柱が途中で取り替えられたものだったら、柱の痕跡に沿った復原は間違いということになります。ですから、最初にやらなければならないことはすべての部材の年代判定で、解体しながらそうしたさまざまな調査を行います。昭和50(1975)年に完成した金丸座の移築改修では、復原個所が建物全体で約130カ所ありました。八千代座もほぼ同じです。
古い部材の年代判定は難しいのではありませんか。
 100年前の柱と10年前のものは一目で分かりますが、100年前と90年前は見ただけじゃ分からない。色々な判別方法がありますが、最も正確で客観的に判定できるのが釘穴の数です。桁に垂木を取り付けるときに、最初に大工さんは釘を1本打って留める。それが雨漏りで下の太い桁は腐らなかったが垂木が腐った。修理に来た大工さんは錆びた釘を抜いて腐った垂木を捨て、新しい垂木を釘で打ち付ける。その時、さっき抜いた釘穴からちょっとずらして新しい釘を打つ。解体してほこりを払うと、取り替えられた2代目の垂木には釘穴は1つしかないけど、桁には2つの釘穴がある。部材に時代差があるということです。両方とも釘穴が1つしかなければ、建設当初の部材がそのまま生きていたことになりますが、中にはすべての部材に2つずつ釘穴がある場合がある。これは解体移築か解体修理された痕跡です。3つずつあれば2回解体されている。
1本の柱にはいくつもの釘穴があると思いますが、建物全体の釘穴を数えるわけですか。八千代座ではいくつあったのでしょうか。
 すべての解体が終わるまでにすべての釘穴にチョークで印をつけていきます。生きている釘穴は青、痕跡で見つけたのは白といった具合に。八千代座では解体が終わるまでに約50万個にマーキングしました。半年かかりました。
釘穴ばかりでなく、瓦も柱も部材すべてに番号をつけて、状態をチェックし、再び使えるかどうか判断していくわけですから、とても根気のいる仕事ですね。
 そうですね、飽きっぽい人間にはできません。単純な作業ですが、傷つけないように作業しなければならないので、大変神経を使います。腕の良い大工さんは早くきれいに建物を建てる修業をしているわけで、じっくり調査をしながら解体する訓練は受けていませんから作業が始まって1カ月もすると、現場がみんな無口になっちゃう。適当に息抜きの飲み会をしたり、みんなのお陰で今日外した部材からこんなことが分かったと成果を伝えたりして士気を保ちます。
八千代座の部材は全部で1万点以上ありました。釘穴のチェックと並行して痕跡探しをします。八千代座の柱は大半が明治の創建当時(1910年)のもので、約1割が大正12(1924)年に増築した時のものでした。昭和、平成の柱は2、3%しかなかった。
明治の柱に、現在取り付いている物以外の痕跡がないか見ていくと結構あるんです。何重にも痕跡が錯綜しているものすらありました。その痕跡から創建時のものを探っていきます。ノミの切れの良い仕口(組み手)の跡が最初のものです。最初だけは判別出来ますが、2次と3次の改築時についた仕口の痕跡はどちらが古いか仕口自体からは判断出来ない。これは周囲を見て建物全体の間取りから判断していきます。痕跡を細かく見るミクロの目と、全体を見るマクロの目、両方を絡み合わせながら、延々と作業を繰り返し、調べていくと、段々と建物の姿が見えてきます。
建物から読み取る作業と並行して、資料や人々の記憶を探る聞き取り調査も行うのですか。
 地元から資料を提供してもらえる現場は幸せです。八千代座の場合は運の良いことに創建時の写真が1枚残っていましたし、郷土史家など先人が八千代座文書を読み解いていましたから助かりました。
痕跡調査が終わると、建物の履歴書が出来るわけです。この履歴書を基にどの段階に戻すか協議が始まります。オリジナルに戻すことが基本ですが、この建物が一番光輝いていた時期はいつか、個々の建物の話だけではなく、日本の歴史の中での位置づけも考えます。痕跡調査と文献調査から、八千代座は平成8(1996)年までの90年間に細かく分けると19回姿が変わったことが判りました。
大きく分けると4期です。江戸時代の小屋によく似ている明治の創建当時、大正12年の改造が第2期。これは防火のための法律で、フロアごとに収容人員に応じた喫煙室を設けなければならなくなったための改造です。この時、2階の左右に出っ張った喫煙室が造られて、山形の千鳥破風という屋根が乗った。真ん中の大きな三角屋根と左右の屋根、3つの屋根の山が重なり、うんと華やかになった。その頃が芝居小屋の全盛期ですから、八千代座は大正の姿に戻すことにしました。
復原は歴史を振り返る作業ですが、同時に未来に向けた仕事です。賀古さんは何年ぐらい先を見て仕事をなさっていますか。
 最低100年。寺院のように太い柱の建物は200年に1回、住宅や芝居小屋のような柱が細いものは100年に1度くらいの割合で大修理が回ってきます。だから、次回の修理までもたせることが最低限の義務です。修復する時はベストを尽くしますが人は必ず間違いを犯します。将来、学問が進歩したら、平成の大修理の判断は間違っていたと分かることが幾つもあるはずです。ですから、将来のために「今回はこう判断して復原しました」というものを残しておきます。取り替えた部材は見えない場所に「平成○年度修補」という焼き印を押しておくんです。シロアリに食われて使い物にならない部材でも、大事な痕跡のある場合は防腐剤を塗って次の修理の時に再調査が出来るように保存しておきます。他所に移すとなくなるので、屋根裏にしまっておきます。
調査の過程、分かったことを記録するのも大事な仕事ですが、僕らはデジタルカメラを使いません。100年耐えるCDがありませんから。ハードディスクに入れておいてもOSが変われば開けなくなってしまう。原始的な保存方法が最も有効ですね。幕末に撮ったガラス乾板の写真は今も鮮明に写っていますし、和紙に墨で書いて桐箱に入れておけば1,000年は保てます。
八千代座では、床板の傷んだ部分を除いてはめ込んだ新しい部材が、ほんの少し出っ張っていました。何年か後には木が収縮して平らになると聞きました。漆の色や壁の漆喰も修復が終わったその時が完成形ではなく、将来の変化を読んで修復するのですね。
 そうした意味で何年後をめどに修復を終えるかというと、5〜10年後ですね。八千代座の高欄はきれいな赤の漆ですが、漆は空気中の酸素と結合して段々鮮やかになっていきます。初めから鮮やかな赤にしておくと5、6年後にはけばけばしい色になってしまう。床板も1枚だけ新しい木に取り替えると、くすんだ中でその部分だけ真っ白で目立ってしまいます。この場合は古色塗りといって、周囲の色となじむように色をつけます。90年間人々が歩いて磨き込んだ板となじむ色にするにはどうするか。現代の塗料は劣化しますから、結局、薄墨を擦り込んで少し灰色にしてから柿渋を塗るだけにしました。10年も使い続ければ、人の足の脂がしみこんで周囲と変わらなくなるだろうと思います。
八千代座で歩き回り、足の脂を染み込ませると、建物を育てることになる。心が躍りますね。100年生きてきた建物の成長に参加できるのは。
 そう、僕は客と役者を利用して色をつくっているんです(笑)。建物は成長します。コンクリートや鉄は一直線に劣化していくだけですが、木は育ちます。
修復工事は大建築に、すっぽりと「素屋根」と呼ぶ大きな屋根を掛けて行われました。八千代座は温泉町・山鹿市の観光スポットでしたから、色々地元から注文がついたのではありませんか。
 博物館の展示品のようにしてもらっては困る、興行を続けられる芝居小屋にしてほしいと強く要請されました。金丸座の修復が行われた1970年代初めには、重要文化財の芝居小屋を使う、ましてや客を入れて歌舞伎の興行をするという発想はありませんでした。ですから客席部分に4本の鉄柱を立てて耐震性を強化しました。ところが、歌舞伎俳優の中村吉右衛門さんや沢村藤十郎さんが「ここで芝居をやりたい」と言い出して、1985年に「こんぴら歌舞伎」を3日間やった。
大変な人気で年々興行日数も増えていきました。「こんぴら歌舞伎」の成功が、各地で廃屋同然になっていた芝居小屋の復活に大きな影響を与えました。保存・再生を目指す市民運動が次々に起こりました。
 文化財保護の考え方も、保存と並んで活用を重視する方向へと徐々に転換していきました。八千代座では添え柱などの補強材や、壁や床の強度を上げる耐震補強をして安全性を高めました。それだけでなく、芝居小屋には現代的な照明設備や音響整備が全くありませんから、床下や屋根裏にケーブルを見えないように引き込んで現代の興行ができるよう補いました。火災報知器や誘導灯も付けました。
僕は活用には「便利に楽しく」という面と、「安全」という2つの側面があると思います。安全は確保しなければなりませんが、便利にするとはいっても、たとえ今の感覚では不便でも、昔風の使い方、舞台に立つ人も見る人も、昔の人のような使い方に肌で触れることによって、古い時代の楽しさを味わってもらうということが重要だと思いますし、それが芝居小屋の楽しみだと思います。修理をしている時は年配の方が懐かしがって平土間の枡席に座り、若者は椅子席を好むだろうと思っていましたが、オープンしてみると枡席に喜んで座るのは若い人です。現代人には古い方が面白味があるのです。
八千代座の修復では工事の現場を公開しました。これも文化財の活用と言えますね。
 山鹿は観光地ですから、工事を始めた途端、町のシンボルの八千代座を3年も閉じると客が離れる、工期を短縮してくれと言われました。大きな建物ですから延びることはあっても、早く終わることはない。文化財の修復は時間と金が掛かるということをなかなか理解してもらえない。それで山鹿市文化課の皆さんと作戦を練りました。修復工事そのものを見せ物にしちゃえと、工事中に観光客は減らしませんとぶち上げました。素屋根の中に展望ステージを造って、市民見学会を年に8回、完成までに35回やりました。毎回半徹夜でレジュメを作って見学会で説明しましたが、延べ数千人が専門的な話を聞いてくれました。
展望ステージには毎日多くの見学者が訪れて、稼働していたのは4年弱でしたが、その間の平均的な観光客数は工事開始前と変わりませんでした。工事を見た人は「出来上がったら必ず来ます」と帰っていくんですね。事実リピーターがとても多かったようです。
国の重要文化財以外にも各地で芝居小屋の保存、活用運動が続いています。
 建物として八千代座や金丸座のようなAクラスの小屋はもうないでしょうね。石川県七尾のでか小屋はファサードがなくなって倉庫同然の外観ですが、地元には一生懸命保存運動をしている人々がいます。旅館として使われていた石川県小松市の粟津演舞場を取り壊し寸前の状態から救ったのは、何とか守りたいという個人の熱意です。
芝居小屋の保存運動は要するに町づくりです。だから主体は市民。よそ者の僕は旗を振る人の理論的支柱になれればと思ってやっています。ボロボロの姿から華やかな小屋を予想できるのは、専門的な訓練を受けた僕らしかいない。痕跡から復原したらこんなに立派だとイラストを描くことができる。たったひとつの芝居小屋が町づくりを引っ張ることも出来るのです。
賀古さんをのめり込ませた芝居小屋の魅力とは何ですか。
 芝居小屋を取り巻く人の魅力というのが大きいですね。町の歴史を語る場所を守りたいという熱意に巻き込まれたかな。
それと、芝居を見る場所としての魅力。芝居小屋は舞台と観客が近いので役者さんの気が伝わって来ます。舞台から見ると、客と客が重なり合っていて、ここでは役者と客の魂が溶け合うと思うのです。
金丸座の耐震補強のために付けた4本の鉄柱をはずす修理を依頼された時に、思わぬ発見をしました。どうしたら鉄柱なしで屋根を支えられるかの調査の過程で改めて屋根裏を調べたんです。そうしたら、舞台上に残っていた葡萄棚が実は客席の上までずーっと広がっていることが分かった。裏方がお客さんの頭の上まで歩いていける構造になっていて、客席全体に桜吹雪や雪を降らせることが出来ていたんです。葡萄棚は竹をワラ縄で組んだ簀の子ですから蹴飛ばせば広がるので、上にろくろのウインチを用意しておけば、客席に入り込んだ役者を垂らした綱で引き揚げることも出来る。つまり、江戸の小屋は役者と客が渾然一体になれる空間だったんです。金丸座ではその葡萄棚を復原し、屋根裏の鉄骨補強を葡萄棚で隠して本来の姿(江戸時代の内装)に戻すことができました。そういう芝居小屋で一度でも芝居を見たら、大劇場で見る芝居とは全く違う「演劇」を感じるはずです。
公益財団法人文化財建造物保存技術協会(文建協)
1971年設立。76年には「建造物修理」と「建造物木工」の分野で選定保存技術保存団体に認定される。国宝・重要文化財の建造物の修復のほか、歴史的建造物の調査、文化財の構造物耐震診断、保存管理活用計画の策定、技術者の養成などを行っているほか、ジャワ中部地震による世界遺産プランバナン修復計画など国際的な技術協力も行っている。2010年4月現在技術職員は97人。修復作業を通して、地元の建設会社や工務店に文化財の修復技術を伝えている。
https://www.bunkenkyo.or.jp/

芝居小屋
演劇などの興行を行うために建てられた古い形式をもつ日本の劇場。江戸時代の機構を残す現存最古の芝居小屋といわれているのが、天保6年(1835年)に建設された香川県琴平町にある国の重要文化財「旧金毘羅大芝居(通称:金丸座)」。「枡席」(板の間にゴザを敷いた平戸間を木組みで碁盤に仕切ったもの)、「高土間」(平土間の周囲を囲むように設けられた一段高い席)、高級な2階席の「桟敷席」などの客席構造をもつ。また、客席後ろから舞台に延びる「花道」や、舞台上から客席までを覆う葡萄棚(竹で組んだ簀の子。葡萄棚の上を裏方が動いて隙間から紙でつくった花びらなどを降らせる)、回り舞台などの劇場機構をもつのも特徴。こうした江戸時代の木造芝居小屋の造りは明治時代以降も踏襲され、各地に芝居小屋が建てられた。

これらの小屋は歌舞伎の上演だけを目的とした劇場ではなく、音楽会や政党の演説会なども行われる総合文化会館だった。だが、第2次世界大戦を境に日本人の生活様式や娯楽の嗜好が大きく変わったのに伴い、芝居小屋の経営は次第に行き詰まっていく。話芸や音曲、芝居は人気を失い、多くの芝居小屋は客席をベンチに変えて映画館に転用されるようになる。一時盛り返した活気もテレビの登場で凋落、閉館に追い込まれ、取り壊されたり、倉庫になったりして姿を消していった。

現存する芝居小屋は約30棟。1985年、旧金毘羅大芝居で人気歌舞伎俳優による「こんぴら歌舞伎」が開催されたのをきっかけに、市民による復興運動が始まり、再び芝居小屋で興行が行われるようになった。地元の商人たちが株券を発行し資金を集めて明治43年(1910年)に建設された熊本県山鹿市の八千代座、同年に鉱山労働者の娯楽施設として鉱山会社が建設した洋風の外観を持つ秋田県小坂町の康楽館は、国の重要文化財に指定されている。その他、大正5年(1916年)に地元有志によって建設された愛媛県内子町の内子座、昭和に入って復興された福岡県飯塚市の嘉穂劇場などが幾度かの復元作業を経て、現在も活用されている。芝居小屋のある町の行政や市民団体は「全国芝居小屋会議」を組織し、保存・活用を進めている。

旧金毘羅大芝居(金丸座)
(国指定重要文化財)

所在地:香川県仲多度郡琴平町乙1241
Photo: Kazumi Narabe

八千代座
(国指定重要文化財)

所在地:熊本県山鹿市山鹿1499
写真提供:八千代座

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