茂山千之丞

越境する狂言役者・茂山千之丞
日欧を融合したグローバル喜劇に挑戦

2009.06.24
茂山千之丞

茂山千之丞Sennojo Shigeyama

狂言役者、演出家。1923年、京都生まれ。故3世千作の次男。父、祖父故2世千作に師事。46年2世千之丞を襲名。48年、能楽以外の芸能とは交流しない能楽界のタブーを破り、他ジャンルの俳優とラジオドラマで共演。歌舞伎など日本の演劇界の革新を目指した演出家・武智鉄二を中心とする演劇運動に参加。歌舞伎、新劇、映画、テレビドラマに出演し、「狂言界の異端児」と呼ばれる。廃絶狂言の復活上演や新作狂言の演出、オペラや新劇の演出と多彩な活動を続けている。息子あきら、孫の童司も狂言役者。

85歳の狂言役者・茂山千之丞が国境を越えた喜劇の創造に取り組んでいる。イタリアのコメディア・デラルテの第一人者アレッサンドロ・マルケッティ、スイスの道化師(クラウン)ディミトリーの三人がジャンルを超えて共演する「3Gプロジェクト」だ。中世から代々伝承してきた「狂言」の技と、ヨーロッパで培われた風刺喜劇を融合し、21世紀のグローバルな喜劇を生み出そうという試みだ。6月にルーマニアのシビウ国際演劇祭で世界にお披露目し、共同作業が本格化した。保守的な古典芸能の世界に身を置きながら、若い頃にはベケットに取り組み、新作狂言やオペラを演出し、常に革新的な活動で芸域を広げてきた千之丞の新たな挑戦について聞いた。
聞き手:奈良部和美/協力:ミホプロジェクト
千之丞さんは専門分野の狂言を超えてさまざまな挑戦をされてきましたが、今度はイタリア、スイスの喜劇人と新しい芝居をつくるとお聞きました。
 きっかけをつくったのは、伜のあきら( )です。あきらが25年前に、1年間暇をもらいまして、ヨーロッパに行きました。スペインを拠点にして古いものから新しいものまで、色々な芝居を見て回った中で彼の興味を惹いたのが、イタリア北部を中心に演じられている狂言と同じような笑いの芝居、コメディア・デラルテでした。あきらはその芝居を何度も観て、演じる人たちとも知り合いになった。その時に、いつか彼らと一緒に芝居をしたいという夢が生まれ、その思いをずっと温めていたようです。交流も続いていました。何年か前には私もスイスにある彼らの劇場兼稽古場に行きまして、狂言の公演も何回かやりました。この時は、向こうの芝居、次に狂言と順にやっただけなので、ひとつのステップにはなりましたが、あきらの夢には遠いものでした。
それが今度初めてコラボレーション、一緒にやろうということになったわけです。接点を見つけて、というより接着していよいよひとつ芝居をつくろうと。この企画は「3Gプロジェクト」と名付けられています。3Gというのは「3人のグレート・パフォーマー」、コメディア・デラルテのアレッサンドロ・マルケッティさん、スイスの道化師出身のディミトリーさん、そして狂言の私ということらしいですが、そうではなくて本当は「3人のジジイ」という意味だと思います。私が85歳、あとは78歳と73歳、ジジイです。その3ジジイでひとつの芝居をやれるような方向付けをしたいと思っています。
といっても、我々は先が知れていますから(笑)、周りから早くやろうとせき立てられて、イタリアのヴェルバニアと3月には京都と東京で試演会をやりました。このときは、ディミトリーさんは参加できませんでしたが、コメディア・デラルテの『3つの煙草入れ』という芝居をあきらが狂言風に翻案し、あきらと私は古風な言い回しの狂言言葉(日本語)でやり、マルケッティさんと奥さんのルイゼッラさんはイタリア語でやりました。私が狂言言葉で言い寄ると、ルイゼッラさんがイタリア語ではねつける、といった具合です。
これから、3ジジイでひとつの舞台を3ステップ、5ステップと段々上げていく。それは決して古い芝居を復活するということではなく、伝統的な古い演劇の様式なり方法論をベースにした現代の芝居、あるいは未来の芝居を志向していくということです。マルケッティさんもディミトリーさんも、同じように考えていると思います。観客は現代人ですからね。色んな様式、現代の色んな舞台技術や知恵も取り入れながら、今の芝居をつくっていこうというのが、我々の考え方です。
今、「3Gプロジェクト」を立ち上げる意義は何でしょう。
 狂言というのは約550年の昔から伝承して、絶えることなくずっと演じられていますが、コメディア・デラルテは一時中絶したのを、マルケッティさんのおじいさんが資料を基に復活された。それを伝承してこられたのがマルケッティさんです。ディミトリーさんはサーカスの道化師の芸を中心にして新しい芸域を広げられ、今はもう世界的なアーティストになられています。それぞれ言葉は違いますし、歴史というか背景、社会が違いますから、その中から生まれてくる芝居は当然違ってきます。それでも芝居というのは、万国共通なんだと思います。
その上、昔と違って遠いところにも飛行機で飛んでいけるし、絶えず電波は飛び交っているし、新型インフルエンザも飛んでくるなど、世界はひとつになっています。こういう状況で、それぞれセクトをつくって芝居をやっていたのでは、その地域、その民族の中だけでしか演じられなくなって、先細りになる。もともと万国共通なんだから、これからはコラボレーションなどでもっと新しい芝居ができていく時代になっていくんじゃないでしょうか。私たちがやれる間にできるだけそういう試みを広げておきたいと思いました。
そう考えると、喜劇(コメディー)はコラボにふさわしい。どこでも割合筋が簡単ですし、登場人物も少ない。しかもキャラクターが非常にはっきりしている。描かれているのは、男と女、あるいは主人と召使いの世界です。例えば狂言の場合ですと、主人の「大名」と召使いの「太郎冠者」です。主人は召使いに仕事をさせたい。使われるほうは怠けたい。これはもう狂言もイタリアの喜劇も同じです。男女の仲では、亭主はぐうたらで、酒飲みで、スケベ。向こうの旦那も全部そうです。女房はその反対で口八丁手八丁、狂言でいうところの「わわしい女」です。亭主の尻を叩いて働かせようとする。そういう夫婦関係、男女関係は洋の東西、昔も今も全く一緒だと思います。
しかも、上つ方ではなく、いわゆる庶民の世界を描くのが洋の東西を問わず共通の喜劇の世界です。そこにはあまり偉い人は出てきませんし、悪いヤツも出てこない。みんな善良なんです。でも決して馬鹿ではない。道化というのは、人間の弱点を増幅した人の役ですけども、馬鹿じゃないですからね。狂言に出てくる大名は馬鹿もののように扱われやすいですが、その実像は実力でのし上がった常識のある政治家です。けれども人間というのはどこかに弱点がある。例えば、ものを知らないとか。そういうところを増幅して喜劇につくり上げるわけです。そういう芝居は狂言にもコメディア・デラルテにもたくさんあります。
今は情報化社会ですから、お互い知り合うことも楽になっていますし、昔に比べてひとつのものを一緒につくりやすくなっていると思います。
国の違い、言葉の違いを超えて、「一緒にやれる」という確信が強くなっている?
 はい、その気持ちは上演の度に強くなっています。
私はもちろん、あきらもイタリア語は全然わからない。向こうの方も日本語は100パーセントわからない。しかも舞台ではアドリブが入るわけです。それでも、こちらの言葉が終わった時に、ちゃんと相手の言葉が返ってくるんです。というのも、「言葉」は本来、「意味」を伝えるものではなく、「意思」を伝えるものだからです。たとえ意味がわからなくても、意思は伝わる。もっと言うと宗教とか哲学は伝わる。だから一緒にやれるのだと思います。
ところが、最近の日本人はどうも言葉ではなくて、文字を見ないと信じられない、文字に頼り過ぎているように感じます。
それは、言葉による「意思の伝達」のではなく、文字による「意味の伝達」に頼り過ぎているという意味ですか?
 ええ。最近は、言葉も平板になっていますから、意味の伝達という傾向が強くなっていると思います。
例えば、「私はあなたを愛します」「アイ・ラブ・ユー」という言葉は、3つの文節から出来ていて、この3つのどこを強めて言うかによって言ってる人の気持ち(意思)が変わってきますね。「“私は”あなたを愛します」と言うと、「あなたは私を愛しているかどうか知らないけど、私はあなたが好きなんだ」となるし。「私は“あなたを”愛します」だと、「何人かいらっしゃる中であなたを愛してる」となるわけです。1人しかいないときは、「愛しています」とだけ言えばいいんだから「私」も「あなた」もいらない。「私はあなたを愛します」という単純な言葉でも、どこを強く言うかで伝えたい気持ち(意思)が変わってくる。
でも、平板な言葉というのは、全部を同じように言うので、「私はあなたを愛します」って意味はわかるけど、どういうふうに愛しているかはわからない。相手に気持ちは伝わらないですね。
千之丞さんの意思を伝える言葉の技術は、狂言の伝承の中で培われてきたものでしょうか。
 狂言やコメディア・デラルテは全部口移しで、師匠から弟子に伝達されてきました。師匠が「これはこの辺りに住まいいたす者でござる」と言うと、そのとおり真似る。音だけで字は介在しない。それも、狂言だと右脳を使わない子どものうちから稽古をします。私は初舞台の記憶がないのですが、2歳と8カ月で舞台を踏んでいて、稽古を始めたのはおそらく2歳になるかならないかでしょう。
私の場合はじいさんが師匠でしたが、その向かいに座らされて、真ん中にお菓子か何か置いてあって、ちゃんと終わると食べられる(笑)。猿回しが猿を調教するのと全く同じやり方です。そうすると、割に早く覚えるんです。身体の動きも、師匠のやる通りに真似るまでやらされる。そういう型が先に出来上がって、台詞がちゃんと言えるようになってから初めて内容が入ってくるわけです。
これは歌舞伎も日本舞踊も、日本の古典芸能は全部そうです。ヨーロッパも方法論は違うかもしれませんけど、伝承芸は同じような形で継承されてきたと思います。その点でも共通項があり、イタリア語と日本語でやっていても音で伝わるわけです。それに役者というのは言葉に対してすごく敏感ですからね。特にリズムや間(ま)には敏感です。3Gをやっていても、その間はよくわかります。なぜかというと、言葉の終わりというのには一種独特の言い方があって、それで間をつくる。つまり、終わる言い方があるんです。これはもう日本であろうがどこであろうが、世界共通だと思います。一種の言葉の魔術ですね。こうした文字にとらわれない言葉が役者の口から出てくることが、上手い役者、良い芝居の第一の条件だと思います。
芝居によって「意思を伝える言葉の力」を伝えたい、3Gプロジェクトにはそういうお気持ちも込められているのですね。
 それはあります。日本人はもっと生の芝居を観ないといけない。僕らは「狂言の出前」と称して、学校へ出掛けて行って体育館や講堂で狂言をやってきましたが、それが最近、どんどん減ってきた。今から30、40年前は月に10校くらい回っていました。今は孫の世代が回っていますが、減っています。減っている理由は少子化の問題がもちろんあります。それから経済的な問題もあると思いますが、子どもたちに狂言とか能、生の音楽を聴かせようと学校が企画すると、保護者から文句が出てくる。そんな時間があるんだったら受験勉強させてくれ、時間の無駄遣いだと、お母さん方がおっしゃるそうです。しかし、言葉の魅力、言葉の本来の機能というものを知るためにも、生の芝居をもっと観てほしいと思います。
学校狂言のお話が出ましたが、茂山家は狂言の普及活動に大変熱心に取り組んでこられました。
 狂言は中世の頃は、今のテレビドラマと一緒で毎日毎日新しいものがつくられていて、色んな怪しげな歌が入ったりした現代劇だったわけです。ところが、江戸時代になると能や狂言は式楽という名前が付けられて、武家社会のセレモニーの中だけでやるようになりました。だから、能舞台以外、能と一緒にやる舞台以外の狂言はまずなかった。大衆が喜ぶ現代劇は歌舞伎が取って代わったわけです。明治以後になっても、江戸時代以来の格式を守るという考えは連綿と続き、それを破ると品位が落ちると言われたわけです。
ウチのじいさんの時代は、狂言役者が歌舞伎を観に行くこともできなかった。あんな品の悪い芝居を観ると、狂言の品位が落ちるというわけです。親父は子どもの頃、変装して歌舞伎を観に行ったそうです。そういう時代、つまり能と一緒じゃないと狂言をやらなかった時代に、私の祖父はどういう所へも狂言をしに行きました。祖父はいわゆるハイカラさんで、洋服も好きで、京都の能、狂言の役者の中で最初に牛肉を食べたような人でした。古いしきたりにとらわれず。呼ばれれば園遊会の余興でも狂言をやりましたので、快からず思った連中は、「茂山の狂言は豆腐みたいな狂言ですな」と悪口を言った。
茂山家のキャッチフレーズ、家訓になっている「お豆腐狂言」というのは、そもそもは悪口だったのですね。
 そう、悪口だった。「おかずに困ったら冷や奴か湯豆腐にでもしとこか」というのがあるでしょ? それで、「余興に困ったら茂山んとこに狂言やってもろうたらええ、あれは豆腐みたいな狂言や」と言い出したんですわ。
ウチのじいさんは、ひねくれていたのかシッカリしていたのか、腹があったんでしょう。「いや、ウチの狂言は豆腐で結構」。お豆腐というのは、冷や奴のように家庭の総菜にもなるし、会席料理にもなる。非常に栄養がある。味付け次第で色んな美味しい料理が出来る。そして、誰もが好きだ。そういう狂言がウチの狂言だと言い出したんです。言っているうちに段々と家訓みたいになってきまして、「お豆腐主義」と言われるようになりました。
3Gの企画も、根は、狂言は格式張ったもんじゃないという祖父の「お豆腐」にあります。狂言は芸術だという人がいますが、私は芸術という言葉が一番嫌いです。人が芸術だと言ってくれるのはいいですよ。しかし、自分で芸術と言うような下手な芝居を私はやってない(笑)。私はいまだに下手ですけど、芸術という肩書を付けないと人に見せられないような芝居だったらやめとけ、と思っています。狂言から芸術という肩書をのけたものが「お豆腐」です。
千之丞さんがさまざまなことに取り組まれるのは、「お豆腐主義」の発展形というわけですね。
 そういう家に生まれて、そういう狂言をやってきたからこういうことになったのでしょうね。自分の意思だけではチャンスはやって来ないです。能や狂言の人は他の分野とあまり交流しないことが知れ渡っていますから、色々お話が来るのは、茂山の家だったら何か一緒にやってくれるんじゃないか、と思われているからでしょう。7月には、指揮者の井上道義さんから請われて、プッチーニのオペラ『トゥーランドット』を演出します。私はオペラのことはよくわからないし、小学校の時に唱歌を習ったぐらいで五線譜も読めない。その狂言役者である私がオペラの演出をするというので、友達が「それこそ狂言だ」って笑ってましたよ。
しかし、実は日本の古典芸能とオペラは共通点がいっぱいあるんです。例えば、オペラではアリアのように重要な歌は必ず客席を向いて歌うでしょ。それが終わると拍手をしますよね。リアルな芝居でそんな馬鹿なことはないですよね。でも狂言もお客に向いて喋るし、歌舞伎もそうでしょ。オペラと共通なんです。それにご都合主義なところも同じ。芝居の進行をやりやすいように、どんどん設定を変えていくでしょ。それにお客はついてくるわけです。
そして、ものすごく不条理です。『附子』とか『棒縛』って狂言の代表的な曲がありますが、悪さをした太郎冠者と次郎冠者が主人から逃げる。主人は「やるまいぞ、やるまいぞ」と追っかけて幕内に入る。そして舞台が空になる。学校で演じると、子どもたちから質問されるんです。「おっちゃん、あれ後で2人は捕まったんか?」。答えに困るんですよね(笑)。台本に書いてないし、師匠からも習っていない。歌舞伎なんて結末がつかないまま、「まず今日はこれにて」で終わる。ベケットより不条理です。そういうところがオペラと日本の古典は似ている。
狂言、能のことは知っていますし、歌舞伎も好きで一緒に芝居づくりをしましたから友達も多い。「私の引き出し」と称しているんですけど、新劇の人たちの引き出しも、照明や音響の引き出しもあるから、「この場面はこの引き出しを引っ張り出してこうやったらいいな」と、彼らの知恵やアイデアから学ぶわけです。その引き出しをちょっと借りてきて、芝居づくりをするのが私の演出方法です。
『トゥーランドット』の演出で、どんなことが千之丞さんに期待されているのでしょうか。
 オペラって世界で一番金の掛かる芝居でしょ。ところが、今は支援してくれる企業も国もお金がない。そういう状況でオペラをやるとなると、無駄を省かざるを得ない。しかし、音楽と歌にお金をかけないと良いオペラは出来ないわけです。費用を削れるのは舞台装置とか、衣装、メイク、照明ですね。そういうものを削りに削った芝居が狂言なわけで、装置もなく、扇1本が盃にも戸にもノコギリにもなる。4人でちゃんと2時間ぐらいの狂言をやりますから、考えてみるとこんなエコな芝居はない(笑)。で、今度のオペラは舞台装置ナシのエコオペラなんです。
それでも80人ぐらいのオーケストラがいるのですが、小さなホールだとオケピットに入りきらない。それで、舞台に上がっちゃう。前に楽団が来ると歌手が見えなくなっちゃうから後ろの高い所で演奏するわけです。オケが舞台上にいるから奥行きが浅くなって緞帳も使えない。幕がないですから、登退場がお客に全部見える。こうなると、これはまさに能舞台のやり方でやらざるを得ないというわけです。
『トゥーランドット』は中国のお話になってますけど、それはヨーロッパから見た東洋のイメージです。私らから見たらどこの国かわからないですから、中国にこだわる必要はない。キャラクターを出す中国の京劇の隈取りみたいなメイクは、歌舞伎の隈取りを使えばいいし、衣装も歌舞伎のものでいい。オペラはコーラスが非常に重要なんですが、ヨーロッパの人というのは合理主義的なものの考え方をしますから、衛兵であるとか侍女であるとか、ひとりひとりに役を付ける。年齢はこれくらいだとかキャラクターも付けますね。そうすると衣装も全部変えなきゃならない。能で考えるとコーラスは地謡なんですが、地謡の衣装は全部紋付きです。だから今回のコーラスはグレーと白の貫頭衣でいいのではないかと思っています。ちょっと役柄のある人は、その上から何か羽織る。すると衛兵が侍女にもなれるわけです。成功するかどうかわかりませんが、しかしまあ、お客様にはわかりやすいんじゃないでしょうか。
次から次へと新しいことを考えられますね。2月にはお兄様の千作さんと、最初から最後まで舞台に座ったままの「素狂言」という新しい取り組みもされました。
 かなり冒険だったんですが、割合と評判がいい。私もこの頃膝がだいぶ悪くなって立ち居が難しくなってきた。兄貴がもう90ですからね、今ほとんど立ち居に介添えがいる状態です。でも頭はしっかりしていますし、若い時分に覚えた台詞は忘れません。狂言はやりたい。ではどうするか。そうだ、動かなきゃいいんだと思ってやってみた。うまくいったので、来年2月の千作・千之丞の会で第2弾をやります。
立ち居が難しくなると引退することを考えますが、千之丞さんは不自由を逆手に取って、次に何ができるだろうとお考えになる。
 そうそう、何ができるか探すわけです。好きなんです、そういうのが。これは性格ですね。
新作狂言に積極的に取り組んでいらっしゃるのもお好きだからですか。
 新作狂言はずいぶんやっています。自分でも1本だけ書いたことありますが、狂言を知りすぎている人が書くとつまんない。知りすぎていると、狂言の枠にとらわれすぎるんですね。従来の狂言の枠の中に、新しいテーマとかモチーフを持ち込んでしまうので、まずダメです。何千、何万の新作が昔あって、淘汰され淘汰されて何百年の間に残ったものが今の古典狂言なわけで、枠にとらわれていたらそれを飛び越すことができない。そういうことで、新作狂言というのは、1、2度の試演に終わって再々演してない。
例外的に成功しているのが2つありまして、1つは劇作家の飯沢匡さんが書いた『濯ぎ川』。フランスの話を基に劇団の文学座のために書かれた戯曲で、狂言のために書かれたものじゃないんです。それをお願いして、私ら役者が書き直してやった。古典狂言というのはほとんど役者がアドリブでつくっていますから、『濯ぎ川』は同じようなプロセスがあって成功したんだと思います。
もう1つは、劇作家の木下順二さんの『彦市ばなし』。これも全く狂言を意識しないで書かれた本です。ところが、例えば川の中へ彦市が飛び込むシーンなんかは、リアリズムを追求する新劇の人が舞台でやろうとすると非常に困るけど、狂言だったら難なくできます。泳ぐ動きをすれば、舞台はたちまち川の中ですから。これは狂言の技を持ち込むことで成功した新作ですね。
哲学者の梅原猛さんが書かれた狂言3部作は面白かったですし、話題にもなりました。実際に進行している干拓工事で海を追われる小さな生物を主人公にした第1作の『ムツゴロウ』は自然破壊という新鮮なテーマでした。
 梅原さんでないとアレは書けません。僕らの頭には出てこない。まして狂言を知っている学者先生には書けないですね。梅原さんは元々、笑いの哲学を研究していて、ベルグソンが卒論のテーマだったそうです。だから笑いについては非常に興味をもっておられたし、落語が大好きだって聞いていたので、国立能楽堂が企画した新作狂言に引っ張り出しました。ところが梅原さんの書かれた話はものすごく膨大なもので、これやったら5時間かかるなあってほど台本が厚かった。私がそれを、だいたい3分の1に削りました。
第2作の『クローン人間ナマシマ』は野球を題材にしたものでしたが、日本人が大好きな野球選手のクローン人間が舞台にあふれました。
 面白いかったですね。『ナマシマ』の時はボールの飛ぶ音をピューと笛でやった。私が演出する時に、囃子方に「ここで効果音を出してください」とだけ言ったら、「これは大鼓でやったほうがいい」とか、「太鼓でやりましょう」とか、みんなが言い出して、のりにのって、ピューです(笑)。囃子方が法被に鉢巻きを締めて演奏したんですから、昔だったら演出した私は狂言を辞めなきゃいけないとこですよ。
環境問題やクローン人間、戦争といった現代の難題に、笑いの衣を着せて、わかりやすく訴える。見応えのある新作を拝見すると、狂言は現代劇だという千之丞さんの主張が腑に落ちます。
 新作は面白いです。ただ、いわゆる際物が多いので再演、再々演はなかなか難しいと思います。最近、再々演をして私のレパートリーになっているのは、小説家の京極夏彦さんの「妖怪狂言」と称するものです。『豆腐小僧』と狐の騙し合いの『狐狗狸噺』。お化けの世界を狂言にしようという発想が、他の方ではちょっとできない。お化けをよく知ってらっしゃる京極さんならではの作品です。『豆腐小僧』は二十数回やっています。
3Gプロジェクトがあり、新作狂言があり、今後も千之丞さんの活動から目が離せません。
 これからも、何でもありでやってまいります。ひとつ言いたいのは、狂言は現代劇だということです。歌舞伎も能、狂言、文楽も、昔の民俗芸能じゃあない。昔の様式、昔の方法を使ってやっている今の芝居、現代の芝居なんです。得てして、お役所もそうですし、学者先生もそうですが、狂言を説明するのに世阿弥から解きほぐし、能は世阿弥がオリジナルをつくって、その合間にやっていた芝居が狂言だと言う。狂言には大蔵流と和泉流という流派があって云々と。こんなのお客さんにとっては全然関係ないことです。昔につくられたオペラやバレエを「ヨーロッパの古典」とは紹介しないでしょ。なのに、今や能と狂言はユネスコの世界文化遺産です。そんなことにされたら能も狂言も死んじゃうぞ、棺桶に片足突っ込むようなことは止めてくれって、猛反対したんですがね。狂言は現代劇だということを、ますます見せていかなきゃならないと思っています。
まあ、色々考えて、やっていくのは楽しいです。だから年取らないんでしょうね。仕事で若くなって、夜においしいお酒でも飲めたら、これにこしたことはないです。

*茂山あきら
狂言役者。1952年京都生まれ。祖父・三世千作、父・千之丞に師事。米国人ジョナ・サルズ龍谷大学教授と「能法劇団」を主宰、ベケットや英語狂言を海外でも公演。新作狂言や廃絶作品の復活に取り組む。オペラの演出も手掛ける。

「3Gプロジェクト」プロローグ公演
“コメディア・デラルテ×狂言”

2009年3月23日/京都芸術センター
2009年3月24日/イタリア文化会館
茂山千之丞(左)、茂山あきら(中)、アレッサンドロ・マルケッティ(右)
©ミホプロジェクト

©ミホプロジェクト

素狂言『宗論』
茂山千作(左)、茂山千之丞(右)
写真提供:茂山狂言会

妖怪狂言『豆腐小僧』
作:京極夏彦
演出:茂山あきら
写真提供:茂山狂言会