鈴木ユキオ

舞踏の切実な身体の継承者
鈴木ユキオが切り開く新たなコンテンポラリーダンス

2009.03.31
鈴木ユキオ

鈴木ユキオYukio Suzuki

1972年生まれ。1997年アスベスト館にて舞踏を始め、室伏鴻などの作品に参加。2000年より「金魚」として活動を開始。切実な身体を並べた、ドキュメンタリー的演出・振付方法が注目を集める。近年は東京シティバレエ団ダンサーへの振付や「アジアダンス会議」参加など、振付家としての活動も幅広く展開。また、舞踏のメソッドを基礎にワークショップも実施。身体を丁寧に意識し、自分だけのダンスを作り出すプログラムを各地で開催している。2003年STスポットよりラボアワード受賞。2004年セゾン文化財団ネクストネクスト公演ファイナル参加。2005年度セッションハウスレジデンスアーティスト。2007年京都芸術センター舞台芸術賞2007ノミネート。トヨタコレオグラフィーアワードでは、2005年にオーディエンス賞、2008年に次代を担う振付家賞(グランプリ)を受賞。

2008年度トヨタコレオグラフィーアワード「次代を担う振付家賞」を受賞、今、最も注目される振付家・ダンサーの鈴木ユキオ。アスベスト館(舞踏の創始者故・土方巽の拠点)の「からだの学校」や室伏鴻から舞踏を学び、鍛え上げられた自らの身体をもとに生み出す作品は、切実で緊張感に満ちている。自らが率いるカンパニー「金魚」で活動を行い、ソロ、ミュージシャンとのコラボレーション、グループ作品を発表するほか、室伏が率いるKo & Edge Co.にダンサーとしても参加。1972年生まれの鈴木がどのようにして舞踏と出会い、何を目指しているのか。その舞踊観に迫る。
聞き手:石井達朗
鈴木さんは1997年からアスベスト館で舞踏を始めます。鈴木さんの活動の原点はそこにあると思いますが、それ以前に何かダンスに関わるようなことをやっていたのですか?
高校生まではサッカーをやっていて、スポーツ少年でした。生まれは静岡で、1990年代の初めに東京の大学に行くために上京し、最初に出合ったのが映画でした。寺山修司の映画やデヴィッド・リンチの作品、ヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』などに夢中になり、自分で撮りたいと思うようになりました。でも映画を撮るのにはお金がかかるような気がして、身体ひとつでできる役者をやろうと、小さな劇団に入りました。そこで2年ぐらい芝居をやったのですが、何か、セリフに違和感があって……。特に稽古で即興の演技をする時など、抵抗感があって言葉が上手く出て来ない。元々人と喋るのが得意ではなかったし、絶叫するような演技に照れもあったのだと思います。
 そんなときに、劇団の仲間が、「舞踏」という凄いものがあると教えてくれたわけです。舞踏が何なのか全く知らなかったので、公演を探して観に行ったのですが、それは面白くなくて、凄いとはとても思えなかった(笑)。その時にもらったチラシの中に、アスベスト館のワークショップのお知らせが入っていたのを偶然見て、自分で試せば凄さがわかるんじゃないかと、参加することにしました。
 そのワークショップは2カ月ほどの連続企画で、色々な舞踏家が指導してくれるというものでした。土方と競演していた大野一雄さんにも教えていただきましたし、大野慶人さん、笠井叡さん、玉野黄市さん、山本萌さんなど、みなさんそれぞれが確固たるスタイルをもった、錚々たるメンバーが入れ替わり立ち替わりでアスベスト館に来て指導してくださいました。舞踏だけではなく、写真家の細江英公さんによる写真のワークショップもありました。
土方巽が亡くなってから夫人の元藤燁子さんがアスベスト館で始めた「からだの学校」に参加したわけですね。舞踏だけでなく各界の素晴らしい講師陣を呼んで、少人数制の寺子屋スタイルでやっていました。土方が生きていた時代のアスベスト館は彼が帝王として君臨していたわけですが、彼が亡くなり元藤さんの時代になってからは、おおらかなスタイルで運営されていたと思います。それが鈴木さんと舞踏との出合いなのですね。
その時に実際に舞踏を体験して、身体を使うのは面白いと感じました。すべてが新鮮でした。例えばバレエだったら凄いと思ってもすぐにはできないけど、舞踏は違う。ただ身体があればいい。声を出したければ出せばいい。大学は結局中退して、バイトをしながらアスベスト館に通う状態が続きました。97年〜98年、24歳ごろのことです。大学に行っていた頃は引きこもりがちで、本ばかり読んで頭でっかちになっていた。舞踏の人たちは言葉を大切にするところがありますが、そういう舞踏で身体を動かすことによって、言葉(頭)と身体の関係がしっくりきたような気がしました。
そこで実際に人前で踊るという経験をするのですね。
元藤さんの作品にかなり出させていただきました。土方巽の十三回忌と重なったこともあって、水戸芸術館や愛知芸術センターなどでの公演に参加しました。元藤さんと、大野一雄さん、慶人さんの3人がメインで踊られて、僕らはオブジェとして出たり、ちょっと群舞的なことをやったりしました。裸でずっと立ってるだけとか、ジャンプしてるだけとか、色々ありましたね(笑)。
 それから生徒たちで小さな自主企画公演をやるようになり、自分の小作品をつくるようになりました。その後、大駱駝艦を辞めた人が結成したグループ「大豆鼓ファーム」「サルヴァニラ(SAL VANILLA)」「若衆(YAN-SHU)」などに参加しました。そこで初めて大駱駝艦系の稽古の仕方を経験して、またひとつカルチャーショックを受けました。
大駱駝艦系の舞踏は、ある種の厳格なフォルムを通して作品をつくっていきます。それは、鈴木さんが元藤さんや大野一雄さん、慶人さんから学んだ舞踏とはかなり違うものですよね。
はい。アスベストで身に付けたものより、もっともっと“形”や“群舞”があるというか……。最初によく言われたのが、「やっぱりオマエはアスベストだよな」と。それがすごくコンプレックスで、初めは苦労しました。でも徐々にその楽しさもわかってきて、実際に大駱駝艦に入って勉強したほうがいいのかと思った時期もあったのですが、「オマエは染まりやすいから行かないほうがいい」と助言してくれた人がいて。それがなかったら、今頃、大駱駝艦のメンバーとして踊っていたかもしれません(笑)。
何人かの違った先生からいわゆる「舞踏」の手ほどきを受けた後、自分が舞踏という領域の中で表現者としてやっていこうと意識したのはいつからですか。何かきっかけがあったのですか。
大駱駝艦出身の人たちは“一人一派”という、皆、独立して自分の表現を追求するという考え方をもっていて。当時参加していたサルヴァニラでも、ここを踏み台にすればいい、自分のやりたいことをやればいいと言ってくれていたので、並行してソロ公演をやるようになりました。98年ぐらいから定期的にやって、2000年には仲間に声を掛けて、「ブルドッグエキス」という名前でカンパニー活動をスタートしました。メンバーはアスベストと、大駱駝艦系で知り合いになった人たちです。バンドやろうかな(笑)、みたいな感じで、バンドのノリを身体で表現するグループをつくろうと思いました。その頃、自分に課していたのは、年に1回グループ公演とソロ公演をちゃんと打つということ。それ以来、公演は欠かしていません。
その時、自分のやっていることは「舞踏」だという意識はありましたか。
実は、僕は舞踏がダンスだということを知らなかったんです(笑)。舞踏は舞踏、ダンスはダンス、演劇は演劇だと思っていた。でも海外に行くと、舞踏ダンサーと言われるし、だんだん、舞踏はダンスなんだというのがわかってきた。舞踏を始めた最初の頃は、単純に、白塗りをして、舞踏の身体に成るだけで満足していたところがありました。けれども次第にそういう形ではなくて、自分の踊りを踊りたいと思うようになり、ブルドックエキスを始めた時は、白塗りもせず、普通に服を着て、舞踏とは全く違うことをやろうとした。でも、お客さんは舞踏の仲間ばかりだったので、何これ?って、わかってもらえなかった。
その頃のSTスポット(横浜市立の小劇場を市民ボランティアが運営し、気鋭のアーティストがキュレーターとして新人のオーディションから作品づくりまでサポートするなど、アーティストの卵たちの拠点スペース)での公演を観ていますが、舞踏でもなく、といってモダンダンスでもなく、アメリカの60年代初期のポストモダンダンスに近いというか、割とクールに動きをつくっている感じがしました。舞踏をやりながら、このままじゃ自分は満足できないという何かがあったのでしょうか?
最初に舞踏をつくり出した人たちは、土方さんがモダンダンスをやっていたように、きちんと踊れる身体を実はもっていて、その上で舞踏をつくり出していったわけです。でも、自分は全く踊れない身体からスタートして舞踏をやろうとしているということに気付いて、それでいいのだろうかと。ダンスをもう1回勉強したほうがいいんじゃないかと、1年半ぐらいバレエの基礎から、ヒップホップ、太極拳まで、さまざまなジャンルのダンスを習ったんです。バレエは最初、間違って本格的な教室に行ってしまい、先生に「何、この子?」って(笑)。
鈴木さんの意欲と真面目さがよく表れているエピソードですね(笑)。
これはマズイと思って速攻で帰りました(笑)。バレエというのは絶対的に僕にはできないから、そういう意味ではバレエが一番面白かったですね。身体を全部意識できるので。
鈴木さんとダンスの関わりが舞踏から出発したにもかかわらず、現在は「舞踏家」というより、コンテンポラリーダンサーとして一般的には認識されています。コンテンポラリーダンス寄りの作品をつくり始めたのは、何かきっかけはあったのでしょうか。
STスポットの「ラボ」という企画に、ソロ作品で参加したときです。これは、STスポットが毎年キュレーターを選び、そのキュレーターがディレクションするという企画です。山崎広太さんがキュレーターだった2002年ソロで、山下残さんがキュレーターだった2003年にグループで参加しました。その作品が「ラボアワード」を受賞し、それをきっかけにショーケースに参加するようになって、それまでとは違う客層の人に見てもらえるようになりました。
 その頃は、どこかで舞踏的なものをできるだけ排除したいと思っていた時期で、逆に素人の身体を使うとか、そういうことを試していました。その頃、グループ名も「金魚」に変えました。名前の由来は単純で、「金魚飼いたいな」って(笑)。金魚はかわいいイメージだけれど、特に高級なもの、美しいとされているものになればなるほど実際はちょっとグロテスク。価値観というのは、見方によって変わるという意味も込めています。
その頃に舞踏家の室伏鴻さんとの出会いがありましたよね。
室伏鴻さんの公演は何度か見ていたんですが、実際にお会いして話をしたことはなかった。でも、2003年9月のメキシコ公演の時にダンサーとして声を掛けていただいたんです。舞踏から離れようとしていたところから、また一回りしてもう一度触れてみてもいいかなと思っていた頃で、やってみようかと。現地で初めて室伏さんとお目にかかって話をして、10日ほどで作品をつくりました。その後、東京に帰ってからKo & Edge Co.の『美貌の青空』という作品に発展させていったんです。
 室伏さんに、舞踏の可能性や、身体の使い方について教えてもらって、改めてちゃんと身体で見せたいと思えるようになりました。一度は舞踏を知ってしまった身体がすごく嫌になったのですが、逆に、素人の身体では出来ない何かができるんじゃないか、と思い直せるようになりました。
05年のトヨタコレオグラフィーアワードに応募して、観客の投票による「オーディエンス賞」を受賞した『やグカやグカ呼嗚』は、鈴木さんがやってきた舞踏の色合いが良くも悪くもほとんど見えない作品でした。私はそれをポジティブにとらえています。というのは舞踏とかコンテンポラリーとかに関係なく、鈴木さんのグループワークのつくり方の原点が見えた気がしたからです。鈴木さんのように、ソロを主にして小スペースでやってきた人が、グループ作品をつくるのは大変だと思います。あの作品はどのようにつくっていったのですか。
今も同じかも知れないですが、混沌とした状態をつくり出したいという意図がかなり出ている作品だと思います。ハプニングじゃないけど、人がどんどん出入りして、展開していく。身体の強度と言うよりは、いわゆる演出の面白さというのを試していました。ラボアワードを取った時と同じように、パフォーマンスをやっている人だったり、お笑い系の人、整体師で空手をやっている人とか、自分の周りにいる面白い人に出てもらいました。いろんな身体があって面白いなあ、というのを表現したかったんですね。ただ、踊りをやっている人ばかりではないので、こういうスタイルを続けていくことは難しいと思います。
この頃から、自分で踊るばかりでなく、演出が面白い作業だというふうに思い始めた?
それと同時に、このメンバーで自分が踊ってしまうと、どうしても自分の身体が周りから浮いてしまう時があって。それで演出だけに専念したほうがいいんじゃないかとか、思う時期でもありました。
『沈黙とはかりあえるほどに』は作曲家の武満徹の本(『音、沈黙と測りあえるほどに』)からタイトルを取っていますが、彼に影響されているのですか。
武満さんの音楽自体は全く聞いてないのですが、文章にはアーティストとして必要なことがすべて書いてある。僕らが読んでもすごく共感できるようなことが書いてあるので、影響を受けていました。
武満徹の文章は、音楽が流れるような素晴らしい文章ですよね。「沈黙と測りあえるほどに」というタイトル自体、普通の人が思い浮かばない言葉です。土方は三島由紀夫の小説『禁色』のタイトルをそのまま付けた画期的な作品をつくり、それが舞踏の嚆矢になっていますが、鈴木さんにとってこのタイトルと作品の内容はどのようにリンクしているのですか。
作品をつくるとき、タイトルはすごく重要で、それがカツンと決まると作品がブレなくて済むんです。自分にとって、「これはイケる」というタイトルが閃くかどうかはとても大きな問題です。
 「沈黙と測りあえるほどに」という武満さんのタイトルは、一音を出すことに対してのすごい畏れというか、重さのようなことを表していますが、ダンスも同じなんじゃないかと。武満さんがピアノをポンと叩くまでの感覚、それと同じじゃないかと。単純にフワ〜と動くのではなくて、動き出すまでの感覚、そこをちょっと考えてみたかった。その結果だと思いますが、あの作品はインターバル(間)が結構多いものになっていきました。
武満の音楽は、音が出る時と同じくらいに、音が何もない時の静寂のテンションがある。音が全くない時も、音の響きと同様に何かを語っているということです。そういう意味で、鈴木さんの作品は、武満から良い啓示を与えられたかもしれないですね。
ちょうど室伏さんと付き合い出して、もう一度、身体って何だろうということを突き付けられた時期でした。少ない人数で、今自分のやりたいことを、まず自分が関われる範囲の人数で始めようと。強い身体で何か見せられる方法を探りたい、自分のことも探求したい、という方向に向かっていき、今のような作風になったという感じです。
室伏さんから色々影響を受けている一方で、室伏さんとは異なる方向も探っていったということですか。
室伏さんの世代は何かに対してのアンチという精神が非常に強い。舞踏は絶対にダンスなんかじゃないというところを、心への問い掛けにして続けていると思いますが、僕の世代になると、ダンスであってもいいのではないか? ということに取り組まないと、リアリティがない。でも逆に言えば、何をやってもよくなっちゃうというか、何をやっても「それもアリだよね?」と言われてしまう危険性もある。
舞踏への身体的なこだわりをもちつつ、その中だけで収まっていたくない、もっと広い海原でダンスというものをとらえていきたいということですよね。『沈黙〜』は、そのひとつの表れでしょうか。
そうですね。今後、こういう形をとっていくかはわからないけれども、ひとつの試みではありました。ただ、違う展開もしてみたいなとも思うし、スタイル自体もそんなに決めつける必要もないと思っています。
稽古場でのお話をうかがいます。鈴木さんの作品から想像すると、他の振付家が作品を稽古してつくっていくのとはかなり違うプロセスを経ているのではないかと思えます。作品づくりのプロセスはどんなものなんですか。
自分の頭の中で動きが繋がるまで考えて、割と全体を組み立ててから、稽古場に行って試す方法を取っています。以前は一人で山の中に散歩にでかけて動いたりもしていました。人に見られるとヤバイんですが(笑)。時間をできるだけ短縮したいというのと人数が少ないのもあって、稽古場には絵コンテのようなものをつくって持っていきます。すごく簡単なメモというか、進行表的な感じのもので、人の配置や、そのシーンでやりたいイメージを書いています。だいたいこんな感じの作品にしたいというのをみんなに伝えますが、最初の段階では、理解はされていないと思います。僕自身もまだ紙の段階でしかないし、完全に整理できているわけではないので、実際に動きながら理解していくという感じです。
最近は頼まれて、鈴木さんが講師としてワークショップをすることも多くなりましたよね。どんなワークショップをやっていますか。
普通の人を対象にしたワークショップでは、最初はだいたい手繋ぎ鬼ごっこから始めます。手を繋ぐと、自己紹介をするよりも一発で親近感が沸くので。そこから始まって、そのペアで、引っ張り合いのようなゲームをするのですが、ただ引っ張り合うのではなく、たとえば崖っぷちに立っているという設定にする。そうすると倒れたくないという逆の気持ちが浮かぶ。それでも引っ張られるから倒れるのですが、そういう倒れたくないという抵抗によって一瞬時間がズレるわけです。この時間をズラすことが僕のワークショップでは重要で、時間がズレると、空間もズレる。そして実際に倒れるところまでやってみる。
 生活の中では“倒れる”というのはあまりやらないことだから、倒れてみると、それまで知らなかった自分の身体がわかってくる。次に、例えば胃を引っ張られるとか、耳の奥を引っ張られるとか、そういう身体の「内」を意識する指令を出す。「肩」が引っ張られるのと、「肩の中の骨」が引っ張られるのとでは見え方は同じかもしれないけど、身体はちょっと違う感覚になる。そうやって少しずつ身体の外と内や呼吸を意識するように仕向けていく。そのように外と内という、常に逆のことを考えていると、次第に身体全体が意識されていくようになる──ということを、時間を掛けてやっています。
 後、ワークショップでは、誰を対象にしているものでもできるだけ言葉にして伝えるということに気をつけています。僕などは、見て覚え、盗んで覚えてきましたが、ワークショップは長くても1週間、という場合がほとんど。その中で、単純に僕が踊って「こんな感じ」という昔ながらのやり方だと、みんなも、そして僕も迷い続けてしまうことになる。でも、できるだけ言葉で自分がやっていることを伝えるよう意識すると、参加者はみんな、悩みが解決されて帰っていく。
 例えば、踊れる人はどんどん踊りたくなって、止まれなくなることが結構ありますが、そういう時に、もっと間をもったらいいよ、というアドバイスするダンサーは多いけど、じゃあ私はどうやって間をもっているのか? というのはあまり教えてくれない。試行錯誤するのは良いことだとは思いますが、答えが見つからない人も結構いる。そういう時には、まずはこれを試してみたら? というように、できるだけ、具体的に伝えています。
ワークショップの方法を聞いていると、鈴木ユキオの“身体と踊りの間”の状態が見えてきて興味深いですね。ところで、金魚のホームページには「ドキュメンタリー的演出・振付」と書いてありますが、これはどういう意味ですか?
一時期、ダンスしてしまっていいのか、その手前がいいのかという“リアリティ”について考えていたことがあって。それと、グループ作品の時に人間の関係性ということについても考えることがあり、ある種のリアリティ、ドキュメンタリー性を求めたいなというのでそういう表現を使ったんだと思います。人間の関係性って、ちょっとしたことでズレて、例えば、思いが強いからこそ空回りして暴力的になったり、過激になったりする。最近はもうそこから離れて、違うことをしたいなとは思っているんですけど、グループ作品のときにはやっぱり関係性がどうなるのか?というのはテーマになりますね。
そのズレる瞬間のイメージは、自分の身体を動かして、自分の頭の中でシミュレーションして稽古場にもっていくということですか?
頭の中で、実際にそうなったら面白いな、という想像が最初にあります。それを実際に稽古場でやってみると、そのままやってみてもやっぱり面白くない。頭の中で想像していたのと実際の身体は違っているので、見せるためにどうするか?ということを、もう身体で徹底的に何度も試みます。そこには間合いが必要だったりする。
 よく「即興ですか?」「どこまで決めているんですか?」と聞かれるのですが、かなり決めています。決めてあるのに即興的な感じになるためにはものすごく稽古が必要だったりする。決めつつも、それをなぞらない。常に逆のことをダンサーに言い続けて、常に正解がない状態にして混乱させておく。でも、振付は守ってください、と言い続けるという、ダンサーにとっては可哀想な状態(笑)です。そうすると、そこの悩みからまたひとつの交流が生まれて、迷いもうまく見せられたりします。
そこが鈴木さんの作品の一番の魅力でもあります。作品が始まってから終わるまで、よくある踊りっぽい作品、つまりダンシーな作品になる(身体に「ダンス」を振り付ける)ことはすべて避けています。ダンサーの身体を抱え込んだ空間全体を振り付けてるというか、常に空間に対する意識が働いている、という感じがします。それは『沈黙〜』でもそうだったし、『言葉の先』『やグカやグカ呼嗚』もそうでした。
振りはどうでもいいから、今そこにその人が居ないと成立しない、というか、そこに居れば成立する、みたいな感覚が自分の中にあります。なので、人をモノとして扱ったり、美術みたいな感覚で扱うこともあります。絵的に絶対的な位置、というのがあるんですね。どうしてもそこに居てほしい、居させるためにこそ振りをつける、というような……。
だから、ダンサーがそこに居ること以前に、ひとりの人間がそこに居るという印象がすごく強いんですね。それがある意味でドキュメンタリーという言葉に繋がるのかもしれないけれど、意図を見せないような形で、かなりよくつくり込んでいますよね。
“見えない”ようにする、わざとらしくしないというのをかなり意識しています。ダンサーに、ただ僕の動きをなぞってもらうだけだと、それは僕の身体の動きでしかない。その人の身体でできるベストなところ、一番ナチュラルにできるところ、そのニュアンスを探し出す作業は、身体を使ってかなりやります。
近作の『Love vibration』はヴァイオリン奏者と鈴木さんのソロ対ソロのコラボレーションでした。ヴァイオリン奏者が単なる伴奏者ではなくて、ダンサーと同じぐらいの存在感で舞台にいました。こういうコラボレーションをやってみようと思ったのは?
ダンスと音楽をクリエーションの時から一緒にやろうという企画をいただいて参加しました。僕がヴァイオリンとやったことがなかったのと、男同士1対1というのも面白いかも、ということで決まり、全く初顔合わせから合宿してつくっていった作品です。違うジャンルの方とこれだけの時間を共有するのはなかなか難しいことがありますが、可能性がすごく広がることを今回実感したので、チャンスがあればいろんなことを試してみたいですね。
最新作の『言葉の先』は、鈴木さんが今までやってきた身体性に対するこだわりを、より鮮明に前面に出そうとしているように見えます。いわば、鈴木ユキオの「直球」です。この作品についてはどうですか。
この作品は、もっともっと身体で振り切りたいという願望が強くなってつくったのですが、ただやっぱり、身体を動かすにしても言葉はついてくる。なので、“言葉”と“身体で振り切る”ということを、いい感じで行き来して、その間にい続けたい、と思った。やっぱり頭でっかちにもなりたくないし、かといって、身体だけあればいいと言っちゃうのも簡単すぎる──まだ、やり切れていない部分もあるので、もう少し人数を増やしてもう1回トライしたいなと思っています。
まだこれは発展途上で、より強力に、より強度をもった作品に発展できるんじゃないかという感じもしたので、再度の挑戦をぜひ観たいですね。
 鈴木さんは今、非常に充実した時期に差し掛かっていると思いますが、1年後、2年後のビジョンを教えてください。
課題がすごく見えていたので、ここ1、2年集中して、ひたすら身体、身体、身体という方向で自分を追求してきたところがあります。それが『Love vibration』『言葉の先』をつくって、やっとひとつ底が見えたというか、自分の中の課題をひとつクリアしたように思います。次は、もう一度、もっと人を増やしてやろうかと思っています。今なら、もう少し違う見せ方ができるような気がするのと、身体という内側に対してすごく追求したことの反動かもしれませんが、その外側にある空間、時間に興味をもっています。

『言葉の先』(2008年)
演出・振付:鈴木ユキオ
出演:鈴木ユキオ、安次嶺菜緒、やのえつよ、川合啓
©Shinsuke Hatashima

©Yohta Kataoka

©Takayoshi Susaki

©Shinji Kubo

『沈黙とはかりあえるほどに』(2007年)
演出・振付:鈴木ユキオ
出演:横山良平、安次嶺菜緒、原田香織、鈴木ユキオ

©Japan Contemporary Dance Network (JCDN)

©Ryuichi Maruo

『Love vibration』(2007年)
振付・出演:鈴木ユキオ
作曲・演奏:辺見康孝

『犬の静脈に嫉妬せず』(2006年)
振付・出演:鈴木ユキオ
出演:横山良平、安次嶺菜緒、虚無、寺田未来、鈴木ユキオ