新井弘順

新井弘順インタビュー
千年の時空を越えて劇場で親しまれる仏教音楽「声明」の世界

2007.05.24
新井弘順

新井弘順Kojun Arai

1944年、埼玉県出身。高野山大学大学院文学研究科修了(インド古代法)。真言宗豊山声明を大僧正青木融光より学び、以降国立劇場における声明、雅楽、音楽公演の古典、新作の演奏に参加する一方、海外でも幅広い活動を行なう。73年「日本の伝統と前衛音楽」世界公演、86年ベルリンインベンションフェスティバル、フランスの秋芸術祭、90年ドナウウエッシンゲン現代音楽祭、06年日豪交流年シドニー公演等の声明公演に参加。97年天台宗の声明家とともに「声明の会・千年の聲」(「声明四人の会」が前身)を設立、古典の継承・普及に努める一方、新作声明にも積極的に取り組んでいる。。上野学園日本音楽資料室研究員として声明楽譜研究に従事。国立音楽大学非常勤講師。迦陵頻伽声明研究会会員。所沢市宝玉院住職。

千二百年の伝統を誇り、西洋のグレゴリオ聖歌とともに世界で最も古いといわれる日本仏教の宗教音楽「声明」。
寺院でしか聞けなかった僧侶の男声合唱である声明をコンサートとして劇場公演し、現代音楽の作曲家による新作声明にも挑戦している僧侶グループがある。「声明の会・千年の聲」の新井弘順師(真言宗豊山派宝玉院住職)が語る声明の世界とは。
聞き手:花光潤子 インタビュー:2007年4月27日
日本人ならお経といえば誰もが知っていますが、「声明」という言葉は一般にはまだ馴染みがないようです。お経と声明は違うのですか?
 「声明」は、お経に節がついたもので、仏教寺院で僧侶が儀式の時に唱える男性コーラスです。仏さまの教えを讃歎する仏教の聖歌です。仏教とともにインドで生まれ、中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わりました。日本に仏教が伝来したのは6世紀ですが、声明については、752年に東大寺大仏開眼供養の大法要が行なわれた際に、国中から約1万人のお坊さんが集まり、420人で声明を披露したという記録が古文書に記されています。
声明の歴史について、教えてください。
 「声明」という言葉の語源はsabda-vidya(シャブダ・ヴィドヤー)、古代インドの学問の一つで、「言葉の学問」を指していました。一方中国や朝鮮では「聖歌」という意味合いで「梵唄(ぼんばい)」と言っていましたが、日本ではそれらが一緒になり、鎌倉時代初期から「声明」という言葉が使われるようになりました。
9世紀の始めに弘法大師空海が「真言声明」、中頃には慈覚大師円仁が「天台声明」を中国から伝え、宗派ごとに独自の発展をしてきました。声明が一番発達したのは平安時代の末から鎌倉時代にかけてです。この時代に声明の音楽理論、記譜法、楽譜集、教授法などが整備されました。1472年には声明の楽譜集『文明4年版声明集』が高野山で出版され、これが現存する世界最古の印刷された楽譜集と言われています。この印刷楽譜によって声明も全国に普及しました。ちなみにグレゴリアン聖歌の印刷楽譜は1473年の出版ですから、一年早かった(笑)。このように、音楽史といえば皆さんはすぐ西洋音楽と思いがちですが、日本には世界の音楽史上大変貴重な文献がたくさん残っています。
どのような曲がありますか?
 現在我々は、インドで生まれたサンスクリット(梵語(ぼんご))の曲(梵讃)と、中国で独自に作曲された漢語の曲(漢讃)、そして日本で作曲された日本語の曲(讃歎・教化(きょうけ)・和讃・表白・講式など)という、三種類の声明の曲を今に伝えています。それを儀式の時にうまくミックスさせて唱えています。
今も法要の際に頻繁に唱えられている「四智梵語讃(しちぼんごのさん)」 (*1) という曲は、7世紀頃にインドで生まれ今に伝承されてきたものです。日本で作られた声明の一番古い曲は、860年に円仁(えんにん)が作った「舎利讃歎(しゃりさんだん)」 (*2) という曲です。中国に留学していた円仁は、新羅人の寺に滞在して新羅語の声明の目の当たりにして、仏教を日本に土着化させ一般の民衆にも広めるためには、歌詞の意味がわかる日本語の曲が必要だと考えたのでしょう。
全部で何曲くらいあるのかと聞かれると困ります。どれを一曲とするか数え方が難しいんですよ。曲を単体で唱えることはなく、それぞれの法要を構成する一部分として伝承されてきました。また宗派によって、同じ歌詞ですが節がまったく違う曲がたくさんあります。
二大流派といわれる真言声明と天台声明の違いは?
 聞き比べてみるとわかりますが、一般に真言声明は男性的でダイナミック、天台声明は女性的で優雅と言われています。特に声明の音楽的特徴を表すのは、最も基本的な装飾音であるユリ(揺り)で、流派により異なります。真言声明のユリはゴツゴツしています。天台声明のユリは波のようにゆったりして息が長く瞑想的です。また、記譜法が全く違うので、お互いの楽譜は読めませんし、それぞれの流派でしかやらない曲もあります。平安時代には、東大寺大仏開眼供養会で唱えられた四箇法用(唄(ばい)・散華(さんげ)・梵音(ぼんおん)・錫杖(しゃくじょう))が流派を超えて合同で唱えられていました。その後宗派ごとに独自の発展をしてきました。
たくさんのお坊さんの声が寺院に響きわたる声明は圧巻です。基本的に声明の曲は合唱だと思っていいのですか?
 そうですね。声明曲は、老僧が法要の始めに重々しく唱える「唄」のような独唱もありますが、基本的には合唱です。頭役が最初に出だしを唱え、後に皆が続いて合唱になります。
インドや中国で生まれた曲は、母音をのばしてそこに装飾音がついているだけですから、喜怒哀楽といった感情表現は何もありません。一方「四坐講式」 (*3) のような語りものの声明「講式」では、お釈迦さまの入滅という悲しい場面を語るわけですから、音域(初重・二重・三重)を変えて、感情的な表現も行っています。ただ日本の初期の音楽は、人間の感情をもろに出さないのが原則で、音域を設定して音楽的な表現によって場面を表していくのが常套のようです。平曲などもまさにそうです。激しく感情表現をするようになったのは近世、江戸からでしょうね。
楽譜はどのようなものですか?
 声明では楽譜のことを「博士(はかせ)」と言いますが、歌詞に音高(ピッチ)を示す記号(音譜)がついています。音の型、旋律型という一つのまとまった単位で覚え、それぞれの曲は旋律型の組み合わせでできています。また声の抑揚や長さを線で表し旋律が視覚化できるよう工夫されています。
高野山では1472年に印刷楽譜が出版された後、1496年にそれを解説する教則本『魚山 芥集(ぎょさんたいがいしゅう)』が編纂されました。それらは今用いている本博士と基本的に同じです。ただ現在では、若い人にもわかり易いように博士をより視覚化した仮博士を用いて教えています。声明の最古の楽譜といわれている10世紀頃のものが、敦煌で発掘されイギリスの大英図書館に保存されていますが、つい最近、朝鮮の新羅に留学した僧侶が持ち帰ったという、8世紀頃の「ネウマ譜」という線で書かれた楽譜が発見され、博士の起源はさらに古くなりました。
声明はお師匠さんから教わる口頭伝承が基本ですが、合唱の訓練はしますか?
 各本山の専修学院で声明の授業が行われていますが、基本的には毎朝のお勤めや法要などを通して自然に耳で聴いて、唱え合わせることを覚えていくのです。大切なのはいつもお互いに声明の響きを聴きあっていることで、特別に訓練するというより、日常生活の中で自然に身につけていくものだと思います。もちろん難しい曲はお師匠さんのところに行って習いますが、基本的な曲はそうやって聴きながら知らず知らずのうちに覚えていく。そうすると不思議なもので高野山の声、比叡山の声、我々長谷寺の声と声がみんな違ってくるのです。お山の集団生活の中で、毎朝唱えることを数百年続けてきたことでそれぞれのお山の独特の声明が出来上がってきました。祈る場所や音の環境と声明には密接な関係があるように思います。
西洋音楽には指揮者がいますが、そういった役割をする人はいますか?
 いませんね。西洋音楽なら指揮者がいて、ピッチとリズムとテンポは厳密にコントロールされていますが、声明はお互いに聴きながら合わせていくので、少しずれていてもそんなに違和感はありません。ですから大切なことは「よく全体の声を聴きなさい」ということです。テンポやリズム、間といったことは、何度も繰り返し沢山唱えることによって自然に身に付きます。
調子は曲ごとに指定されています。天台声明では、調子笛などを使用して厳密に規定されたピッチで出音(唱え出し)します。真言声明の場合は厳密にやることはせず、ご祈祷や葬礼などその場に応じて同じ曲であってもピッチ表現を変えたりします。西洋音楽とは違って、声明にはそういった曖昧なところがあります。
声明は邦楽や古典芸能のルーツといわれています。
 平曲や謡曲、そして浄瑠璃や浪花節、はたまた落語まで、日本の古典芸能は声明から発展したといっても過言ではないでしょう。民族音楽の研究家であった小泉文夫先生は、日本語による声明「講式」(漢文訓読体)が書かれた物語を音楽的に表現した最初のものだろうと言われ、そこから平曲や謡曲、浪花節が発展していったと考えられています。
また古代から中世にかけて、寺院が祝祭的な空間としての機能を果たしていたことも古典芸能のルーツとして考えられている根拠のひとつになっています。例えば東大寺大仏開眼の式典は、大仏さまへの供養として、さまざまな芸能が披露されました。当時の国家発揚の一大イベントだったのでしょう。近隣諸国から使節を招き、今でいうオリンピックの開幕式のようなものでした。声明の大合唱のほか、中国の曲芸や仮面劇、ベトナムやインドなどアジア各国の舞楽など、大陸から来たいろいろな芸能が催されました。大仏殿そのものが一つの大劇場、祝祭空間だったのです。
日本では僧侶は合唱だけを受け持つことになりましたが、もともと大陸では僧侶が合唱・舞踊・演奏を一体的に行なっていました。今も韓国やチベットでは、僧侶は演奏もしますし、舞も踊ります。
声明が劇場公演されるようなったのは、いつ頃からですか?
1966年に国立劇場が開館した時に劇場公演として披露されたのが最初でした。それは声明が“音楽”という視点から取り上げられたエポックでした。
ところが当時の宗教界からは、「坊さんが劇場で観客に向かって歌うなんて何事か!仏様を冒涜している」といった批判も浴びました。その時、青木融光大僧正という我々の師匠は、「仏さまは宇宙に偏在していらっしゃる。寺の本堂だけにいるわけではなく、街頭でもどこでもあらゆるところにいらっしゃる。声明を本当に心から聞いてくれる人がいるところであれば、むしろ積極的に出かけていきましょう」と毅然として言われ、80歳をこえて外国公演にも出かけられました。我々はまだ20代でしたが、この青木融光という人間国宝でもあった師匠の存在が本当に大きかったと思います。
1973年には国際交流基金(1972年10月創立)の主催事業で、「日本の伝統と前衛音楽」(真言宗豊山声明「大般若転読会」、井野川幸次検校「平曲」、TOKKアンサンブル)という初めての声明の海外公演が行われました。青木融光大僧正を導師に、テヘランを皮切りにヨーロッパ・アメリカ・カナダの11都市で43日間という世界一周ツアーをしたのです。きっかけは、ベルリンの比較音楽研究所のハイネマン所長と西ドイツ国営放送の現代音楽のベッカー部長が来日して、歌舞伎や能よりもっと古い日本の音源はないかと国立劇場の木戸敏郎さんが相談を受け、声明に白羽の矢が立ったことからでした。この外国公演が我々にとっても非常に貴重な体験となりました。
海外の反響は?
 そりゃあ、びっくりしたと思いますよ。音楽として全く異質ですから、非常に衝撃的だったようです。しかも演目が大きな声で怒鳴る「大般若転読会」 (*4) だった。ヨーロッパの人にとって音楽というのは、調整音楽できれいな声で歌うのが普通でしょう。ところがこれは悪魔を退散させるための声明ですから怒鳴るんです。音楽という概念が全く違うわけですよ。そういう意味での戸惑いもあり、またアジアにこんな素晴らしい音楽があったのかという驚きもあり。その反響の大きさを身をもって体験し、我々にも声明をお寺の中にだけ閉じ込めておくのがもったいないことがよくわかりました。
お坊さんたちは、海外公演の体験をどう感じたのでしょう。
 ベートーヴェンホールなど名高いコンサートホールで、青木大僧正は素晴らしい音楽家であると絶賛されました。昔は国家試験を受からなければ僧侶になれず、声明も重要な受験科目の一つでした。また、僧侶の声明を耳にできる人びとも天皇をはじめ貴族や教養の高い人ばかりで、音楽にも耳の肥えた人びとでした。相当に音楽的な力がなければその人たちを納得させることはできません。ですから坊さんも一生懸命研鑽を重ね稽古に邁進したのだと思います。ところが明治になってから、声明はなんとなく寺でしょぼくれて唱えているだけになってしまいました。伝承はしていても、人に聴いてもらうという意識を失っていってしまった。国立劇場で公演し、また海外で音楽としての高い評価を受けた経験が、我々に「声明にもっと真剣に取り組まなければ」という自覚を生み、自分たちの音楽文化遺産としての声明に、坊さん自身が目覚めたのです。
国立劇場ができる以前に声明が音楽として注目されたことはありますか?
 明治政府による廃仏毀釈で仏教界は大打撃を受けました。また日本の近代化、すなわち西洋化の過程で日本の音楽教育は西洋音楽一辺倒になって伝統音楽などは公的教育の場から排除されました。その状況が戦後まで続くのですが、黛敏郎ら現代音楽の作曲家たちにより日本の伝統音楽の再発見が行なわれました。彼らはヨーロッパに留学し西洋音楽を学ぶなかで行き詰まりを感じ、もう一度自分たちが持っている自国の伝統音楽の見直しを図ったわけです。黛は、梵鐘・咒(しゅ)・声明の響きに魅せられて、1958年に声明をモチーフにした「涅槃交響曲」を発表しました。これは、仏教の最大のテーマである涅槃(ニルヴァーナ)を主題とし、第二次世界大戦で亡くなった人々への鎮魂歌でもあり、現代音楽のエポックメイキングともいうべき作品です。また、小泉文夫などの民族音楽や伝統音楽の研究家たちも声明に関心をもつようになり、声明の採譜や録音などが行われるようになりました。
最前衛の現代音楽の作曲家が再発見したというのは、とても興味深いですね。劇場公演のための新作声明はいつから作曲されるようになったのですか?
 1983年に国立劇場がフランス人のジャン・クロード・エロアという現代音楽の作曲家に委嘱した「観想の焔の方へ」という作品が初の試みでした。エロアという人は何度も来日し、すでに雅楽的な作品をいくつも書いていました。それまで国立劇場では雅楽のための実験的な音楽作品をプロデュースしていましたので、次は日本を代表する声の伝統である声明と楽器の代表である雅楽による新作をということになったのだと思いますが、当時の国立劇場プロデューサーの木戸敏郎さんが彼に新曲を依頼しました。
エロアの作品はどういうものだったのですか?
 「観想の焔の方へ」は3時間というとんでもなく長大な曲でしたが、他にも、86年に「アナハタ」という新作を作っていて、そちらは一種のゲームのような作品でした。あらかじめ選んでおいたいくつかの言葉と旋律の中から、その時好きなものを即興的に選んで自由に歌えと‥‥。音楽とは固定化されたものではなくて、季節や天候や演奏家の気分などその時々の状況に応じていつも流れているものだという、彼の音楽観に裏打ちされた作品でした。それまで音楽なんてまるっきり知らなかった坊さんたちが、お彼岸の忙しい最中に、夜中の1時ぐらいまで劇場で稽古させられて(笑)。このエロアさんに出会ったのも我々にとってはとても貴重な経験になりました。
エロアの後、いろいろな作曲家と仕事をされていますが、主な作品にはどういったものがありますか?
 国立劇場では84年に草野心平さんの詩を石井眞木さんが新作声明にした「蛙の声明」を発表しました。その他、細川俊夫さん作曲の「東京1958」(85年)、高橋悠治さん作曲の「夢記切(ゆめのきぎれ)」(87年)、また、吉川和夫さん、間宮芳生さん、藤枝守さんなどこれまでに併せて20人を越す日本の主だった現代音楽の作曲家たちと一緒に作品を創ってきました。
お坊さんたちはこうした実験的な試みに、どういった意識で取り組まれてきたのでしょう。
それは、「おもしろいなあ」ということに尽きます(笑)。
73年の世界ツアーでは現代音楽の石井眞木さんも一緒だったのですが、彼の作曲した「超越」という曲は楽譜もなくて真木さんがピアノを引っ叩いたり、ハープの弦をこすったりするだけで、私たちもろくに吹けない法螺貝を適当に吹かされて、なんてインチキ臭くておもしろいものかと思いましたね。その当時の前衛音楽はジョン・ケージもそうですが、みんな「何でもあり」って感じだった。それが音楽への最初の入口だったのが、よかったのではないかと思っています。
現代音楽の作曲家たちは、声明のどこに魅力を感じていたのでしょうか。
 やはりヨーロッパにはない「声」ということだと思います。彼らは新作声明として何かひとつのまとまった音楽を表現したいというのではなく、例えば「宇宙の音」のような抽象的な世界を表現するのに、仏教的な考え方が背景にある「声明の声」が必要だったのではないでしょうか。
「アナハタ」は「宇宙の振動」という意味のようですが、楽器として用いられたのは雅楽の大篳篥(おうしちりき)などというえらく音が不安定なものでした。声明はたまたま日本に残っていますが、その声は単に日本的というのではなく、仏教というアジアのいろいろな地域に拡大した宗教を背景にした、豊かな広がりのある汎アジア的な音なのだと思います。一人一人声の性質が異なる坊さんの声が幾重にも重なり、微妙なズレのあるユニゾンが生まれ、倍音が生じるーーこの声明のもっている響きが彼らには最大の魅力なのだと思います。
国立劇場の声明公演に参加されてきたお坊さんたちによって1997年に「声明四人の会」を旗揚げされました。
 もう少し活動の場を広げようと、73年の国立劇場公演に参加した真言宗の私、孤嶋由昌、天台宗の海老原廣伸、京戸慈孝の4人で、木戸さんの後任になった演出家の田村博巳さんのバックアップもあり、「やってみましょう」と旗揚げしました。声明を宗教的な活動だけで捉えるとどうしても宗派という枠組みの中でしかできません。しかし、劇場公演などで異なる宗派が一緒にやることによってお互いの声明の研鑽にもなりますし、宗派の枠を越えたオープンな活動ができればと思っています。
2003年にはそれまで賛助出演してくれていた若手の僧侶も含め、「声明の会・千年の聲」と改称しました。四人も年々年を取って職務が忙しくなり、片や定期公演の場を得て若手の成長が著しく、後輩にがんばってもらえればという世代交代の意味もありました。
コンサートでは初めて聞く方へのレクチャーや、宗派の違いを聞き比べてもらうプログラムを組むなど、声明に親しんで戴く工夫をしています。新作では鳥養潮さんの「阿吽の音」「存亡の秋」や権代敦彦さん、寺嶋陸也さんなどの作曲した作品を発表してきました。現代音楽の作曲家や演奏家に出会うことによって、我々にはない物の考え方や表現の仕方などを教えていただけるのも、あり難いことです。
最後に今後の声明の展望をお聞かせください。
 日本の「声明」は、インドや中国のものが伝わって残っているなど、日本の音楽の中で地理的かつ歴史的な広がりの一番ある音楽といえます。現在、我々が動態保存している多くの曲を並べると、それはまさに生きた音楽史のようです。しかも、声明は、寺の年中行事の中にすべて組み込まれていて、毎年繰り返し歌うことによって伝承されています。声明ではそういった伝統の継承の装置が今日もうまく機能しているのです。一方、今は古典となっている鎌倉時代の曲も、それが出来た時代には新曲だったことを考えると、我々が現代の新しい声明を創っていくことは自然なことなのではないでしょうか。これからも貴重な日本の音楽財産である声明の、音楽としての可能性にチャレンジし続けたいと思っています。

*1 「四智梵語讃」
仏の智徳を讃える讃歌で、古代インドの言語サンスクリットを漢字に音写したもので、原詞を原曲で歌う。中国語に翻訳し、中国風に作曲し直した曲が「四智漢語讃」である。

*2 「舎利讃歎」
釈尊の遺骨である仏舎利を、釈尊の片身として崇拝する曲。天台声明を中国から伝えた円仁作の最も古い日本語の声明曲で、今日では真言宗に伝えられている。釈尊の涅槃を説いた「常楽会(涅槃会)」の中で唱えられるが、この法要は僧俗ともに釈尊を追慕することを主眼としており、聴いて意味のわかることが大切なため、「四座講式」「四座講和讃」など日本語の声明曲が多く用いられえている。

*3 「四坐講式」
鎌倉時代の明恵上人の作。涅槃講式、羅漢講式、遺跡講式、舎利講式の四座の式文からなる。講式とは日本語によるお経ともいうべきもので、我が国の語り物の源流となった。

*4 「大般若転読会」
単に大般若ともいい、「大般若(波羅蜜多)経600巻を転読・講讃し、世界平和・国家安泰・除災招福・五穀豊穣を祈願する法会である。仏の真実の智慧を説く大般若経は、孫悟空で有名な「西遊記」のモデルになった玄奘三蔵が16年にわたるインド巡礼の後、663年に漢訳し講演した600巻に及ぶ経典。当初は一字一字真読したが、経本を空中に翻して般若心経の咒(まじない)を唱える略読法に変わった。大音声の転読とあいまって、音楽性、演劇性に富んだ法要となっている。

天台声明の博士

 

真言声明の博士

最古の印刷された博士

ジャン・クロード・エロア「アナハタ」

 

宝玉院