国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan

Artist Interview アーティストインタビュー

2006.1.31
社会派コメディの第一人者 永井愛の作劇術に迫る

A look into the theater craft of Ai Nagai
A leader in the genre of social comedy

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社会派コメディの第一人者 永井愛の作劇術に迫る

永井 愛

今日的なテーマを普通の人々の生活を通してコミカルに描く、劇作家・演出家の永井愛。特に、第二次世界大戦後の急激な価値観の変化を生活の場から描いた戦後生活史劇三部作(*)を1994年にスタートしてからの活躍は目覚ましく、さまざまな演劇賞を総なめにしてきた。日本の教育現場を舞台にした国歌斉唱をめぐるコメディ『歌わせたい男たち』で2005年朝日舞台芸術賞のグランプリを受賞したばかりの永井に劇作について聞いた。
聞き手:ロジャー・パルバース

演劇との出会いは?
なぜ演劇をやりたいと思ったかと聞かれると、幼稚園のお遊戯会にまで遡ることになりますが(笑)。今思うと小さい頃から人前で何かするのが好きだったんですね。歌を褒められて歌手になりたいと思ったこともありますが、それはあきらめて(笑)、舞台俳優になりたいと思いました。
父は絵描きで演劇関係の人とも親しく、劇団民芸の『炎の人ゴッホ』の公演パンフレットにゴッホについての原稿を書いたこともありました。若い舞台俳優が家に来ることもあったので、それも多少は影響しているのかもしれません。
高校を卒業してからは、俳優座の鑑賞会のメンバーとして全公演を見ました。当時、人気女優だった市原悦子さんに憧れて、どうしても俳優座に入りたくて、桐朋学園大学の演劇科に進みました。私が大学生になった70年代はアングラ演劇がポピュラーになった時代で、状況劇場や黒テントや自由劇場などの小劇場を観ているうちに、新劇の劇団に入りたいという気持ちがなくなっていった。でもアングラ劇団に行くほどの勇気はなく、安部公房スタジオを受験して落ちたんです。それでアルバイトしながら演劇をやると宣言して家を出ました。
ああいう時代だったので、既成の権威に認められたいとはもう思わなかった。うろうろしていた時に、春秋団という劇団に誘われ、そこで大石静と出会いました。劇団が2年で解散したので、二人で何かやろうと二兎社を旗揚げしました。その時も作家になりたいとか、演出家になりたいと思っていたわけではなく、自分で書かないと役者としての場がなかったので仕方なかった(笑)。
永井さんは社会的なテーマを取り上げる作家として知られていますが、どうしてそういう視点を持つようになったのですか?
自分のことを振り返ると、60年安保の時はまだ子どもでしたが、あの頃は子どもが電車ごっこで、なぜか「安保反対!」ってかけ声をかけながら走ってましたね(笑)。普通の商店が安保反対の看板を出していたし、今から思うと考えられない状況ですよね。高校生のときのベトナム戦争では、反戦デモに参加したこともあります。
父親が共産党員だったので、政治的な会話が普通にでるような家庭でしたが、私自身は子ども心にそれがけっこう重荷でした。社会問題よりもっと夢のある話がしたかったし、もっと身軽になって気楽に生きていきたいと思っていました。友達の家に行くと、話題はテレビや電化製品のことで、日本がどうの、世界がどうのなんていう話はしていない。そういう友達の家が羨ましかったですね。でも、完全にそちら側にも同化できない。ですから、政治的・社会的関心と無関心の狭間をウロウロしていたというのが私の実情でしょうが、作品を書くようになってからは、そんな自分の有りようも含めて、個人と社会の関係を描きたいと思うようになりました。
例えば、『歌わせたい男たち』では、今、実際に公立学校で起きている問題を取り上げました。公立学校では式典で国歌斉唱、国旗掲揚が義務づけられていて、特に東京都ではそれに従わない先生は厳しく処分されるんです。そういう記事を新聞で読んだときに、自分には直接関係ないことですがとても違和感をもちました。公権力がこうしたことで選択肢を認めず、国歌斉唱で起立しなかった先生を大量に処分しているのに、世間じゃそれほど騒がれない。これは本当に騒ぐほどのことではないのか、芝居にしてみたいと思いました。
なぜ一般の人たちの関心が低いのでしょうか?
60年代には安保闘争という政治運動が盛り上がりましたが、結局、反対運動は実らないまま高度成長時代に移り、経済的な豊かさを求めるようになった。70年代も一時期政治闘争が盛り上がりましたが、セクト間の内ゲバ殺人など、グロテスクな事件が続くにつれてしらけムードが拡がり、こうした闘争は破壊するだけで何も建設しないと言われた。そうこうしている内に、バブル経済になり、なんだかんだ言ってもみんな豊かになったからいいじゃないかと……。
こういう積み重ねによって、思考停止を繰り返し、今の時代の精神がつくられたのではないでしょうか。日本には、長いものに巻かれろ、出る杭は打たれるという処世訓があって、長い間そういう風にいろいろなことをやり過ごしてきたため、自分で考え、行動するという習慣がなかなか根づかない。自分の良心がどこにあるかを突き詰めないまま、力関係に従って過ごしてきた結果、今の状況があるのだと思います。
『歌わせたい男たち』についてもう少し詳しく聞かせてください。
今、公立学校で起こっている問題を取り上げているからと言って、決して告発劇として書いたわけではないし、そういう態度で作品を書いてもつまらないと思っています。そうではなくて、「強制」というシステムが発動された中で人間はどんなふうになっていくのか、演劇的に体験してみたくなったんです。新聞記事を読んでも、こういうことが実際にはどのように行われているのか、その現場の空気や人々の言動までは想像しにくい。それを戯曲にすることでまず自分が体験してみたかった。その上で、観客からどういう反応がかえってくるのか知りたかったんです。
今の都立高校では、人間には思想・良心の自由があるという憲法に書かれていることを先生が生徒に教えると、教育委員会から聞き取り調査をされて、厳重注意されるんですよ。憲法を教えて厳重注意ですよ(笑)。先生が起立しなかっただけで校長が教育委員会に呼び出され、連帯責任で全教員が校内研修を受けさせられる。こういうことをおかしいと感じるのか、当たり前のことだと思うのか、今の「常識」はどうなっているのか、観客の反応を通して確かめたかった。だから自分に有利な材料だけ提出しないように、教育委員会や国歌斉唱・処分に賛成する人の言い分をむしろたくさん書きました。中には、それを作者のメッセージだと勘違いしたお客さんもいましたけど(笑)。でも観客アンケートには、こういう事態が進行している日本にいるのが怖いという意見が多かったですね。自分たちにつながる問題として判断してもらえたんじゃないかと思います。
永井さんは、「ごく普通の人々のごく普通の生活を書こうとすればするほど社会問題が入り込んでくる」と言われています。
社会問題を意識していなくても、例えば、介護をしなければならない母親がいれば、日本の医療制度や高齢者対策とその人の事情が絡んでくる。だから政治的な意識をもっているからそれが芝居の中にでてくるのではなく、社会的な存在である普通の人々の生活を描けばそこに自ずと社会問題がでてくる。人間を描こうとしたときにでてくる社会性、政治性はあえて排除せずにこれからも書いていきたいと思っています。
戯曲を書くときにはかなり資料を調べるそうですね。
井上ひさしさんや斉藤憐さんに比べれば調べて書く作家とはとても言えないですが、引っかかったところについて調べて、その現実からたくさんヒントをもらって書くタイプだと思います。調べると必ず想像を超えた現実に突き当たりますからね。大の大人がこんなことをやってるのかと、笑えるような発見も多くある。そういうものを見つけたときに書きたくなります。
私の書く芝居はわかりやすく、スタイルとして目新しいものではありませんが、内容では毎回冒険し、発見のある芝居をやりたいと思っています。『歌わせたい男たち』でも「新しいこと」に挑戦したつもりです。
永井さんの作品には魅力的な登場人物がたくさんでてきます。
例えば『歌わせたい男たち』の時には、校長先生は絶対に必要だし、反対派の先生、音楽の先生、また、推進派の先生も絶対必要という風に、題材を決めたときにどういう人物を出せばいいかおおよそ見当がつきます。それじゃあ舞台はどこにしようかと考えて、音楽室がいいのか、学校の廊下がいいのか、卒業式の式場がいいのか、案外、保健室がいいかも、とアイデアを詰めていく。
保健室に先生がいるためには体調が悪い人がいないとおかしいけど、それなら音楽の先生が緊張してということにしよう、その先生はきっと新任で元シャンソン歌手なんじゃないか……。なぜシャンソン歌手かと聞かれると困るんですが、ジャズシンガーでもないし、絶対に演歌歌手じゃない(笑)。
そうやりながら人物造形がおぼろげにできてくるんです。校長というのは何となくイメージしやすくて、多分、昔は組合運動をしていて反対派だったに違いないとか。推進派は昔だったら保守的な体育会系を想像しがちだけど、今なら新自由主義を標榜しているスマートな青年がいいかなとか。
それに合わせて配役を決めていくんですが、そこから先は、出演者の顔写真を壁にずらっと並べて貼ってそれを見ながら考えていきます。顔から出る情報って、作家の想像を超える場合が多いですから。「一見もの柔らかそうだけど実は頑固だ」とか、言葉で性格づけをすると、それだけにとらわれがちになってしまいますが、顔はもっとふんわりその人の宇宙を表している。そこから、いろんなヒントをもらうわけです。顔がないと書きにくいので(笑)、キャスティングが決まらないときには、自分の知り合いを思い浮かべながらあの人がこの役だったらとか勝手にイメージをふくらませています(笑)。
2006年の新作の予定は決まっていますか?
新国立劇場で『やわらかい服を着て』という作品(5月22日〜6月11日)を作・演出します。これはNGOの事務所を舞台にした青春群像劇で、イラク戦争がはじまる前から現在までの、メンバーたちの活動の様子を描きます。
秋には二兎社の新作を世田谷パブリックシアターで公演します(9月30日〜10月15日)。小説家の樋口一葉を主人公にした作品で、まだ仮ですが「書く女」というタイトルです。一葉には、小説を書く上でのターニングポイントがいくつかありました。まず彼女はお金を稼ぐために書こうとし、次にお金のための文学に嫌気がさして、雑貨商で生活を支えながら真の文学を目指しますが、その商いにも失敗して再び筆一本の生活に戻ることになる。24歳で亡くなる前、代表作を何作も立て続けに発表した奇跡の14カ月と呼ばれる時期には青年文士たちが彼女の周りに集まりサロンのようになっていた。そういう、一葉の日常の変遷を「書く」という観点から描き出したいと思っています。恋愛が書くことにどう影響したのか、商いの経験が、また、遊郭の女の手紙の代筆をしたことが書くことにどう影響したのか。生きる、生活するということが書くことにどう影響したのか。「書く女」の一人として、今度は一葉を体験してみたいんです。
Profile

永井愛(NAGAI, Ai)
桐朋学園大学短期大学部演劇専攻科卒。二兎社主宰。1981年、ともに卯年生まれだった芝居仲間の大石静と二人だけの劇団を設立。二兎と名付けた。91年、大石が脚本家に専念するため退団した後は、二兎社は、永井の作・演出作品を上演するプロデュース劇団として活動を続けている。社会批評性のあるウェルメイド・プレイの書き手として、今最も注目される劇作家の一人。卓抜なストーリー展開、人物造形の面白さ、軽妙な台詞、今日的なテーマ設定などで定評があり、94年からの「戦後生活史劇三部作」は、時代の変化を個人の生活の場から描く群像劇として、大きな反響を呼んだ。現在、劇作家協会の会長も務める。『兄帰る』で第44回岸田國士戯曲賞、『萩家の三姉妹』で第1回鶴屋南北戯曲賞と第52回読売文学賞など、受賞作も多数。

http://www.nitosha.net/

『歌わせたい男たち』
(2005年10月〜11月/ベニサン・ピット)
出演:戸田恵子、大谷亮介、小山萌子、中上雅巳、近藤芳正

©Nitosha

*戦後生活史三部作
第二次世界大戦後に日本を見舞った3つの大きな価値観の変化(軍国主義から民主主義へ、日米安保闘争、高度経済成長)が普通の人々の生活に巻き起こした混乱を描いたコメディ。

第1部『時の物置』
(1994年)
高度成長期の拝物主義に踊らされる新庄家の物語。

1961年、安保反対闘争の余熱を残しつつ「所得倍増だ」「レジャーブームだ」「テレビだ、電気洗濯機だ、電気冷蔵庫だ」と時代は東京オリンピックを控え、高度成長期に向かいはじめていた。貧乏だけれど誇り高い「新庄家」にはまだテレビがない。ところが、納戸に下宿する謎の女、ツル子がテレビをもらってしまい、近所の面々が入り浸る始末。新庄家の主婦でもある、延ぶおばあちゃんは気が気ではない。娘の詩子夫婦がツル子にテレビを贈ったのは、何か下心があってのことなのだ。息子の光洋は中学教師の傍ら私小説を書いている。孫の秀星は大学の自治会委員長選に打って出る。孫の日美は新劇女優を目指している。それぞれの忘れられない「時」が新庄家の茶の間に刻まれてゆく。

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第2部『パパのデモクラシー』
軍国主義から民主主義への転換で揺れる神主一家の物語。

1946年、敗戦直後の東京。神主の木内忠宣は軍国主義の手先だったと非難され、デモクラシーの新時代においては、はなはだ分が悪い。長男はシベリヤ抑留中で、この食糧難に、長男の妻のふゆ、次男の宣清と居候の本橋(元特高警察官)を抱えている。そこへ、かつては国防婦人会のメンバーだった緑川が民主的活動家に転身し、戦災で住まいを失った人たちを預かれと、七人も押しつけてゆく。中には東宝映画で争議中の助監督・横倉たちもいて、何が民主的かをめぐり、たびたび忠宣ともめるのだった。ふゆはすっかり横倉に感化され、待遇改善を求めてストライキを始める。宣清は闇市をうろつきだした。そんな中、養子の千代吉が復員してくる。ふゆはオツムの弱い千代吉をオルグしようと民主主義を説くのだが……

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第3部『僕の東京日記』
(1996年)
70年安保の学生運動に乗り遅れたお坊ちゃん学生、原田満男の下宿屋物語。

1971年の東京。大学生の原田満男は東京に実家があるのに、あえて四畳半一間のアパートに下宿した。あの騒然たる学園紛争には参加しきれなかったが、もうノホホンと父母の保護下にはいられなくなったのだ。バイトで自活し、せめて「おぼっちゃん」というイメージだけでも払拭したかった。だが、このアパートで満男はニューレフトの活動家井出の同棲相手、のり子と親しくなり、爆弾闘争に巻き込まれることになる。一方で猫嫌いのサラリーマンと猫好き女のもめ事や、ラブ&ピースのコミューンを目指すヒッピーたちともかかわらざるを得ない。自立するどころか、満男の生活はますます混乱をきわめだした。