Review
天上のすぐ下──坂手洋二『屋根裏』 →今月の戯曲
ロジャー・パルバース
屋根裏に引きこもる少女が客席のなかに立ちアンネ・フランクについて語りだす。現代日本に暮らすであろうこの少女は、自分の好きに人生を選択することができる、アンネ・フランクのそれとは似もつかぬような。だが少女はアンネ・フランクの自由をうらやむ。少女は、自由とは何かを自分自身に、そして私たちに問いかけてくる。
こうした場面で「屋根裏」は高揚し、私たちが乗るべき自己反省という乗り物と化す。その意味では、同様の選択をした青年のみならず屋根裏に閉じこもるこの少女のほうが、屋根裏から彼らを救おうとする「自由な人々」よりも、社会の落とし穴をより意識的に捉えているといえる。
この空間には精巧な装置が備えられている。文字通り大きな壁の穴だ。そして演出家・坂手はすぐれた手腕でこの穴を利用し、穴は時に驚くほど柔軟なものとなる。屋根裏(attic)であるが、それは屋根のすぐ下にあるものでなく、劇中のあらゆる場面で地下になったり、空のてっぺんであったり (さらに「弟」が飛び出すとそこには大地が広がっていたり)、戦争中の防空壕として現れたりもする。登場人物が「胎児も一種の“引きこもりだ”」と言えば、屋根裏は突如として子宮にも変わる。
「引きこもり」はこの作品の軸となる言葉だ。社会から退き、部屋に隠る日本の若者たちのことだ。彼らはたいがい両親と住んでいる。しかし冒頭から明らかだが、坂手は現代日本の習俗に向き合う単なる社会の解説者をはるかに超えている。あるとき少女の女教師が家庭訪問する。むやみに孤立せず学校に戻るよう少女を説得しようとするが、ここで笑いを誘う場面に変わる。“大人”社会のいじめに悩むこの教師は、ついに感極まり、少女に許しを請いながら、外界をシャットアウトしてしまいたいという自分の引きこもり願望を吐露する。
日本人は苦手だと思われがちのブラックユーモアが、あらゆる場面で提示される──ある青年の過保護な母親が登場する場面でこの母親は、息子が深刻な神経症や広場恐怖症に悩まされていても、とにかく自分のそばにいてくれればそれでもいいと思っている。テレビの刑事番組のキャラクターにあこがれる二人の刑事。段ボールの「屋根裏」に暮らすホームレスに近い家族。2023年のニュース番組。吹雪に遭った山小屋。棺と化した屋根裏にいる“死体”の大げさでコミカルな演技。屋根裏が時代劇パロディーの舞台にもなり(サムライは部屋が狭くて刀が抜けないが!)……。坂手の屋根裏はいわば、日本社会の縮図でありながら、明らかに私たちが生きる時代の生活そのものを示している。
音響・照明を含む坂手の空間操作は、実に鮮やかで独創的だ。身体的であろうが、精神的であろうが、屋根裏という領域が光と音によって空間と場面の意図を明示し、われわれの心理をはっきりと浮かび上がらせる。
役者の肉体と発声も見事だ。全体の調和をとってもスタイルといいリズムといい、すばらしい一体感をもった彼らの動きは、非常に明快でありながら無駄に気どることのないジェスチャーをもって、彼らのいる屋根裏をいっそう明確なものにする。彼らの身体法は、私が何年も前に見たポーランド・ヴロツワフのイェジィ・グロトフスキー劇団を思わせるものだ。
この作品で坂手は日本から遠くを見つめている。茶の間で見られる低俗な日本のテレビ番組があるかと思えばカスパー・ハウザーなどの歴史的人物を描いてみたり、世界から不本意にも隔離されたアンネ・フランクまでも登場させたりする。女教師が訪問する場面で少女がベッド脇の小さなスタンドをプラネタリウムのプロジェクターに変えると、劇場全体が満天の星であふれる──その瞬間、坂手の屋根裏が私たちの想像力をどこへでも連れて行ってくれることに気づく。
坂手は狂気とシリアスの要素を組み合わせ、リリカルな日常を生む。特に美しいモノローグが二つあった。ひとつは「夢は続く……終わることなく……」と、私たちに語りかける。私たちは、屋根裏で自殺した青年が手に持っていたのは、武器でも棒でもなく、絵筆だったことを知る。そして、坂手の屋根裏がいたるところにあるのなら、屋根裏の壁に描かれた若い芸術家の自画像はまさに、何万年も前に古代の人々が洞窟に残した壁画のごとく、私たち一人ひとりの肖像なのだということを知る。
坂手の「屋根裏」は、あらゆる意味でいたる所に存在するのだ。