国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan

Artist Interview アーティストインタビュー

2005.1.19
上妻宏光に聞く

A shamisen player from the rock generation,
Hiromitsu Agatsuma talks about taking his shamisen music to Europe

play

ロック世代の津軽三味線奏者
ヨーロッパ公演に臨む上妻宏光に聞く

上妻宏光

「三味線」は様々なジャンルの音楽を育んできた日本の伝統的な弦楽器のひとつである。三味線の中でも胴が大きく、棹も弦も太い「津軽三味線」は、日本列島の北部、青森県津軽地方の門付け芸から生まれたものだ。そもそもは民謡の伴奏楽器として用いられていたが、それが独奏楽器として舞台で演奏されるようになったのは半世紀ほど前から。技巧とアレンジの妙で聴かせる津軽三味線の即興演奏はジャズに通じるといわれ、ロック世代の聴衆にもアピールしている。若い演奏家たちは欧米の音楽も取り込み、三味線で現代を表現しようと模索している。上妻宏光はその最前線に立つ演奏家である。
聞き手:奈良部和美 インタビュー:2004年12月10日

三味線を始めたのは何歳ですか。
6歳です。父が趣味で三味線を習っていました。古典芸能のように代々三味線をやっている家系ではありませんが、父の弾く生の音を聞いて育った影響は大きい。津軽三味線は弦を叩く奏法なので、リズムがあってスピード感がある。その音色にもとても引かれました。
上妻さんの世代では、三味線を習っている小学生はとても珍しかったのでは。
そうですね。自分から三味線をやっていると話したことはありません。三味線は年輩の方がやる楽器というイメージがある。周りに習っている子もいませんから、恥ずかしいような思いがありました。平日は時間があれば練習していましたから、同世代の子とはあまり遊びませんでした。10歳ごろだったか、天才ちびっ子を紹介するテレビ番組に出て、三味線をやっていることがばれてしまった。友達には『すごいな』と言われました。
プロの演奏家になろうと決断したのはいつごろですか。
14歳。全日本津軽三味線競技大会というコンクールで優勝したのがその年齢でした。自分の才能はゼロではないと感じました。ただ、14歳にしてはうまいというレベルなので、大人の世界で通用するか挑戦したいと思いました。僕の住んでいた茨城県では、うまい人は少ない。一流の演奏家が集まっているのは、やはり東京です。うまい人の演奏が身近に聞けて、人とのつながりも作れるだろうと考えて、中学卒業と同時に東京に出て、高校に通いながら三味線の勉強をしました。
先生について勉強したのですか。
独学です。先生がお弟子さんたちを組織する会に入って勉強するのが一般的ですが、そうした会に入ると、会の活動に時間をとられます。プロの演奏家を目指していたので、伴奏の力をつけなければならないし、多くの曲も覚えなければならない。学ぶことが多くて、僕には会の活動に割く時間はありません。技術的に大したことのない人たちが、組織の力で威張っていることにも、考え方の違いを感じました。当時も、会に属さないプレーヤーはいましたが、組織を破門された人が多かった。師匠の考え方とは違う音楽活動をして干された人たちです。僕もロックバンドに入りましたから、師匠がいたら問題が起きていたでしょう。技術を磨き、表現の幅を広げるには一人の方がやりやすかった。
日本の伝統的な音楽の世界では師匠とのつながりで演奏活動ができる。アウトサイダーが生きにくい構造になっています。苦労の多い選択だったのではありませんか。
プロの演奏活動をしている先輩の仕事について行ったり、浅草にある民謡酒場で演奏したり、口コミで仕事は徐々に広がりました。古典が出来ないからロックに逃げたと言われたくないので、青森県弘前市で毎年行われる津軽三味線全国大会に出場し続けました。実力があれば優勝できるという世界ではないですから、意地でも有名な先生のお弟子さんに勝ちたい。相当うまくないと優勝できないので、懸命に練習しました。津軽三味線も師匠が違えば演奏法も違って、いろいろな流派があります。いろんな流派の楽譜を勉強しました。カセットテープやSP盤など資料を買い集めて、ルーツといわれる演奏家のフレーズを学びました。津軽三味線全国大会は1回優勝すればけじめになると思ってましたが、1995年、96年と2年連続優勝しました。
意志が強くなければ、できないことですね。
目標を大きく持っていたのが良かったと思います。津軽で生まれた津軽三味線は、津軽の人間でなきゃ表現できないと地元の人に言われたことも、僕には原動力になっています。生涯、津軽三味線を弾き続けると思いますが、死ぬまで、『おまえは茨城の三味線だ』と言われ続けるでしょう。でも、津軽三味線の精神性を理解し、津軽三味線を愛していることにかけては誰にも負けない。津軽の民謡というカテゴリーで考えず、世界の中の楽器のひとつで、日本人の上妻が音楽を表現するという意味では何をやっても問題はないと思います。
今でこそ、三味線でロックを演奏することも、異分野の音楽と共演することも当たり前になりましたが、上妻さんがロックを始めたころは風当たりも強かったのでは。
『三味線じゃない』と言われて厳しかったですね。ライブをやっても客は入らない。三味線は着物を着て、こういうサウンドだという固定観念があって、違うアプローチをすると批判される。変わったのは、ここ4、5年です。それまでも、三味線で新しい表現をしようという試みはありましたが、『津軽じょんから節』のバックに同じビートでドラムをつけるといった形が多くて、アンサンブルにはなっていません。僕は小学校のころからラジオの深夜番組などで、ロックやブルース、ユーロビートを聞いていて、三味線で合わせられそうだと思っていました。運良く17の時にロックバンドから誘いがあり、実際にやって三味線でもロックができると確信しました。毎回のライブが実験の場でした。ロックが生まれた時から三味線が入っていたわけではないので、民謡の音色やフレーズそのままでは当てはまらない部分が出てくる。バンドの中でどういうバランスで奏でるか、音を1つ変えることで広がる音楽を実感しながら、自分のスタイルを追求していきました。
古典から新しい音楽に活動の重点を移したということですか。
古典は時間をかけて築き上げてきただけに、壊せない型があるでしょう。壊す必要のないものもあります。一方では型を壊しながら新しいものを作っていかないと、今を生きる人間の感性に合う音楽ではなくなってしまう。守る一方では演奏者も聴衆も減ってしまう。古典を勉強したい思いは強いのですが、それ以上に若い世代が受け入れやすい、身近に感じてもらえる音楽を作っていきたい。人と違うことをやると風当たりが強いのは、どの時代も同じです。多少の前例があれば、後に続く者はやりやすいでしょう。僕は前例を作っていく使命があると思っています。
海外で演奏しようと考えたのはロックを始めてからですか。
高校を出たら米国に留学したいと考えていたんです。初めて聞いた海外の音楽が米国の音楽でしたし、日本のポップスは欧米の影響を多大に受けています。オリジナルを作る国、人間、環境を体験したい。そこで、どういう影響を受け、僕の弾く三味線がどう変わるか挑戦したかった。ところが、18歳で本格的なプロ活動を始めたために実現しませんでした。しかし、いずれは海外で自分のコンサートをやりたいという目標はありました。海外公演は1990年から年に1、2回しています。民謡にユニットやロックバンドの一員として香港や中南米にも行きましたが、どこでも見たことも、聞いたこともない楽器にとても興味を示してくれて、演奏後の反応もよかった。三味線が弦楽器でありながら打楽器的な強い音のするところに引かれるのだと思います。確実に日本を感じる楽器なんですね。
そうした海外の反応は演奏スタイルに影響しましたか。
ニューヨークのジャズクラブで飛び入りで演奏したことがあります。お客さんは誰も僕のことを知らない。僕が持っているのは初めて見る楽器です。ブーイングが来るのか、拍手をもらえるか、実力を試せるいい機会でした。最初は楽器のルックスと音に驚く。そしてジャズとセッションできることに驚く。僕自身も三味線の可能性を肌で感じることができ、いい勉強になりました。ただ、もの珍しさだけで活動できるのは数年です。三味線でジャズを弾けますという程度なら、ギターでいいということになりかねない。海外のサウンドに合わせるのではなく、日本独自のサウンドをベースにしたオリジナリティが必要です。ですから、お客さんはどこで反応したのか、どう感じていただけたのか、演奏しながら感じ取ったものを集大成して曲を作り、アピールできるようになりたいと思っています。三味線に対する固定観念のない海外での公演は、オリジナルを作るうえでとても重要です。
2005年のツアーのタイトルを「伝統と革新・・・そして伝承へ」としたのは、海外公演で確認した日本のオリジナルを追求しようということでしょうか。
海外に行けば行くほどルーツを考えます。4枚目のアルバムまではジャズやフュージョン、ロックのリズムを主体に作曲しましたが、今回発表する5枚目では民謡のリズムや香りを使って、アコースティックのみの編成のサウンドを作りました。日本で養ったDNAを出していく時代が来たと思います。文化や音楽では海外のものをどんなにうまく取り入れても、まねしている限りかなわない。『間』といわれる日本音楽の独特のリズム感や、きめ細かさ、奥床しさといった日本の文化は、外国の人の体にないものです。今までダサイと避けてきた日本の文化を認め、消化し、現代の感覚でよみがえらせることで、日本人にしか表現できないものが確実にできると思うんです。ネットやメールでどんどん狭くなる地球が見落としている、季節感のようなものを表現したい。人間らしさ、ぬくもりを感じるサウンドを作っていこうと思います。2005年のヨーロッパ公演が新しいサウンドの海外でのお披露目になります。ヨーロッパは伝統的なものを受け入れる土壌があると思いますが、三味線や太鼓やピアノをメーンにした耳慣れないサウンドに聴衆がどう反応するか、新たな挑戦です。
30代の上妻さんの音楽は今後も様々に変化していきそうですね。
今度のサウンドは3、4年は追求するつもりです。でも、5、6年後にはエレクトリックな音楽に行くかもしれません。でも絶対に三味線は手放さない。うまく言葉にすることは難しいんですが、三味線の音に僕の体が共鳴するというか、僕の体と三味線は周波数が合うんです。僕の体調の変化、練習不足を素直に音で返してくる。どんなに弾いても飽きないですね。日本の音階は基本的に5音階ですが、12音階に比べれば7つの音を使ってないんですから余裕があります。例えば、2つ音を加えればスパニッシュな感じが出せる。共演者が代われば新たなフレーズが生まれる。チューニングを変えたり、奏法や楽器を開発したり、三味線の可能性を広げるためにできること、やりたいことはたくさんある。50歳までに、考えていることには全部挑戦するつもりです。
Profile

1973年生まれ。木下伸市(木乃下真市に改名)に続く世代のトップランナー。6歳で津軽三味線を習い始め、1995、96年の津軽三味線全国大会で2年連続優勝。ライブでは卓越したテクニックで、古典とジャズやロックの手法に学んだオリジナル曲を演奏。国内外で他ジャンルのミュージシャンとのセッションを数多く重ねている。また、2003年には自身のバンドでアメリカ東海岸ツアーを行い、成功をおさめた。髪を茶に染め、ピアスをし、革ジャンを身につけて演奏するなど、ファッションでも若い世代にアピールしている。
http://www.agatsuma.tv/

5枚目のアルバム「永遠の詩」(東芝EMI)

上妻宏光バンド・津軽三味線公演(「日本・EU市民交流年」国際交流基金関連事業)
1/12 バルセロナ・ラウディトリL'Auditori,Barcelona
1/14 リスボン・オルガ・カダヴァル文化センターCentro Cultural Olga Cadaval,Lisbon
1/16 マルセイユ・サル・ジノ・フランセスカティ(コンセルヴァトワール:アネックス)SALLE ZINO FRANCESCATTI (Conservatoire Annexe),Marseille
1/19 Conservatoire de Musique Auditorium,Luxembourg
1/21 Auditorium du Passage 44,Brussels