野村萬斎

現代に呼吸する狂言師野村萬斎が挑む 新たなトータル・シアターの現在

2007.07.30
野村萬斎

野村萬斎Mansai Nomura

1966年生まれ。狂言師。重要無形文化財総合指定。人間国宝・狂言師野村万作の長男。70年『靭猿』で初舞台。「万作の会」での公演活動のほか、87年より狂言「ござる乃座」を主宰し、年2回でより親しみやすい狂言演目を上演。ホールでの狂言上演や国内外のフェスティバル参加などで狂言の普及に努める傍ら、日本伝統芸能と現代劇との融合を目指して『藪の中』『RASHOMON』『まちがいの狂言』『敦─山月記・名人伝─』『国盗人』などを演出し、多大な評価を得ている。94年文化庁芸術家在外研修制度でイギリスに留学。俳優としてテレビドラマ、映画、ジョナサン・ケント演出『ハムレット』や蜷川幸雄演出『オイディプス王』など舞台などでも活躍。02年より世田谷パブリックシアター芸術監督。05年『敦─山月記・名人伝─』の演出・構成で紀伊国屋演劇賞、朝日舞台芸術賞を受賞。

狂言の家に生まれ、幼い頃から古典の修業をする一方、海外留学を経験するなど、新世代の狂言師として古典の知恵や発想を現代に生かそうとさまざまな試みに挑む野村萬斎。2002年には公立劇場「世田谷パブリックシアター」の芸術監督に就任し、「伝統演劇と現代演劇の融合」を掲げて5年。「リチャード三世」を翻案した「国盗人」で新たなスタートラインに立った彼のトータル・シアターの世界とは?
聞き手:奈良部和美 インタビュー:2007年7月8日
萬斎さんは古典芸能の世界から公立劇場の芸術監督に就任されたはじめての方ですが、周囲の反応はいかがでしたか?
世田谷パブリックシアターとの関係で言えば、劇場の開場当初より、狂言の公演やワークショップなどを通して、身近な存在としてありましたし、上演している演目にも共感するものが多かったので、それぞれに親しみ感はあったと思います。異なる世界の者への不安もあったとは思いますが、それ以上に大きな期待を感じました。
芸術監督に就任されて5年目になります。当初の芸術方針として、「地域性、同時代性、普遍性」「伝統演劇と現代演劇の融合」「総合的な舞台芸術“トータル・シアター”を指向する」という3原則を掲げられています。この5年間でこうした方針に何か変更はありましたか。
これは世田谷パブリックシアターの方針であると同時に、私自身の理念でもあるので、今も変わりはありません。古典芸能の家に生まれた人間の宿命として、「伝統演劇と現代演劇の融合」は常に考えていることですし、同時に公共劇場の芸術監督として「公共性」とは何かを考えたときにも通じることだと思っています。つまり公共性とは時代を反映した視点と、時代を超越する普遍的な視点、その両方を念頭に入れて考えていくことであり、まさしく古典芸能のあり方と同じなのではないでしょうか。
私自身の狂言以外の活動も同じ方針でやっていて、シェイクスピアの『間違いの喜劇』を翻案した『まちがいの狂言』は、日本だけでなく、アメリカ、ロンドンなどでも上演しました。イギリスでは狂言風のシェイクスピアに観客・メディアは驚いたようですが、大勝利(triumph !)と賛辞をくれましたし、アメリカの観客は手放しに喜んでくれましたね。
それから、芸術監督に就任してからですが、中島敦の小説を題材にして、その作品世界と作家の生涯を照らして再構成した『敦─山月記・名人伝─』を狂言師だけで上演しました。現在、上演中の『国盗人』は、『リチャード三世』を翻案したもので、狂言師だけでなく、白石加代子さんを始め、新劇の俳優などさまざまな身体性をもった俳優・パフォーマーが出演しています。
実は幕を開けてからもずっと手直しを続けています。自分がリチャード=悪三郎役で出演して演出もしているので、作品を客観視するのに時間が必要だということもありますが、狂言には演出という役割があるわけではなく、観客を前にして演じ、観客とコミュニケーションをとりながらつくっているので、今回もそのように作品を練っていきたいという思いがあるからです。作品づくりは一つの直情的な発想でつくる勢いも大切ですが、客席とやりとりしながら熟成させる時間も必要なのではないかと思います。
6年前に初演した『まちがいの狂言』と今回の『国盗人』は、いずれもシェイクスピアを題材にしています。萬斎さんの中ではシェイクスピアに近づいていっているのか、それともシェイクスピアを狂言に引き寄せているのか、どちらでしょう。また、6年前と今ではアプローチの仕方に違いがありますか?
気持ちとしては、シェイクスピアに近づいていっている感じです。『まちがいの狂言』のときは、最初はシェイクスピアと狂言がこれだけがっぷり四つに組めるとは思わずに試行錯誤しました。狂言師だけで演じていたので、狂言の表現としてはこうだというやり方でつくっていったわけですが、シェイクスピアの側からするとそれで成り立っているのかどうかわからず、手探りで、シェイクスピアに近づいていった感じでした。
『国盗人』の場合は、そういう意味で言うと、狂言だけではないさまざまなフィルターを通しているので、どちら寄りとは言えないほどのオリジナリティが生まれていると思います。狂言師である私がつくるという意味では、狂言の発想から立ち上げるシェイクスピア作品ということではあるのですが、そこに先ほども申しましたが、白石さんを始め、新劇、小劇場のベテランから若い役者、そしてパフォーマーまで、あらゆる出自の役者が加わり、音楽も歌舞伎囃子を使うなど、これまでの枠組みを超えた見たことのない新しい作品になっていると思います。
しかし、その分、どこに座標軸をおけばいいかわからない状況になっているので、それは私の中にあると信じてやるしかないと(笑)。もちろん、狂言の手法で演出すると言えば、みんな「狂言をやらなきゃいけないんだ」という覚悟を持ってくれたとは思いますが、今回は、そうではなくて、あらゆる方向にベクトルを出してみて、ようやくみんなで共有すべき座標軸が定まったという感じです。
座標軸を共有するために何に一番力点を置きましたか。
『リチャード三世』は残酷な悲劇だと言われていますが、読んでみるとそんな風には思えない。今回、『国盗人』として翻案してくださったシェイクスピア研究家の河合祥一郎さんによると、中世の劇の流れで出来ているが、最後の独白のみルネサンス期以降の「近代的自我」を意識した台詞になっているそうです。その最後の独白から発想してしまうために冒頭の中世劇的な所も近代的リアリズムのせいで残酷な悲劇になってしまう。そういう解釈やイギリス演劇のリアリズム、更にナチュラリズムが障壁になっているのではないかと思いました。
それで「リチャード三世」は可笑しい、ということを日本のシチュエーション・コメディーである狂言の手法でアプローチしていきました。
ただし、「可笑しさ」ばかりを強調してしまうと、観客の心に残るのはただ何となく「ああ、面白かった」という印象だけになってしまいます。ですから現代の人間が上演するからには、登場人物の内面(心理描写)にも深く迫ることも必要になりますが、こちらの自我でまとめ過ぎてしまうと、逆に「ああ暗い、重い、残酷」で終わってしまい、作品に入り込む余地もなくなって、ちっとも面白くない。ですからまず観客とのやりとりができる場をつくって、それで満たせない近代的な自我というものを持ち込んでいくと、程良いものになるのではないかと思っています。
この作品のキーパーソンの一人として、白石加代子さんが悪三郎(リチャード三世)に関わる女性の四役をすべて一人で演じています。このアイデアはどこからきたのでしょう。
『まちがいの狂言』の作者の故高橋康也先生が、将来『リチャード三世』をやるにあたっては「女」を工夫したいという言葉を遺されていて、それを河合さんとどうしたらよいか話し合いました。もともと私は、シェイクスピアに登場する女性の人物描写は男性に比べて弱々しく、一見、印象も薄いような気がしていました。例えば、夫を殺したリチャードの妻になるアンにしても無垢な役ということになっていますが、それは裏を返すとそうせずには生きられない社会背景と女性の弱さ、愚かさが現われているということですよね。だからこそ悪三郎の犠牲者として翻弄されるかわいそうな女たちということになるのかもしれませんが。
それで、シェイクスピア自身も示唆しているような、四人の女を合わせて一つの女性像とするという考えを逆転させて、一人の女性が四役をやる、女性という総体でもって悪三郎と対峙させるという構造にしました。その4役をこなせる女優は白石さんしかいないと思います。でも、リチャード役としては、非常にくたびれますよ。対戦する女性キャラクターが全て白石さんですから、少しも気を緩ませることができないんですから、口説くのにも相当に力がいる(笑)。
悪三郎(リチャード三世)と杏(アン)が最初に出会うシーンはとても面白かったですね。
あそこであんなに観客が大笑いしたのは期待以上でした。私はあのシーンは、リチャードによって夫(エドワード)と義父(ヘンリー六世)を殺されたアンに、同情するところではないと思っていました。原作では、義父の棺が運ばれてきて、それに付き添ってきたアンが嘆き悲しみ、リチャードをなじるという設定になっています。それは恐らく、アンが地位を喪失したことに対する嘆きを表しているのだろうと思いますが、現代ではそれはちょっとわかりづらい。なので、夫の棺に変えて、夫の死に対して悲嘆にくれるという設定にしました。
杏は十代で嫁いで、まだ世の中も知らないし、自分はまだまだイケていると思っているのにもう未亡人になってしまったわけです。その時に、死んで口もきけなくなった夫と、目の前で自分を口説く悪三郎と、どちらかを選べと言われたら?というシチュエーションをつくりだしたかった。それであのような演出になったのですが、その意図が観客に伝わったのだと思います。
舞台美術は能舞台の空間に似た形になっていましたが、それは萬斎さんの拘りですか。
いいえ、舞台美術家のアイデアです。『法螺侍』『まちがいの狂言』と能舞台の構造を使ったので、できれば変えたかった(笑)。でもこの芝居は、場面ごとにつくると書割のセットみたいなものがたくさん必要になるので、私からは抽象的でシンプルな空間にして欲しいということをお願いしました。
シェイクスピアの作品はそもそもグローブ座(円形の広場に張り出した裸の四角い舞台)で上演していたわけで、そういう流れからすれば抽象的な場所でやるべきものだと思います。シェイクスピアと能狂言が合うのは、グローブ座と能舞台がもともと非常に近い空間構造をしているということもあるのではないでしょか。『まちがいの狂言』をロンドン・グローブ座で上演したときにも、劇場のイギリス人スタッフよりも、能舞台の使い方を知り尽くしている私たちの方が構造を理解していて、ああいう裸舞台で演じるときには自分たちの方法が有利なのではないかと思いました。
今回の舞台を見ていると、古典の手法を取り入れた部分がかなりあります。古典と言っても、萬斎さんのフィールドである狂言だけでなく、例えば、初めに軍旗が登場するシーンは京劇のようにも見えましたし、出入りの仕方はイタリアの古典仮面喜劇のコメディア・デラルテにちょっと似ている気がしました。御簾の向こうで首を落とすシーンがありましたが、あからさまに出てくるのではなく、どこか人形振りのようで文楽に近いのかなとも思いました。
そういうふうに見ていただけたのはとても嬉しいです。音楽にも歌舞伎のお囃子や雅楽の要素を取り入れたところがありますし、影法師の役は歌舞伎の黒子にコメディア・デラルテのマスクを着けました。今回はそれほどでもありませんが、私は演出に影絵を使うことも多くて、それはワヤン・クリのように見えるかもしれません。
つまり、萬斎さんが「伝統演劇と現代演劇の融合」という場合、伝統演劇というのは能狂言だけを指しているわけではないということですか。
91年の『法螺侍』(『ウィンザーの陽気な女房たち』」が題材)と2001年の『まちがいの狂言』は、まさに「狂言とシェイクスピアの融合」に立脚し、狂言がいかにシェイクスピアに近づけるかということを試行錯誤していました。
しかし、『国盗人』は、立ち位置がまったく違います。狂言だけでなく、日本の古典だけでもなく、様々な舞台芸術のエッセンスを盛り込んでいます。『リチャード三世』のような複雑な題材になると、それを狂言の世界だけでやるよりももっと効果的な方法を考えねばなりません。扇ひとつまで意識しながら、使えるものは何でも使って、日本の古典でも例えば横笛を尺八のように使ったり、雅楽風に奏でてみたり、今、私たちが持ち得る限りの広がりの中で表現しなければならない。それこそモダン・ジャパンという感じでしょうか。
音楽については、初めはなぜ能の四拍子を使わないのかなと疑問に思いました。
高橋康也先生もおっしゃっていたことですが、シェイクスピアという大樹を剪定して、狂言という小さな器に盆栽のようにきれいに盛れば、狂言的美として成り立つと思います。『まちがいの狂言』ではどちらかというと、それが上手くはまりました。
しかし、今回の『リチャード三世』は原文を読んでもわからなくなってしまうような複雑な作品ですし、例えば薔薇戦争を知らない人には、それをどう剪定してもそもそも器に収まらない。もし台本を刈り込んで、四拍子に当てはめて、無理矢理小さく収めて象徴的にやってしまったら、きっとこの煩雑な、ある種猥雑な味のある作品の面白さがなくなってしまう。
つまり、「新作能リチャード三世」というやり方だと、リチャード三世の亡霊が出てきて、俺は誰を殺した、やつは誰を殺した、と語って地獄の業火に焼かれておしまい、となってしまうわけです。それでは『リチャード三世』を料理したとはとても言えません。それで、あえて能狂言という枠を外して、多く人が共通認識をもてる歌舞伎的なもの、コメディア・デラルテ的なもの、京劇的なものなどたくさんの調味料を使って、今までにない味付けに仕上げたのです。それぐらいシェイクスピアは大きく、饒舌であり、いろいろな味を持っていると思います。
今までの経験や蓄積を総動員したという感じですね(笑)。
そうですね。はじめの頃は、良い意味で、おもちゃ箱をひっくり返したみたいだという感想をいただきましたが(笑)、公演を重ねるうちにひっくり返した感は薄くなりまとまってきています。
古典の世界では「一期一会」という、演じることの一回性がとても大きな意味を持ちます。こうした新作は古典の一期一会とは異なり、毎日決まった時間に同じキャラクターを演じることになるわけですが、ご自身の中ではどのように整理していらっしゃいますか。
古典には洗練された一つの型というものがあり、その型に技を用いて自分を集中させていくことによって、そのキャラクターができ上がってきます。しかし、新作の場合は、これから洗練していくわけですから、ある程度時間を要するものだと思います。新作を演じていると、型がないのである意味で何でもありになり、Aの演じ方、Bの演じ方、Cの演じ方と、どこに中心をおいて演じればいいのか、どこに着地すればいいのか、違和感をもつことがあります。今はまさに試行錯誤をしながら演じているという感じです。
同時に、新作も洗練(成熟)ということを目指していくことになります。
そうですね。ですから徐々に私が目指す方向に向けて本当の囲いをつくっていかなければいけないわけです。でも最初から私の思い込みだけで囲いをつくって、そこに役者をはめ込もうとすると役者は息苦しくなる。広がりを感じない芝居はそこに陥りがちです。だけれど、囲いが緩すぎると、相手の囲いとの接点が見つけられないのでそれでは役者として楽しめない。今は、門戸は開いておかないといけないと思うのですが、徐々にその囲いを固めるために、どこが緩いかチェックしながら臨んでいます。
伝統芸能と現代演劇の融合を通じて新たな日本の舞台芸術を創造したいと言われています。いまの段階で萬斎さんの中で見えている新たな日本の舞台芸術とはどのようなものですか。
これまでもトータルな意味でのジャパニーズ・シアターを標榜しておりました。今回の『国盗人』で、まだ駆け出しではありますが、ひとつの形が提示できたのではないかと思っています。
日本の古典芸能のもつ知識や方法論だけに拘らず、面にしても日本の能面や狂言面だけがマスクではないので、コメディア・デラルテなどにも学びながら新しいマスクを創造するような、醤油とマヨネーズを混ぜて新しい味を出すようなアプローチをしていきたいと思っています。
日本の古典に学んだトータル・シアターと言うと、例えば、フランスの太陽劇団やピーター・ブルックなどの先人たちが海外にいます。
友人が、地元には太陽劇団のことを「フェイク・ジャポン」だと批判する人がいると話していましたが(笑)、それは批判するようなことではないと思っています。事実、僕自身も太陽劇団やピーター・ブルックに相当影響を受けています。今ならサイモン・マクバーニーやロベール・ルパージュのような人たちに『国盗人』を見てもらいたいし、実際に、今名前を挙げた人たちの前でやれる作品をつくりたいと思っていますが、とにかくフェイクであろうが何であろうが、生かせるアイディアをどん欲に取り入れた者が勝ちだと思っています。逆に言うと、あれだけのアーティストに影響を与える宝の山が日本の舞台芸術にはあるわけです。それを海外のアーティストに使っていただくことはとてもすばらしいことですが、それならなぜ日本人がそれを生かして世界に出ていかないのでしょうか。
歌舞伎の中村勘三郎さんのように仮設劇場まで持ち出して海外で歌舞伎公演をするというアプローチもありますし、私も古典の海外公演をやっていますが、それだけではなくて、シェイクスピアという共有できる土俵の上で能狂言のもっている力を試してみたいと思っています。
新作は必ず海外が視野に入っているということですね。
そうです。『敦』という作品は、漢字という文字・字体をたくさん使って遊んでいますので、漢字圏の国に持って行ければと思っていますし、アルファベットでは絶対にあり得ない漢字文化から生まれたこの作品を、西欧の方々にもぜひ見てもらいたいと思います。
ブルックや太陽劇団などがやっているトータル・シアターと狂言師である萬斎さんが目指すトータル・シアターは同じなのでしょうか。それともどこか違っているのでしょうか。
精神性で言うと、日本人の私たちは、大きな器よりも小さい器の世界を表現するのに向いているように思います。小さいけれど、深いというような。ですから、演劇の百貨店のようなシェイクスピアという大きな器よりも、前作の『敦』や、現代演劇での私の初演出作品である芥川龍之介の『薮の中』のような小さな緊密な世界を扱う方が合っている。しかし、そうした作品では精神的な比重が大きくなりすぎて、エンターテイメントにはなりにくい。ですから、私が目指すトータル・シアターでは、大きな器と小さな器の両方の世界を表現していきたいと思っています。
それと、付け加えるなら、私の発想の基点には、この現代に狂言師の家に生まれたという自分のアイデンティティの問題があります。なぜこの時代に狂言をやらなければならないんだ、というところから出発して、なぜ自分が生きているのかを問い続けているわけです。例えば、『まちがいの狂言』には双子が出てきますが、「自分が二人いたらどうなっちゃうの?」というのが発想の原点です。そういう意味では、今回の『国盗人』は、初めてその問いかけから少し離れた作品かもしれません。
先ほどの話とまったく逆転してしまいますが、「近代的自我」とはかけ離れた狂言を方法論として使うことが、最終的に自分の自我を考える機会になっているのです。例えば私たちがわざわざ劇場に行って芝居を観る意味はどこにあるのでしょうか。それはつまり、パブリックに提示されているものを共有して最終的には自分自身に持ち返る──そういうパブリックから入って、プライベート、そしてアイデンティティへと思考を循環させる場が劇場なのではないかと思います。だからこそ、最初から独り善がりになるのではなく、みんなが共有できる入り口をつくることが必要になります。
私はイデオロギー世代ではないので、思想的なテーマを掲げて社会にもの申すというような作品をつくることはないと思いますが、自分に向き合って自己をどう捉えるかを考え、個人の心の中に何かをズドンと突きつけるような作品ができればと考えています。

芸術監督就任にあたって 野村萬斎
(2002年7月31日発行『PTex』掲載)

この度、8月より世田谷パブリックシアターの芸術監督に就任させていただくことになりました。これまで5年間の劇場活動のいい部分を受け継ぎながら、少しずつ自分なりの色を出すことができればと思っています。
能・狂言は、それこそ室町時代より足利幕府など武士階級による庇護や援助があって、その技を育んできたという歴史がありますが、規模こそ違え、公という括りでいえば、世田谷区の助成についても同じことが言えるのではないでしょぅか。こうした助成のおかげで、時間や金銭の制約を受ける商業的な舞台とは違った環境のなかで、芸術的な創造活動にとりくめるのは素晴らしいことです。しかしその一方で、公的な助成をうけ活動を行うことには、当然責任も伴ってきます。そのことを明らかにするために、今後の活動の指針として以下3つの柱を用意しました。

I 地域性、同時代性、普遍性
今回の就任に当たり、わたしは「この辺りの者でござる」という言葉を、ひとつのキーワードにしたいと考えました。これは、狂言の登場人物が舞台にあがって自らを名乗るときの言葉で、誰かの固有名──たとえばハムレット──ではなく、「この辺りの者」というところに、古典特有の発想があるように思っています。なぜ、このような物言いをするのでしょうか? このセリフは、これから始まる舞台が、その日来ていただいたお客さんと同じ目線でつくられたということを示すためのものであると同時に、狂言がいつの時代のどこに暮らすひとにも通ずる、普遍的なものを表現してきたことを示す言葉でもあります。
わたし自身この度世田谷パブリックシアターでお世話になるにあたって、この言葉をキーワードに、世田谷辺りの者として、区民レベルの目線を大切にしたいと思います。ワークショップ活動などを通じて、学校をはじめとする地域社会に、狂言で培った日本文化のアイデンティティを還元していくとともに、上演活動を通じて、同じ時代を生きるほかの地方や国に住むひとにとっても鑑となるような、普遍的な作品づくりを目指していく所存です。

II 伝統演劇と現代演劇の融合
わたしは古典芸能の出身ですので、やはり古典の発想を生かしていきたいと思っています。ただし、それはすべてを古典の色に染めるということではありません。あくまでも、古典のなかで培われてきた知恵を生かし、アイディアを出していきたい、ということです。
先ごろ能・狂言はユネスコに世界遺産として宣言をうけました。これにはいろいろなうけとりかたがあると思いますが、わたしは、600年をかけて洗練されてきた方法論を現代に還元し生かすべきだという立場をとっています。作品づくりや、ワークショップを通じ、古典の発想を現代のアーティストのみなさんに生かしてもらい、相互の可能性を再発見し、新たな日本の舞台芸術を創作していきたいと思っています。
たとえば、わたし自身、現代演劇の俳優の方と共演させていただいて感じるのは、ストーリーや心理を描写する技術には長けているものの、場や状況をつくりだす能力は欠けているということです。これはほんの一例に過ぎませんが、稽古を通じ、能・狂言で培われたものを現代の舞台芸術にも伝えていくことができるのではないかと思います。また、三島由紀夫の『近代能楽集』のような能狂言の曲にもとづいた「現代能楽集」の創作を現代劇作家に依頼したり、同じく演出家に能舞台の構造を生かした舞台づくりをしてもらう、そういったことを試みてはどうかと思っています。

III 総合的な舞台芸術「トータル・シアター」を指向する
能、狂言、歌舞伎といった伝統演劇には、近代以降の演劇が失ってしまった舞台芸術の総合性といったものが、まだ残されているように思います。もちろん個別に「語り」「舞い」「謡い」などといった呼び方がされるわけですが、そこにはまださまざまな表現が未分化のまま、ひとつの世界を織りなしています。
限られた知見のなかで、現代の舞台芸術作品について考えてみると、西欧においても、日本においても、最先端のものは脱領域化の度合いを強めています。ダンス、サーカス、道化芸など身体に関係する芸術に、演劇、文学、詩など言語に関係する芸術、ライブ音楽やビデオ映像を合わせたメディアアートが加わり、それぞれの領域の開を超えた作品づくりが増えてきています。世田谷パブリックシアターでも上演されたピーター・ブルック、サイモン・マクバーニー、数多のコンテンポラリーダンス作品などはその好例ですし、この秋に公演が予定されているロベール・ルパージユなどもその注目すべき旗手であります。
こうした活動が盛んになっているなかで、伝統演劇に携わるわたしがこの時期に芸術監督を任されたのも偶然ではなく、こうした諸芸術の再統合にむけて、もともと舞台芸術の総合性を担っていた伝統演劇の力を必要とされたからではないかと考えています。今後、劇場の指針のひとつとして、近代以降に断片化された舞台芸術の知恵を再獲得し、新たな形で再統合しようとする試みを押し進めていきたいと思っています。

世田谷パブリックシアターは幸い、多くの方々に支持していただいています。この劇場が公共劇場の手本となり、リーダーシップを発揮するぐらいの心持ちで、スタッフ一同、活動に励んでいきたいと思っております。
ご支援・ご鞭撻賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。


世田谷パブリックシアターの狂言と邦楽関連プログラム
1997年に開場した世田谷パブリックシアターでは、2002年に野村萬斎が芸術監督に就任して以来、新作公演以外にも「古典と現代演劇の融合」をテーマにしたさまざまな企画が継続的に行われている。

●「現代能楽集」シリーズ
現代の作家たちと新たな「現代能楽集」をつくる野村萬斎監修企画。これまでに能の『葵上』『卒都婆小町』を題材にした『AOI/KOMACHI』(作・演出:川村毅)、近代文学にも影響を及ぼしてきた室町時代の観阿弥の能を題材にした『求塚』(作・演出:鐘下辰男)、平安時代の能の名曲を現代化した『鵺/NUE』(作・演出:宮沢章夫)を発表。

●「狂言劇場」
狂言を古典としてではなく、同時代性のある「舞台芸術」として届けたいという思いで手掛ける「狂言劇場」は、世田谷パブリックシアターに三本の橋掛かりをそなえた斬新な能舞台を構築し、野村万作をはじめとする万作の会一門による狂言の演目を連続上演するシリーズ。

●「MANSAI◎解体新書」
野村萬斎が毎回多彩なジャンルのゲストを迎えてトークとパフォーマンスを行ない、「日本演劇のアイデンティティ」を模索するシリーズ企画。

●「能楽現在形 劇場版@世田谷」
能楽囃子笛方の一噌幸弘、大鼓方の亀井広忠、狂言師の野村萬斎が発足した「能楽現在形」は、同時代の能のシテ方をゲストに迎え、能の現在と未来を考える新たな試み。世田谷パブリックシアターでは、その劇場版公演をホールに特設能舞台を設置して実施。

『国盗人』
作:河合祥一郎
演出:野村萬斎
シェイクスピア『リチャード三世』の物語を題材に翻案。国王の座を得るために奸計をめぐらし殺人を繰り返す悪名高き「悪三郎(=リチャード三世)」を主人公(野村萬斎)に、赤薔薇一族と白薔薇一族の権力争いの時代を描く。狂言の手法から一歩踏み出し、現代劇の俳優ほか狂言師以外のキャスティングを試み、現代劇としての可能性を追求した作品。
撮影:宮内勝

『法螺侍』
作:高橋康也
演出:野村万作
1991年初演
シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』に題材に、狂言一門の「万作の会」が手掛けたシェイクスピア翻案の創作狂言第1弾。ロンドン、香港、アデレードなど海外でも上演され、好評を得た。

『まちがいの狂言』
作:高橋康也
演出:野村萬斎
2001年初演
シェイクスピア原作の『まちがいの喜劇』を狂言に翻案した作品。シェイクスピアの台詞を狂言独特の言い回しや身体表現に置き換え、男ばかりの狂言師(「万作の会」一門)が演じる。狂言の面(おもて)を駆使して二組の双子の取り違え騒動を面白おかしく描く。01年にはロンドンのグローブ座でも上演され、その後も再演、海外公演を重ねている人気レパートリー。
撮影:石川純

『敦─山月記・名人伝─』
原作:中島敦
演出:野村萬斎
2005年初演
中島敦(1909〜42年)の『山月記』と『名人伝』の2つの小説を構成し、野村萬斎が世田谷パブリックシアター芸術監督就任後初めて演出を手掛けた作品。中島敦の33年という短い人生をたどりながら、能や狂言で用いられる謡・囃子などの豊かな音楽を通して、漢文調の格調高い文体で描かれる中島の小説世界を現代の舞台作品としてよみがえらせた。邦楽界の若手ホープである大鼓の亀井広忠と尺八の藤原道山の生演奏による競演も話題となった。
撮影:宮内勝

狂言劇場 その弐「鏡冠者」
撮影:上牧佑

狂言劇場 その参「茸(くさびら)」
© 世田谷パブリックシアター

狂言劇場 その参「月見座頭」
© 世田谷パブリックシアター

狂言劇場 その参「悪太郎」
© 世田谷パブリックシアター