越後妻有への思い
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いよいよ「第4回大地の芸術祭〜越後妻有アートトリエンナーレ2009」が開幕します。私は第1回から現地を取材していますが、この間の越後妻有の変貌には本当に驚かされます。第1回の時は、過疎地域に「こへび隊」という若者たちのサポーターが入るというので取材したのですが、「コンテンポラリー・アートって何?」というおじいちゃん、おばあちゃんを彼らが説得するところから始まった。中核施設も整備される前で、予定地の空き地にテントを張って、野外インスタレーションを展開し、廃校の体育館に貸布団を持ち込んでサポーターが寝泊まりしていた。
2回目には中核施設も建設されましたが、集落の人たちがアーティストと一緒に汗を流した一連の作品が生まれ、身体の奥底に眠っていた原始的な力が呼び覚まされるようで感動しました。途中、この一帯は大地震と集中豪雨で甚大な被害を受けましたが、縁のできた人たちがその復旧にも協力し、集落の年中行事にも参加するようになるなど交流が深まった。
そして3回目には、地域再生のシンボルとして空き家や廃校を甦らせるプロジェクトが本格的にスタート。越後妻有はまるでアートヴィレッジのような新たな段階に突入しています。たった10年で、色々な人たちが過疎高齢化の地域と多様な関わり方をするようになった。本当にすごいことだと思います(大地の芸術祭の経緯についてはデータ欄参照)。 -
越後妻有は、冬は豪雪、夏は高温、全く平地がないので棚田や瀬替え(蛇行している川の流れを真っ直ぐにして屈曲部を水田などの耕地にすること)で猛烈な苦労をして知恵を絞りながら農業を行ってきた地域です。しかし、30年ほど前から日本は極端な効率第一主義になり、山の中で農業をやる非効率、除雪が不可欠のこういう地域に住む非効率が取りざたされるようになった。国の減反政策のなかでお米をつくるのを辞めればお金をあげるよ、町に移住すればお金をあげるよと言われたわけです。
今そこにある集落は、先祖代々からの独自の生活をもち、独自の時間を過ごしてきているのに、効率が悪いと誰が決められるのか。そこで生活をしていることは必然なのに、それを他の誰かが啓蒙するなんてことはあり得ない。これまで頑張ってきた人たちに選ぶ権利もないのかと腹が立ちました。それで、今までここでやってきたことは重要な営みだったということを言祝ごうと思いました。アートは、歴史や生活を非常にわかりやすく見せる仕掛けになり得るし、「地域の発見」に役立つと考えたわけです。
でも、この地域の農業や自然の問題をどうにかしようなどと思ったことはない。そんなことで政治的に絡め取られると立ちゆかなくなるし、アートにそんな力はない。僕が考えたのは、おじいちゃん、おばあちゃんがそこで亡くなりたいと思っているならばそれを支えよう、生きている間できるだけ楽しい日々を送ってもらうためにアートに何ができるだろう、ということです。それと、この地域全体が元気であることが重要だと思った。地域と都市がどういうふうにキャッチボールをしていけばここを持ち堪えられるのか、という展望をもちたいと考えました。
アートは身体、五感、感性と近いところにあるので、自然と人間、文明と人間の距離を直感的に的確にとらえてきた。また、人間ひとりひとりが違うということの本当の表れでもあります。越後妻有でその力を働かせることができなければ、アートとはいった何だったのだろうと問い直されることにもなる。アートに携わってきた僕たちとしては、そういうことも含めて、もう一度、人間の身体や生理に立ち帰り、越後妻有の中で色々と発見していくことがアートにとっても大きな希望に繋がるかもしれないと思いました。それが大地の芸術祭の出発点です。
明治になって、日本の政府は美術の枠から僕たちが生活の中で親しんできたお祭り、食べ物、庭、床の間などの管理、展示、マニュアル化できないものを落としてきた。それが現代アートの貧しさに繋がっている。越後妻有ではそうしたものを全部含めて、ウイングを広げようと動きました。そして、人間がどうやって水と関わり、土と親しみ、手業、認識、文化、芸術をつくってきたのかに分け入って、その来し方をもう一度見れば、(僕たちが生きていくための)大きなヒントが見つかるのではないかと考えました。 - 当初は大変な反対にあいました。
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官費でアートなんて冗談じゃないとか、こんな田舎にアートが何の役に立つのかとか、もうすさまじい反対にあいました。4年半で2000回も説明会を開きましたから。それでも、7月25日の第1回芸術祭の開幕がオーソライズされたのは6月15日です。官費がでなくてもやるつもりで準備をしていたのでできましたが、本当に大変でした。
でも他者の土地にモノをつくろうとするわけだから、軋轢が生まれるのは当然です。それを乗り越えようとキャッチボールをする中で、アーティストがおじいちゃん、おばあちゃんたちに「すごいことをやってきたんだね」と敬意をもってものをつくっているのが伝わり、サポーターやアーティストが困っているのを見かねて集落の人たちが手伝うようになった。みんなお百姓(色々な仕事をこなす技術をもった人)だから手がきくんです。手伝えばそれは自分たちのプロジェクトになっていく。人が来るとうれしくて、作品について、土地について、家族について語り出した。
いわばアートは赤ん坊のようなもので、何も働かないし、手がかかる。それをみんなで見守りながら関わっていくうちに、コミュニケーションが成り立つようになった。人が減ってできなくなったお祭りを他者が関わることによって新しくつくり出しているようなものです。軋轢を乗り越えるには膨大なエネルギーが必要ですが、そのエネルギーでこの地域は元気になったのだと思います。
今にして思えば、最初から理解者と一緒にやるのではなく、色んな壁が立ちはだかっている中で、アーティスト、集落、サポーターの「協働」が生まれたことがものすごく重要だった。それによって越後妻有のパブリックの概念が新しく変わり始めたと感じています。 - サポーターに関していうと、美大生を中心にした「こへび隊」が東京からたくさん越後妻有に入りました。資料によると第1回は延べ9440人(登録人数800人)が協働しています。
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最初から若い人たちと一緒にやるつもりではいましたが、大地の芸術祭がオーソライズされない状況が続くなかで、中山間地で農業をやっているお年寄りとは180度違う人間が入った方が事態は動くかもしれないと思った。それで何だかよくわからない、アートなんていうものをやっている若者を前面に立てました。これもまたさっきの赤ん坊の喩えと似ていて、180度違うから絶対初めはぶつかるのですが、アートという赤ん坊を前にしてみんなで乗り越えようする。違うほうがガンガン文句を言えるし、だけど若者もそれなりに郷に入れば郷に従うから、それが繋がりとして何かを生み出していった。似たもの同士だと逆にできなかったと思います。
ちなみに越後妻有では、名前も知らない若者なのに「こへび」というだけで知事や代議士が出席している会議の司会をしても当たり前になっています。こへびと言えばフリーパスで、ちょっとした化外の人になっている。応援してもらえるものだから、とうとうこへびを騙って商売するヤツまで出てきた(笑)。
- 10年前は、学生たちがこうしたフィールドワークをするのはとても珍しかったのですが、今ではどこのアートプロジェクトにも必ずといっていいほど学生たちが関わっています。大学が地域に開かれた運営や実践的な教育を目指すようになり、少子高齢化社会に直面している地域も学生のパワーに期待するようになった。北川さんは、千葉のニュータウンを舞台に、大学で美術や建築を学ぶ40近いゼミなどと連携して「アートユニバーシアード」と題したプロジェクトをプロデュースされたこともあります。
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こへびを経験すると目的意識が非常にはっきりする、と先生たちは言います。それはなぜかというと、大人と一緒に働くからです。3回目からは「おおへび」という大人のサポーターがたくさん関わるようになりましたが、彼らは仕事のない週末に越後妻有にやって来て夜中までこへびに教えたりしながら、彼らと一緒に働くわけです。本来こういうことでしか教育はありえない。最近は、海外からも来るようになり、今年は香港大学から30人が週3回ほど参加しています。
足は完全に地域のなかにどっぷりと浸かっていても、アートは世界への窓をもっているので、自然とグローバルな意識でいられる。アートであるということにはそういう面白さもあります。
- 空家プロジェクト、廃校プロジェクトに力を入れて大きな成果を出してきました。
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今はそんなに新しいモノをつくれる時代ではない。だけどまだまだ、役に立つ本当の意味のある建物はたくさんある。あるモノを活かし、新たな価値をつくろうということです。それと大地震で集落の中に空き家が増えたこともきっかけになりました。空き家があると本当に灯が消えたようになる。ましてや学校が廃校になるのはつらいものです。それを何とかできないかと思いました。
越後妻有では、アーティストたちは場所にこだわり、場所の時間を活かそうと努力してきた。その中で決定的だったのが、2000年に旧清津峡小学校土倉分校で展開した北山善夫さんの作品です。北山さんは子どもたちのざわめき、遊び、それを見守ってきた地域の人々の気持ち、そういった時間を形象化した。アーティストは越後妻有でこういうことをやっているのだとよくわかりました。
第4回では、アンソニー・ゴームリー、クロード・レベック、塩田千春などが空き家を使って頑張っています。空き家の場合、個人の所有物なので官費を使うことができず、僕たちが買い取ってプロジェクトに理解のあるオーナーを捜して資金を回収しなくちゃいけない。今もオーナーを募集しています。興味のある方はぜひよろしくお願いします(笑)。
今回の主要プロジェクトは何といっても廃校です。地域に残った13の廃校をすべて生き返らせます。長期的な展望としてやれているのはまだ半分に満たないのですが、将来的には地域の人たちの力も借りてパーマネントなスペースに変えていきたいと思っています。
旧東川小学校は2006年にクリスチャン・ボルタンスキーがジャン・カルマンと組んでパーマネントな作品にしましたが、今回はこれに新たな要素が加わります。来年、瀬戸内海の豊島で行われるボルタンスキーの新しいプロジェクトとして世界中で収録した心臓の音を使いますが、ここがその収録場所のひとつになります。また、新しい展開としては、鉢集落の人と田島征三さんの「絵本と木の実の美術館」や、コンサートピアニストの向井山朋子さんが1万枚の布を使ってインスタレーションする旧飛渡第二小学校、川俣正さんが美術によるまちづくりのアーカイブを展開する旧清水小学校の「インターローカルアートネットワークセンター」などがあります。越後妻有にはたくさんの大学が関わっていますが、今回から新たに京都精華大学が枯木又の廃校で山間集落の地域づくりの長期プロジェクトを展開することになりました。
それと新潟県立安塚高校松之山分校という高校が危機に直面していて。30人入学する見込みが立たなければ廃校になってしまう。もう待ったなしの状況なのですが、僕らみんなが入学して高校生になれば支えられるんじゃないかと。面白いでしょ。それで大地の芸術祭と繋いで、こへびもおおへびもみんな高校生になって(笑)。今必死で交渉しているところです。 - 日本では2004年をピークにして総人口が減少に転じ、都市部では人口が増加し、地域の過疎化は益々加速すると懸念されています。これからの地域の新しいあり方について越後妻有などの取り組みを通じて見えてきことがありますか。
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おじいちゃん、おばあちゃんが棚田をつくり続けられるよう、それを応援する仕組みとして棚田オーナー制度や越後妻有を支えてくれるファンクラブを立ち上げましたが、両方合わせて約550人が会員になっている。越後妻有を支えるには、人的にも経済的にも都市の応援団が不可欠ですが、驚いたのは、それ以上に都市の人の方が自分の関われる場所を必要としていて探しているということです。企業はそこに着目して、例えばJTBなどは都市の人に対してそういう地域を斡旋するビジネスができないか考えている。今回の越後妻有にも全面協力してくれていて、宣伝やツアーの企画をしてくれています。
東京では最低30万円の生活費が必要なのに、越後妻有なら10万円で暮らせるとしたらそのほうがずっと豊かなんじゃないか、そういう意識をもった人が増えてきたということです。本当にすごい地殻変動が起きているんだと思います。普通は子どもがいないとコミュニティに入るきっかけがない。越後妻有では、アートに関わっていることでコミュニティに入れるわけで、決定的な違いです。アートが越後妻有に入る手形のようになっているんです。
ガウディから学んだ地域への思い
- 北川さんは地域でアートプロジェクトを展開する場合、ものすごくその地域を調査されますし、そのためのアートプロジェクトを必ず展開されています。例えば、空家プロジェクトの前には建築のエキスパートによる民家調査が行われていますし、この地域を流れている信濃川のもとの流れなどを調査して大地にトレースする磯辺行久さんのプロジェクトもありました。
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調査というか、僕自身は隅々まで見て歩きます。越後妻有も第1回のときには1カ月で1万2000キロくらい車で走り回りました。でもそれが啓蒙的なことになると、面白くはならないです。
- 北川さんと地域の関わりは、越後妻有から始まったわけではありません。それは新潟出身であるとか、学生運動時代の経験とか、生い立ちにまで遡るものだと思います。アートディレクターとしてだけみても、全国11カ所を巡回して日本に初めて本格的にガウディを紹介した「ガウディ展」(1978年)、全国の小・中学校を中心に巡回した「子どものための版画展」(1980年)、全国194カ所を巡回した「アパルトヘイト否!国際美術展」(1988年)など、当初から地域での実践をともなった企画をプロデュースされてきました。
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僕の出発点は、今よりもっと狭いところにあって、簡単に言えば、どうして日本の美術は面白くないんだろうということです。限られた人たちだけのものになっていて、市民社会に全く支持されていない。それなら、表現者になるのではなく、裏方として色々なことに関わろうと考えて今までやってきました。そういう美術の問題を明らかにできる場所というのが、具体的な人間関係がある「地域」だろうと思った。今でもそうですが、何かでオーソライズされる文化ではなく、1枚、1枚チケットを売っていく中で生まれる文化しか信じていない。地域の文化というのはそういうものだと思うし、その中でしか物事は見えてこないと思います。
地域の文化を考えるうえで一番勉強になったのは、「ガウディ」です。バルセロナには当たり前のようにガウディがつくったものがあり、ものすごく地域の風物とマッチしている。あまり設計図が残されていないのも当然で、彼がものをつくるプロセスは、職人たちとやり合いながら、200分の1、50分の1、20分の1と模型をつくり、そして最後の1分の1が作品になるというものです。なので、僕にとってのガウディというのは、「ガウディたち」の世界であって、そこで生まれてくるものの面白さというのが原体験としてある。
ガウディは20代の時にパリ万博のスペイン代表になります。スペインのエースだったわけです。当時は、産業革命で勃興した織物業者とカタロニアの教会という2つのスポンサーに支えられていたのですが、この2つが脆かった。サビエル・グエルを含めて織物業者たちとは初期社会主義の夢として一種のユートピアをつくろうとしました。だけど最初の恐慌で破綻する。そして、カタロニアの教会がマドリッドの中央政府に押さえられてすべては頓挫した。その時、唯一ガウディに残されていたのが、サグラダ・ファミリアだったわけです。
サグラダ・ファミリアの建物の面白さは、壊れた物などをもってきてやったところにあります。今は違いますが、ガウディが生きていた当時は、この石にこの石は合う、みたいなつくり方をしていた。それが無骨なマチエールをつくり出した。そういうガウディの根っこになっていたのが、彼が若い頃に所属していた合唱協会とカタロニア探訪協会です。合唱協会はスペイン政府から禁じられていたカタロニア語で歌うアンダーグラウンドな組織です。探訪協会は、日本で例えると藤森照信さんらが結成した路上観察学会のようなところです。僕は、そうした根っこがあったからガウディは近代に向かわない可能性を見い出せたのだと思っています。
つまり、「ガウディとは何か」を一生懸命勉強したことが大きく影響して、地域からしか物事は見えてこないという僕の信念になっている。地域のほかにリアリティはなくて、あとはファッションでしかないというとらえ方をしてしまう。だから、地域でやれることを探して、その地域でやっていくことが、たとえ小さくても確かなことに繋がると思っています。 - 越後妻有では、里山や棚田など自然との共生もテーマのひとつになっているように思います。
- 自然との共生という言葉は嫌いなんです。僕は自然の摂理のほうが断然いいと思っていて、自然をコントロールするという意識があるなかで共にありたいなどというのはおこがましい。もっと始原に帰れと言いたい。
- 地域に関わり始めた当初にそういう意識はなかったのではないですか。
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ええ、ありませんでした。でも今は本当にそう感じています。僕たちアートに関わる者は、表現がどうとか色々言いますが、そんなことはどうでもよくて、この一瞬に、この宇宙空間の中で生きていることが面白いんです。それはみんなひとりひとり違っていて、そのひとりひとり違っているというのがアートの本当の根拠なのだと思います。美術は個人の表現なのではなく、ひとりひとり違うということだけをやっているに過ぎない。それがものすごくよく判ってきました。
それと、例えば富士山の高さを数字で測ることはもちろん重要だけど、数字では測れないものの見方、感じ方がある。色々なことを分断して、整理してとらえるより、直観的・生理的にとらえる方が正しいのではないか、それこそがアートが一貫してやってきた誇れるべきことなんじゃないかというのもよく判ってきた。それこそ自然の一部としてのもののとらえ方だと思います。
新たなプロジェクトに向けて
- 今年は新たに新潟市で「水と土の芸術祭」がスタートします。
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越後妻有をやって気づいたのですが、こんな小さな国なのに日本の文化は多様でメチャメチャ面白い。それはなぜなのか。その理由は土地しかないと思いました。日本は2つの黒潮に囲まれた列島で、やたら湿度が高くて雨が降る。それであちこちに川、それも急流があるわけです。これはもう日本の特徴と言っていい。そういう土地で暮らしてきた僕たちのご先祖は、土地の性格みたいなものを熟知していて、例えば畦をつくる技術ひとつとっても、土地に対する深い知恵に裏打ちされていた。各地の土を採取して作品にしている栗田宏一の仕事を見ていて気づいたのですが、本当に日本の土の色は多様なわけです。特に新潟の土の色の多様性はすごい。地球は水の惑星といわれるけど、実は土の惑星でもある。
そう考えていくと、新潟市は日本で一番長い信濃川と有数の水量を誇る阿賀野川を擁し、その2つの大河が水路を探して荒れまくり、攪拌されてきた土地ということになる。市内には海抜ゼロメートル以下の地域が4分の1くらいあって、最大で川より3メートルも低い所に土地がある。そういう土地、泥沼の中で日本一、いや世界一といってもいい米所をつくってきた。泥の中に腰まで使って稲を植えていたような土地だったのに、努力して今の平野をつくってきた。そういう写真や水害の記録、立体交差する川のような土木の技術など、新潟市には水と土の記憶がたくさん残っている。
第1回の「水と土の芸術祭」では、お祭りや芸能まで含めて、そうした新潟の記憶をタカラとして言祝ぎたいと思いました。越後妻有の川上と川下という関係にある新潟市まで広げて、田んぼをつくってきた文化を言祝ぎ、チグリス川、ユーフラテス川、黄河、長江とか、文明をつくってきた世界の川や、新潟の川から海を通じて繋がっている北東アジアまで見据えて、僕たちの来し方、行く末を考えていきたいと思っています。
- 北川さんは、東京と並ぶ大都市・大阪でもアートプロジェクトを展開されてきました。市内に残った近代建築で現代アートを展開した「大阪アートカレイドスコープ」(2007年、2008年)に続き、今年は「水都大阪」が立ち上がります。
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財界と行政が一緒になって、大阪再生のシンボリックなプロジェクトとして取り組むのが「水都大阪」です。大阪は、江戸時代まで遡れば、川と海という水運によって日本一の商都として栄えた地域です。1910年代までは東京よりも栄えていて、集まった富を橋などの社会資本に変えていった良さがある。そうやって頑張ってきた歴史のある大阪なので、「水」というのが再生を考える決定的なテーマになるだろうということになりました。それで今回は、ヤノベケンジ、椿昇など大阪を代表するアーティストや、DANCE BOXなどのNPOに協力してもらい、水辺を楽しむ100の方法というのをやります。中之島に竹で水辺の文化座を組んで、美術だけではなく、パフォーマンスや音楽などを色々やる。
大阪というのはアジアの人たちも受け入れてきたし、外から流れてきた人たちが第二の人生を送れる場所だった。かつてはそういう人の坩堝だったからこそメチャメチャなエネルギーがあったんです。今ではその元気もなくなっていますが、そういう坩堝から生まれてくる市民力が復活するきっかけになればと思っています。
- 今全国でアートプロジェクトが盛んに行われるようになっています。それをどう思われますか。
- 他のことより多少は面白いよ、ということだからだと思います。アートというのはみんながどう考えてもいいものだから、無用の騒々しいものでみんなが繋がっていける。それがアートの決定的な効能であり、それが期待されているということでしょう。ただ、反対者がいる所でやった方がいいけど(笑)。
- 2010年には、瀬戸内海に浮かぶ7つの島を舞台にした大規模なアートトリエンナーレ「瀬戸内国際芸術祭」がスタートします。これは、現代アートの支援者であり、瀬戸内海の直島、犬島でアートプロジェクトを展開してきたベネッセコーポレーション会長兼CEOで大地の芸術祭プロデューサーでもある福武總一郎氏と組んで行う一大プロジェクトです。福武氏は「文化・芸術による福武地域振興財団」を新たに設立するなど、その思い入れには並々ならぬものがあります。
- 越後妻有で始まったのは何かというと「ギフト」ということです。みんなが少しずつ労働をギフトすることで、少しずつコミュニケーションを回復してきた。つまり、田舎というのはそういう復元力のある土地なんです。瀬戸内海の島々も同じで、復元力がある。誰でもおいでよ、労働すれば何とか食えるし、手伝ってやるぞ、第二の人生が生きられる場所だぞと。そういう場所として再生することができるのではないか。まあ、何十年かかるかわかりませんが、そういうことなんじゃないかと思います。