ジャン・ディーニュ

実務家として常に第一線をリード
ジャン・ディーニュ氏の歩みで辿るフランスの文化政策

2007.08.28
ジャン・ディーニュ

ジャン・ディーニュJean Digne

ジャン・ディーニュ氏は、1970年代からエクサン・プロヴァンス市、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地方、フランス文化省・外務省・国民教育省、AFAA(フランス芸術活動協会、現キュルチュール・フランス)と、ローカル、ナショナル、インターナショナルなレベルにおける要職を歴任。

常に実務のトップランナーとして多彩なアイデアと行動力でフランスの文化政策を支え、現在、日本で話題となっている創造都市のオーソリティでもある彼の歩みを振り返る。
(聞き手・構成:藤井慎太郎[早稲田大学准教授] インタビュー:2007年5月21日)
ディーニュさんは、現在は大学で教鞭を執るほか、モンパルナス美術館館長と、オール・レ・ミュール (*1) 理事長を務めていらっしゃいますが、ここに至るまでに、AFAAをはじめ、文化関係のさまざまな組織で働いてこられた、多彩な経験をお持ちです。ご自身の経歴についてもう少し詳しくお聞かせ下さい。
私は南仏のマルセイユで育ちました。今でも、パリに暮らしているときでさえ、ここは経由地でしかない、という気持ちがするくらい、この街には愛着があります。大学教育は南仏のエクサン・プロヴァンス大学で受けました。そこで経済学、建築、文学を学びましたが、ほとんど独学に近い形でしたね。
その後、兵役に代わる文民サービスとして、モロッコの首都ラバトのフランス大使館文化部に勤務しました。そのときの仕事の一つに、モロッコ人のアーティストと一緒に芸術キャバレーを開いたことがあります。モロッコの文化の伝統と人々の情の厚さにふれたことは、私の目を世界に向けて開かせる、大きなきっかけとなりました。
フランスで一般に人々が抱いている、外国のイメージと、それらの国に行ってみたときの現実とのズレは驚くべきものです。芸術交流を通じて、これらの国の固定概念を吹き飛ばしたい、とそのときに強く思いました。旅をして、移動によって視点を変えることの利点、他者の眼差しがもたらす豊かさは、あらためて強調したいと思います。考えてみれば、マルセイユをはじめとする地中海沿岸の都市は交易と文化交流なしには、今日のような発展もありえなかったわけですから。
さらに、フランス政府文化省の公募に応募し、奨学金を得ながら、1年間の文化政策セミナー・プログラムのようなものに参加して、フランス中を回りました。その後、エクサン・プロヴァンスの劇場の芸術監督をやらないかと勧められ、1970から76年までこれを務めました。そして1973年には「エクサン・プロヴァンス、サルティンバンコ(曲芸師)に開かれた街」という、大道芸とサーカスを中心としたフェスティバルを企画しました (*2) 。1970年代は五月革命の直後で、政治的にも社会的にも、哲学的にも芸術的にも、まだ不安定な時期で、不安定であるゆえのダイナミズムにもあふれていました。やろうと思えば、何でも可能だったんです。劇場の芸術監督にはなったけれど、私たちは劇場でないところでこそ演劇をやりたかった。広場や、路上や、学校など、それまで演劇がなかったところで演劇をやりたいと思ったのです。
それからユネスコの公募に応募し、アフリカにおける文化専門職養成センターを設立するための専門家として採用され、1976年から78年まで2年間、ブラック・アフリカのトーゴに派遣され、アフリカの専門家たちと仕事をしました。
帰国後、1978年から82年まで、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地方の地方議長から、独自性を打ち出した地方文化政策づくりに協力を依頼され、地方文化政策を担う地方文化事務所 (*3) の責任者となりました。まだフランスの芸術や文化をパリが独占していた時代でしたから、文化の地方分権化の先駆けだったわけです。およそ800の地方自治体の文化政策の形成、とりわけ将来計画づくりに関わりました。前提となるような蓄積もない時代でしたからね。
すごい経歴ですね。若くしてこのように異なる行政組織を渡り歩きながら、より大きな仕事を手がけていくというのは、若手を抜擢することもあまりなく、転職そのものがまだ相対的に少ない日本にいると、なかなか理解しにくいところがあるのですが。
そうかもしれませんね。でも、まだ、話は終わってませんよ(笑)。
次の転機は、1981年社会党のミッテラン政権が誕生したときで、ジャック・ラング文化大臣の下、中央政府で、文化の地方分権化のために働くことになりました。各地方に派遣された文化省の責任者たちの中央における窓口を務め、地方における文化政策の作成と調整にあたりました。すでに地方文化問題局(DRAC) (*4) は制度としては各地方に存在していましたが、文化財政策が中心で、現代文化に関してはまだ具体的な政策を何も備えていませんでしたから、そこに形を与える必要があったんです。
その後は外務省に移って仕事をしました。1983年から89年にかけては、イタリアのナポリのフランス学院院長を務めながら、フランスとイタリア南部のアーティストとの芸術交流にあたりました。このとき、世界各地のフランスの文化施設の責任者を集めた世界フォーラムを開催しました。アーティストのための国外レジデンス施設の整備がテーマだったのですが、ちょうどそのとき、京都でヴィラ九条山 (*5) の整備計画が議論されていたんです。結果として、間接的に一役買うことになったのでしょうかね。
その後、外務副大臣からの依頼を受けて、90年から99年までは、外務省と文化省の管轄下におかれたAFAAのディレクター(事務局長)を務めました。在日フランス大使館の文化担当アタッシェであるブリジット・プルーセル、さらにその前任者のエマニュエル・ドゥ・モンガゾンも、AFAAでともに働いた間柄です。在任中には、日本とヨーロッパの音楽産業の関係強化のために、国際交流基金の招きで、日本にも1か月滞在したことがあるんですよ。在任中にはさらに、アフリカとの文化交流に力を注いだほか、フランス国内で新たな盛り上がりを見せていたサーカスや大道芸を、AFAAとしても積極的に支援するようにしました。
1999年にAFAAのディレクター職を退いた後は、充電期間をとりつつ、スペイン国境近くのビアリッツで写真フェスティバル (*6) の立ち上げに関わったり、パリ第8大学でも教鞭を執り始めたりしました。あなたに会ったのもそのときでしたね。
まさしく、私が留学先のパリ第8大学でアート・マネージメントを学んでいた際に、ディーニュさんが芸術環境に関する授業を担当されていたのでした。
それから、シラク大統領とジョスパン首相の保革共存内閣で、2000年にジャック・ラングが国民教育大臣に任命された際に、彼の大臣官房に加わることになりました。フランスをはじめ、ヨーロッパで近年数が増えているオルタナティヴ・アート・スペースと文化行政の対応に関する調査研究ミッション(「芸術の新しい領土」)を任されていました。これらのアート・スペースは、歴史的な建築物や、使われなくなった工場や倉庫などの産業施設や、スクワットを現代の芸術文化の創造空間につくり変えたものです。
2004年からは、いくつかのプロジェクトに同時進行的に関わっています。自分の仕事の時間は大きく四等分しています。まずは昔からのフィールドである国際文化交流、次にエコール・ド・パリの絵画を集めたモンパルナス美術館の理事長職、さらにサーカスと大道芸の普及に努める組織オール・レ・ミュールの理事長職、そして大学教育です。文化の仕事を目指す若者たちの専門教育と職業定着は、昔からとても気にかけてきたことなんです。
一つの組織に属さないことで得られる自由がたいへん気に入っています。外務省でフルタイムで働かないかと誘われましたが、断ったんですよ。今回、在日フランス大使館から、日本の都市文化政策を調査してほしいと依頼があったように、外務省とは専門家として助言を求められる都度、プロジェクト・ベースで仕事をしています。最近も、同じようなミッションのためにサンクト・ペテルブルクやマラケシュに行ってきました。いくつかの組織に属していくつものプロジェクトを同時進行で抱えていることで、物事に対する視点も変わってきますしね。
オール・レ・ミュールは、サーカスと大道芸のプロモーションを目的とした、世界的にもユニークな組織ですよね。
私が2003年から会長を務めているオール・レ・ミュールは、文化省の助成金と自己収入で運営されている組織で、サーカスと大道芸の国内外での普及を目的とした組織です。サーカスや大道芸には昔から深く関わってきたので、この仕事に就けたことは個人的にとてもうれしいですね。
いつも行政組織の中で、あるいは行政組織と仕事をなさってきたわけですが、フランスも官僚組織が強大な国です。かなりの窮屈さがあると思うのですが、そこでどうやってこれほどのアイデアとプロジェクトを、次から次へと生み出すことができるのですか?
結局は好奇心が問題になるでしょう。新しいものを発見したいという気持ち、そして新しいものが見えてくれば、次々にアイデアが湧いてくるでしょう。それに行政組織の中で、行政ゆえの制約が多いほど、私の想像力はかき立てられるんですよ。私の場合、選択の余地もありませんでしたしね。
AFAAは昨2006年、組織改革がおこなわれて、キュルチュール・フランスと名称も変わりました。けれど、外部から見ると、名称変更以上にどれほどの変化があったのか、あまり分かりません。
確かに、根本的なミッションの変化があったわけではありません。ただ、フランスには、ブリティッシュ・カウンシルのようにせねば/ならねば、というコンプレックスがあるのですよ。ただ、AFAAは1920年代につくられた組織で、国の監督下におかれた機関でありながら、制度的には1901年法に則った非営利協会であるという、古臭さゆえの魅力があったと思います。政府からも一定の距離を保ち、必ずしも時の政府の外交方針を全面的に代弁するわけではないという自由度を持っていました。ただ、政策の一貫性のなさ(私に言わせれば、変化と運動を重んじる芸術においては必要悪でもあると思うのですが)や組織の連携の不充分さが、フランスのブランド・イメージを対外的に売り込むには、問題だとされたのでしょう。
キュルチュール・フランスという名称には、フランスという名が強く出すぎている気がします (*7) 。キュルチュール(文化)が複数形になっているのも、どうなんでしょう。文化はどこにでもある、みんなに関わりのあることなんだ、という意識は強調できるかもしれませんが、あれもこれも文化だ、といってみんなが発言をはじめたら、収拾がつかなくなる気もします。AFAAが、外交官、知識人、芸術家、実業家が雑多に混じり合いながらつくってきた伝統が失われて、中央集権化された一枚岩の組織になってしまう危険もあるでしょう。私自身は、フランスの国益を考えることももちろんですが、芸術家こそが生み出すことができる感動がある、芸術家に外交官を務めてもらうのではなく、芸術家には芸術家でいてもらうことが肝要だ、と考えて仕事をしていました。かつて私が責任者を務めていた組織ですから、これ以上のコメントは控えようと思いますが。
フランスでは5月に新しい大統領にニコラ・サルコジが選出され、新しく首相をはじめ各大臣が指名されましたが、その動きをどう見ていますか。文化予算の大幅削減や、文化省と国民教育省の合併もささやかれていましたが、結局は、これまで通り、文化政策とメディア政策の二本柱からなる文化コミュニケーション省体制が維持されましたね。新しい文化大臣クリスティーヌ・アルバネルの下で、文化政策はどう変わっていくのでしょうか?
まだ新政府の成立以来、時間もわずかしか経っていませんし、判断を下すには早すぎるでしょう。ただし、新しい文化大臣が就任すれば新しい文化政策が生まれるかというと、必ずしもそうではありません。フランスの文化政策について一般的にいえることですが、ポンピドゥー・センター、オルセー美術館、オペラ・バスチーユ、ケ・ブランリー美術館など、大規模な国立文化施設の創設は歴代大統領のイニシアティヴによるもので、大統領が芸術文化についてもかなりの決定権を持っています。私をAFAAのディレクターに任命したのも文化大臣でなく大統領でした。おまけにサルコジ大統領は、これまでの大統領とちがって、およそあらゆる内政に口出しする人物ですしね。地方自治体の文化政策の充実、マス・メディアの影響力の増大などもあって、文化省と文化大臣の影響力は相対的になってきていると見るのが適当でしょう。
また、文化と教育の統合の話ですが、たとえばジャック・ラングは文化大臣の後に国民教育大臣も務めたように、文化と教育のいずれにも通じた政治家がいないわけではないし、政治的影響力の強い政治家がその大臣になったとすれば、決して悪いことばかりではなかったと思いますよ。ただし、官僚組織の垣根はやはり極めて高いので、急に文化官僚と教育官僚が一緒になって何かやろうといっても大変だったでしょうけれどね。
それよりも、外国人に対するヴィザの発給の制限などに表れているように、フランスが今日、治安や社会安定を気にするあまり、閉じた社会になりつつあることを憂慮しています。フランスはつねに、他者から豊かさを吸収してきました。フランスの芸術の発展にとって、フランスの外からやってきた芸術家の存在は欠かせないものでした。私が館長を務めるモンパルナス美術館は、20世紀前半のエコール・ドゥ・パリの絵画のコレクションで知られていますが、エコール・ドゥ・パリの画家はモディリアニ、シャガール、フジタなど9割方外国人ですよ。
外国のイメージはしばしば、単純化と戯画化を伴います。その意味でも、私自身のステレオタイプを破ってくれたモロッコ滞在の経験は大きかったですね。国際文化交流に関わる人間は、分かりやすく、受け入れられやすい紋切り型に陥ることを注意深く避けなければいけないと思います。文化と文化のぶつかり合い、衝突こそ、ひじょうに豊かな果実をもたらすものなんですから。
文化政策や文化外交といえば国民国家の独占物だった時代が長く続きましたが、国の重要性は、一方では欧州統合の深化に伴う、ヨーロッパ・レベルの文化政策の形成、もう一方では地方自治体の文化政策によって、相対的なものになりつつあるように思いますが、いかがでしょうか。
今日でも、フランスは中央集権的な側面を強く残してはいますが、戦後のフランスは、一貫して政治体制、そして文化の地方分権化を進めてきました。もちろんそれも、あまりにも多くの権力、そして芸術文化が、それまでパリに集中していたからですが。近年、文化予算の上でも、地方自治体が文化に費やす予算の総額は、文化省の予算を上回るようになりました。国は、ヨーロッパ、地方、県、市の4つのレベルの行政組織とのパートナーシップなしには、何もできなくなりつつありますし、国際文化交流でも、国が一手に文化外交を担うのではなく、地方自治体が大きな役割を果たす時代になりました。
とはいえ、フランスでは、地方における文化施設も、主要なものについては、国、地方、県、市が運営助成金を出し合う混合助成が普通です。国の関与を抜きにした、ほんとうに自治体独自の文化政策はあまりないのではないでしょうか?
フランス北部のノール=パ・ドゥ・カレ地方のイニシアティヴで、トゥールコワン市に創設された学校、ル・フレノワ(国立現代芸術ステュディオ)はおもしろい例だと思います。映像を中心に、複数のメディアにまたがった現代アートの実践教育と作品創造をおこなう機関ですが、これは国ではなく、ノール=パ・ドゥ・カレ地方が中心になって実現したものです。もちろん、開校して成功が明らかになると、国も運営予算にお金を出し、現在では助成金額も均衡するようになりました。けれど、今日でも、国がやめるといってもノール=パ・ドゥ・カレ地方は続けるでしょうが、ノール=パ・ドゥ・カレ地方がやめるといえば国もやめるというでしょう。
日本でも、創造都市をキーワードにした、都市の文化政策に対する関心が近年、特に高まっています。フランスの都市の文化政策について、もう少し考えをお聞かせください。
フランスで、国の文化政策とは別個の独立した地方自治体の文化政策が形成されるのは主に1970年代です。それ以前は、文化は観光あるいはスポーツとセットにした部局で扱われるのが普通でしたが、1970年代を移行期として、市(フランスには日本のような市町村の区別はない)には文化担当助役をトップとした文化専門の部局がおかれるのは当然のことになりました。1981年にミッテランを大統領として左翼が政権につくと、文化を取り巻く環境も大きな変化を知ることになりますが、最も大きく変化したのも、市のレベルでした。多かれ少なかれパリに対する対抗意識を持ちながら、既存のやり方を変えて、新たな考えを最も採り入れたのは市だったのです。
都市における文化政策は、文化をそれ自体として考えることも重要ですが、同時に、都市計画、環境、レジャー、生活の質の向上など、市民生活と切り離すことなしに考えることが不可欠だと思います。都市の文化は高級芸術だけではありませんし、文化が持続可能となる環境全体を整えることが大切です。
廃止になった工場や駅など、過去の遺物ともいえる建築を現在の文化施設に転用させることで、変身を遂げることに成功した都市も、ナント市をはじめ多く存在します。文化はさまざまな変化のための武器になるのです。まだ、その意味では文化政策は、政策連携がまだ充分ではない、やれることをやっていないといえるかもしれません。大学においてだって、パリ圏にはおよそ50万人の学生がいますが、学生と文化を結びつけるためのメディエーション(媒介)の仕事の余地は、まだまだあるでしょう。仮に私がパリ市長になったら、パリの大学におけるオルタナティヴ・アート・スペースをまず整備しますね。
都市の文化政策の目的は、変化を引き起こすこと、新たな表現、新たな領域、新たな観客を獲得すること、都市が備えているのに市民が知らずにいる魅力を知らしめることにあると思います。けれど、それは唯一の手段で実現するものではなく、多様な、時には互いに矛盾し合うほどの手段を用いて、実現すべきものだというのが私の考えです。自治体の規模はまちまちですし、その歴史と伝統も、社会学的構成も大きく異なります。そもそも都市の市民生活は一様ではありません。どの都市にもあてはまる一般的な文化政策というものはないと思います。芸術施設の責任者はアーティストであるべきなのか、アドミニストレーターであるべきなのか、考えてみても、これは一概にはいえないわけです。
最後に、2008年に日本とフランスは外交関係樹立から150周年を迎えます。この節目の年には、色々と文化的な催しが準備されているわけですが、何かご提案はありますか?
親日家であったジャック・シラク前大統領の下、日本とフランスの間には特別な関係が築かれたと思いますが、それをもっと発展させることは必要です。国と国の間だけでなく、創造都市を鍵として、都市の間にも発展しつつある文化交流をさらに推進することが必要でしょう。そのときに、それを形式的な姉妹都市協定にとどめてしまわないことですね。地方分権については、フランスの方が少し時期的に先行しているわけですが、その過程でフランスの地方自治体が経験した文化政策の変化、とりわけ、新しいことを恐れずにやろうとするダイナミズムを伝えられたらいいですよね。

*1
オール・レ・ミュールは、大道芸とサーカスの普及のための情報拠点として、文化省によって設立された組織である。大道芸とサーカスの上演団体、教育機関、助成制度などに関する情報を集約して関係者に提供するとともに、雑誌を編集・発行したり、大道芸とサーカスの社会的、経済的な構造についての調査・研究を行ったりしている。

*2
サーカスは1970年代には観客の減少を止められず、歴史のあるサーカス団の倒産が相次ぐなど苦境に立たされていたが、1980年代、ジャック・ラング文化大臣の下での国立サーカス芸術センター創設をはじめ、サーカスや大道芸に対する支援は大きく強化され、ヌーヴォー・シルクとも呼ばれる現代サーカスの隆盛に道が開かれた。また、サーカスや大道芸は、それまでの演劇、バレエ、オペラなどの高級芸術が取り逃してきた新たな観客層の開拓にも成功した。1973年にこのようなフェスティバルの企画がなされることには、大きな先見の明があったのだといえる。

*3
現在は組織再編を経て、非営利協会から公共施設法人となり、名称も地方文化公社となっている。地方の文化政策と密接に連動しながら、芸術文化に接する機会を地域的、社会学的に均等化し、観客層を拡大すること、助成、専門的助言、技術支援を通じて芸術文化の創造と普及を後押しすることを目的としている。

*4
1970年代以降、各地方に創設が進み、今日ではフランス全体で26のDRACが存在し、予算執行権や決定権限は、次第にパリ本省からDRACに移されてきている。ただ、地方の監督下におかれるものの、決して予算や決定権を国から地方自治体に委譲するわけではなく、DRACは文化省(国)の出先機関としての性格が強いため、この動きは地方分権化というよりも地方分散化と呼ばれることも多い。

*5
フランス政府が運営する、アーティストのレジデンス施設で、常時、フランス政府の奨学金を得た、さまざまなジャンルの複数の芸術家が数カ月間滞在している。

*6
「ビアリッツ、映像の大地」という、写真と旅を結びつけた写真の大規模展覧会。

*7
AFAAの場合は、Fのイニシャルが控え目にフランスを表すだけであったことを指している。

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