アイシー・ポ

アイシー・ポ

混沌とした社会を生き抜く「民衆のための演劇」―フィリピンの演劇集団PETA

ⓒ 阿部章仁

2026.03.31
アイシー・ポ

ⓒ 阿部章仁

アイシー・ポIcee Po

フィリピンを代表する社会変革のための演劇集団 Philippine Educational Theater Association(PETA) のシニア・アーティスト・ティーチャー、マネージング・プロデューサー。 分野を横断する実践者であり、俳優、歌手、ファシリテーター、コミュニティ・オーガナイザーとして国内外で幅広く活動。コミュニティと協働しながら教育や社会変革につながる演劇づくりを続けている。これまで、PETAのメンバーシップ責任者および福利厚生基金責任者としても組織運営に携わり、アーティスト支援体制の強化や、協働とエンパワメントを重視した組織文化の醸成に貢献。

フィリピンの若いアーティストたちから、「独裁政権を倒したピープルパワー革命(1986年)に親が参加していたんだ」という話を何度か聞いたことがある。「革命世代の子ども」である彼らは、貧困地区の住人、被災者、虐待や差別を受ける人々など、さまざまなコミュニティと関わりながら活動し、それが社会変革へとつながることを信じているように見えた。ハイレベルの教育を受けたエリートだったが、同時に、混沌としたフィリピン社会を生き抜くタフさ、そしてどんな困難も笑い飛ばすような遊び心を持ち合わせていた。
そんな彼らとの会話の端々に出てきた名前が、演劇集団PETA(Philippine Educational Theater Association)である。1967年の創設以来、民衆のための演劇を追求し、その思想と実践は、日本の演劇ワークショップ文化にも少なからぬ影響を及ぼしている。自らもPETAとの出会いによって「人生が変わった」というアイシー・ポ。彼女の語りを通して、植民地支配とも結びつくフィリピンの演劇史、そして現代における舞台芸術のあり方に迫る。

取材・文/藤原ちから

「芸術とは何か」を学んだ忘れがたい体験


まず、アイシーさんと舞台芸術との出会いについて聞かせてください。
私が生まれたのはケソン州インファンタという、農業や漁業を営む地域で、芸術とは無縁の家庭で育ちました。母がボイスレッスンやピアノを習わせてくれたものの、芸術を職業として目指すなんて考えてもいませんでした。フィリピンでは「芸術はお金にならない」という考えが当たり前のようにあったからです。
しかしPETAが学校に来たことで、私の人生は大きく変わりました。PETAはその地域の教会とパートナーシップを結び、青少年向けの演劇活動を行っていたんですね。ある日、私は、学校の先生に言われるがままに舞台に立ちました。そこでPETAのシニア・ティーチャーであったボン・ビリョネスさんから歌詞を手渡され、「君の歌はパフォーマンスの一部になるよ」と言われたんです。なのに、いざ本番では声が裏返ってしまって……。でもみんな喝采してくれて、「これはこの地域のみんなの物語なんだから、大丈夫。大事なのはこの先、自分の持っている力を使って、人々の物語を語ることなんだよ」と言われたんです。
 
その後、私は歯学の勉強のためにマニラの大学に進学し、これで芸術との関わりは終わるだろう、と考えていました。ところがPETAから、青少年向けのプログラムに参加しないかと声をかけられたんです。どこかで芸術を続けたいという気持ちがあった私は、思い切って参加しました。それは忘れられないワークショップになりました。派遣されたのは、ビサヤ地方の山の上にある小さなコミュニティで、軍と反政府組織とが闘っていて、夜になると銃声が聞こえてくるんです。それでも子どもたちは小さな学校で学んでいて、私たちは、その子たちのためにワークショップや上演を行いました。私は、自分がどれほど恵まれている存在なのかを強く実感しました。と同時に、芸術によって彼らを勇気づけることができる立場にもいるんだ、と気づかされたんです。ある日、ひとりの子が私のところに来てこう言いました。「お姉ちゃん、マニラに連れて行って。本当に勉強したいの。あなたのために働くから」と。もちろんPETAの決まりごとがあるので、まずはチームリーダーに相談するように言って、「どうか勉強は続けてね」とだけその子に伝えたんですけど……。今こうして話をしていても涙が出そうです。
あのとき、私は「これが芸術なのだ」と確信しました。この人たちこそが、私たちの観客であり、私たちが向き合う人々なのだと。そして、これを一生続けていきたい、命が尽きるまでこの仕事をしたい、と思ったんです。 
  • PETAが被災地や困難な状況にある地域で行う芸術支援プログラムLingap Sinning

その後、私はアーティスト・ティーチャーとなり、またパフォーマーとしても舞台に立ちました。ミュージカルで歌ったりコメディ作品に出演したりしながら、社会の現状や、地域の物語、そして子どもの権利や人権なども扱ってきました。やがてプロデュースという役割に情熱を見出すようになったんです。人を束ねて何かを一緒に創り上げていくこと自体が芸術表現なのだと悟って。現在PETAではマネージング・プロデューサーという役割を担い、アーティストや制作スタッフがより良い待遇や環境を得るための仕組みづくりに尽力しています。フィリピンにおいて芸術が「持続可能な職業」になることが私の夢です。
 
地域の人々が参加するフェスティバルの開催など、コミュニティ・オーガナイジングもしています。他者と協働することが、語る声を持たない人々の声になるための道だと信じているからです。私にとって舞台芸術とは、単に舞台上での上演だけではありません。それは人々が見られる場所であり、勇気を持てる場所であり、より良い未来を一緒に築いていくための場です。アジアや世界のアートコミュニティと互いにつながり、表現と芸術のムーブメントをつくっていきたいと願っています。
  • PETAのLingap Sinningから発展した発表や上演の場Padayon

フィリピン舞台芸術の歴史とPETAの誕生


フィリピンで舞台芸術が発展してきた歴史について、もちろんアイシーさんの目線で結構ですので教えていただけますか。
他国に侵略される以前は、ババイランと呼ばれるシャーマン的存在が雨乞いをするなど、人々が儀式や詠唱に参加する集まりがあったようです。その後、スペインによる植民地化(16世紀半ば〜1899年)の過程で、演劇の形式が導入されます。ここで初めて「パフォーマー」と「観客」という区別が生まれますが、常にスペイン人が演じる側、フィリピン人は観る側でした。植民地化はキリスト教の普及と結びついていたので、モロモロやシナクロと呼ばれる宗教劇が上演されます。やがて輸入された叙情オペラのzarzuela(サルスエラ)が綴りの異なるsarswelaへと発展していく中で、フィリピンの人々も演じるようになります。おそらくフィリピン人によって作られた最初のサルスエラは1898年の『Walang Sugat』(*1)でしょう。
アメリカ統治下(1901〜42年、1945〜46年)では、英語教育や、歌あり踊りありのヴォードヴィルが導入され、フィリピンでは「ボダビル」と呼ばれて、日本による占領期(1942〜45年)に広く普及しました。というのも日本側はボダビルをエンターテインメントと見なし、深刻な政治的主張があるとは考えなかったんですね。実は人々はその表現に抵抗のメッセージを込めたんです。
戦後、フィリピンは独立し、自分たちのアイデンティティを模索していきます。1966年、マルコス政権下にフィリピン文化センター(CCP)(*2)が設立されます。建物(劇場)という構造ができたことで、それまで各地方で活動していたアーティストたちにひとつの空間に集まるという意識が生まれ、自分たちの劇団を設立しようという刺激にもつながっていったと思います。
ただし、CCPの創設を主導したイメルダ・マルコス(*3)は、芸術に力を入れたものの、それは国際的なアーティストを呼んで上演させるものでした。CCPの建物に行くとわかりますが、民衆のためではなく、エリートが観るための劇場として作られています。お金持ちがガウンを着て観に行くような場所だったんです。
 
一方1967年には、ふたつの劇団が生まれました。ひとつは英語で上演するレパートリー・フィリピンズ Repertory Philippines(*4)。そしてもうひとつの劇団が、私たちPETAでした。PETAはフィリピンの言語で上演し、民衆の物語や、社会的に切実な問題も扱いました。最初は文字どおり、PETAの活動拠点はストリートでした。イントラムロス(*5)にあるラジャ・スライマン劇場、ここはホセ・リサール(*6)が投獄されていた場所ですが、高低差のあるその空間を利用して上演していたんです。もちろん雨が降れば公演は中止ですし、周囲の騒音も受け入れるしかありません。マニラ大聖堂の鐘の音に上演のタイミングを合わせたりもしたそうです。
  • ラジャ・スライマン劇場

まさにサイトスペシフィックですね。そのふたつの劇団が生まれた背景にも、イメルダ・マルコスの影響はあったのでしょうか。
PETAについて言えば、影響がもしもあったとすれば、反対の意味においてですね。PETAはマルコス政権の戒厳令に抵抗して路上でのパフォーマンスを行っていましたから。集会が禁止されていたので、政府軍が来たらいったん散会して、また別の場所で集まる……そういう作戦です。路上のデモに参加して投獄されたメンバーもいます。路上で旗を振りながら踊って、人々の心に火をつけていたんです。「今こそ外に出て立ち上がる時だ!」と。創設者のセシル・グイドテは、反政府人物のブラックリストに載せられて、国外へ逃れざるをえませんでした。本当に厳しい時代だったと思います。表現すること自体が許されていなかった。芸術はエリートのためのものであって、民衆や若者のためのものではないと見なされていた時代です。
  1. 『Walang Sugat』

    劇作家・革命家のセヴェリーノ・レイエスによってタガログ語で書かれたサルスエラで、1898年初演。同時代のスペインからの独立闘争を、引き裂かれた恋人たちの姿を通して描いた。

  2. CCP

    フィリピン文化センター(Cultural Center of the Philippines)。1965年、大統領候補フェルディナンド・マルコスの妻イメルダが、「国立劇場を作りたい」と選挙中に表明。翌年、大統領令によって設立。1969年に劇場が完成した。メインシアター(1821席)、リトルシアター(421席)、バトゥーテ(上限250席)。

  3. イメルダ・マルコス

    1965年の大統領就任から、86年にピープルパワー革命で倒れるまで、独裁政権を保持したフェルディナンド・マルコスの妻であり、2022年から大統領となったボンボン・マルコスの母。芸術高校PHSA(Philippine High School for the Arts)を創設するなど芸術に力を入れた一方、無数の靴をコレクションするなど贅沢な生活でも知られる。

  4. レパートリー・フィリピンズ Repertory Philippines

    1967年創設の劇団。最初の公演はタガログ語で上演したが、当時お金を払って演劇を観る層は欧米の英語劇を好んだため集客に苦労し、英語での上演へと移行したとされる。

  5. イントラムロス

    1606年、スペイン人総督ロペス・デ・レガスピによって建設された城郭都市。マニラの中心部に位置し、第二次世界大戦における日米の激しい戦闘によって廃墟となった。

  6. ホセ・リサール

    フィリピン独立運動の国民的英雄。小説『ノリ・メ・タンヘレ』などの著作で知られる。スペイン官憲に逮捕され、1896年、35歳で処刑される。

影響し合う日比演劇界


PETAは劇団黒テントと親交があったと聞きます。主宰の佐藤信さんが世田谷パブリックシアター(*7)の開設に大きく関わったことで、地域の人たちと共に演劇ワークショップをする流れが日本でも生まれていったと思います。
PETAの前エグゼクティブ・ディレクターであるベン・カバンゴンは、黒テントとの交流を実際に体験した当事者のひとりで、よく話を聞きます。日本とフィリピンの関係において、黒テントは当時、とても重要なカウンターパートだったと思います。技術的な影響も大きくて、例えばPETAの劇場がブラックボックス型なのは、空間を最大限に使う日本の方法に触発されたからです。
 
私たちはもともとリソースが少ないので、交流パートナーから多くを学び、それを最大限に活かしてきました。2025年のYPAM(横浜国際舞台芸術ミーティング)でも多くのことを学びました。例えば日本のパフォーマンスの中には非常にミニマルな要素だけで成り立っているものがあって、「これで演劇が可能なのか!」と驚かされましたね。私たちはいつも助成金のことに頭をとられ、スペクタクルとして大きく見せることを考えがちですが、自前の劇場はあるわけですから、もっとシンプルな実験精神に立ち返ろうと思わされました。
  • PETAと黒テントの共同制作で上演された『ロミオとジュリエット』(1998)


私は、限られたリソースで工夫するフィリピンのアーティストたちに感銘を受けてきました。急な豪雨でパフォーマンスが中断されたりしても、遊び心を持ってその場を楽しむ。そうしたマインドは、やはりPETAが牽引してきたんでしょうか。
よくも悪くも、フィリピンの人々はどんな状況でもあらゆる可能性を見つけ出す、そうしたレジリエンスがあると思うんですよね。いろんな状況に適応や対処をするために、各グループごとに独自の方法やアイデンティティを築いているのだと思います。
PETAのワークショップでは、遊び心を取り入れて、身体を動かして楽しむことをとても大切にしています。また、全員がスキルや才能を持っているはずだという「ゴールドマイン(金脈)理論」を提唱しています。ほかの人と比べる必要はありません。あなたがするどんな動きもクリエイティブなものと呼べるし、それらを組み合わせて互いに補い合っていくことができますから。そして、表現するための安全な場にすること、他者に害を与えないことを心がけています。
NGOコーディリエラ・グリーン・ネットワーク(*8)が山奥のいろんな村を回って演劇ワークショップをしているのに同行したことがあります。フィリピンではNGOがとても重要な社会的役割を果たしていると思いますが、PETAもそういった組織と協働するのでしょうか。
ええ。例えばあるコミュニティで協働プロジェクトを行い、私たちがその後去ったとしますよね。その際に現地のパートナーがいなければ、その取り組みは継続しません。ですからPETAは戦略として、その地域で活動しているNGOとつながることを意識しています。私たちがそこで築いたレガシーを、彼らが受け継いでいけるからです。それに、その地域のことを理解するためにも、そうした地元組織との連携は欠かせません。最初にお話ししたように、私の育った地域では、PETAは教会とつながりを持っていました。プロジェクトが終わった後も、教会はそこに残り続けますから。
上演やワークショップでは、英語ではなくローカルな言語を重視していますか。
フィリピンにはたくさんの言語があります。PETAは「人々のための演劇、人々による演劇」を信じていますから、より共感しやすく、より感情に触れやすく、より自由な表現のできるローカルな言語は大切にしています。
ただ、アメリカに支配された影響ですでに英単語は日常に入り込んでいて、英語、フィリピンの言語、タグリッシュ(タガログ語+英語)が混在しています。トライシクル(フィリピンの三輪タクシー)の運転手でも、流暢でないとしても英語で会話はできる。今はSNSで英語を身につける人もいます。首都のマニラでは、純粋なタガログ語だけで上演されることはまずありません。
いずれにしても、まず最初に確認すべきなのは「誰とコミュニケーションしたいのか」です。自分たちががつくるアートが、自分たちが定めた観客にちゃんと理解されることが大切です。実験的・抽象的な表現を使うこともありますが、それが一方的な自己表現で終わらず双方向になるよう試みることが大切です。
  • 現在のPETA

フィリピン舞台芸術の今


コロナ禍以後、フィリピンの舞台芸術の状況は今、どうなっていますか。
コロナ禍では、舞台芸術は「不要不急」と分類されました。ロックダウンからいろんな制限が徐々に緩和されていく中でも、許可される順番は遅かった。しかし再び人とつながれるようになってから、演劇は活況を呈しています。
インディペンデントの小さな劇団やグループがたくさん生まれましたし、既存の団体も、ミュージカル、古典劇、実験的な作品、ベキモンというゲイ・コミュニティ言語を使う作品まで、さまざまな上演をしています。映画を舞台化する試みも盛んで、まず最初にみんながやったことがそれだったと言っていいくらいです。海外からの招聘作品もあります。
コロナ後のこれらの動きは「リベンジ・シアター」と呼ばれ、「今こそ!」という感じでみんなが演劇をやりたがっているのが今の状況です。それだけ競争も大変ですが、観客側からすると観たい作品の選択肢がものすごく増えて、規模の大小にかかわらず面白い作品が多いのが現状です。
日本の読者が知っておいたほうがいいアーティストやフェスティバルがあれば教えてください。
PETAの元芸術監督で、現在も「ヒットメーカー」と呼ばれる演出家のマリベル・レガルダ。また現在のPETAのプレジデントであるメルヴィン・リーは優れた俳優でもあり、演技指導にも長けています。若い新進気鋭の演出家としてはイアン・セガラ(*9)が注目されています。
  • マリベル・レガルダ

  • メルヴィン・リー

ほかにも、フィリピンの舞台芸術史に足跡を残している人々として、CCPを拠点とするクリス・ミリャド、劇作家マルー・ジェイコブ(1948-)、演劇のナショナル・アーティスト(国家芸術家勲章受章者)であるトニー・マベサ(1935-2019)、有名俳優を演劇の舞台に招くクロスオーバーを先駆けて行った映画監督リノ・ブロッカ(1939-1991)、そして私たちがいつも「母」と呼んできたソクシー・トパシオ(1952-2017)を挙げておきます。

CCPにはフェスティバルの伝統があって、新作を上演する「Virgin Labfest」と、新進グループが15分ほどの短編を上演する「Pasinaya」がありますね。

PETAは毎年7月に「Changing Narratives」というフェスティバルを開催し、周囲にある支配的なナラティブ(語り)を読み替える試みをしています。例えば先ほど名前を挙げたマリベル・レガルダが演出した『Rak of Aegis』は、洪水の被害を受けたコミュニティが舞台ですが、被害者たちをただ哀れみの対象として見るのではなく、何かを生み出す人へとポジティブに読み替えていく。観客に、彼らを「希望のエージェンシー」として見てほしいんです。
PETAは、演劇を「人々のために」行うだけではなく、「人々と一緒に」行うことも大事にしています。このフェスティバルはまだ3年目ですが、これからも続けていきます。日本のみなさんともぜひ協働して、身の回りにあるナラティブを一緒に見つけていけたらと思っています。
  • Changing Narrativesより ⓒ Beatrice José

  • Changing Narrativesより ⓒ Marc Lozano

  • Changing Narrativesより ⓒ Beatrice José

  • Changing Narrativesより ⓒ Beatrice José

フィリピンには、目上の人に愛情や敬意を込めて「アテ(お姉さん)」や「クヤ(お兄さん)」と呼ぶ習慣がありますね。私が出会った若い世代との会話に登場していたPETAは、「アテ/クヤ」にあたる、どっしりと構えた先輩のような存在。しかしアイシーさんのお話からは、PETA自体にも世代交代のサイクルが含まれていることが感じ取れました。確たる思想や歴史を持ちながらも、新しい人たちを育て、地域のコミュニティや国際的なパートナーたちと協働することで、これからも変容し続けていくのだと思います。今日はありがとうございました。
  1. 世田谷パブリックシアター

    1997年開館。演劇ワークショップを重視することになった経緯やPETAとの関係については、中村麻美の以下のレポートを参照。
    https://setagaya-pt.jp/bf2022/lecture/archive/archive_c_2010_03_01.html

  2. コーディリエラ・グリーン・ネットワーク

    反町眞理子が2001年にバギオで創立したNGO。フィリピン北部コーディリエラ地方を拠点に、黒テントの流れを汲む花崎攝らの協力を得た演劇ワークショップなどを通して、環境保全や先住民族の生活向上に取り組んでいる。

  3. イアン・セガラ

    『Walang Sugat』を翻案した『Walang Aray』(2023年初演)は、パンデミック後最初のPETAの劇場作品で、第14回Gawad Buhayで8部門受賞し、イアンは演出賞を獲得した。近年は『Sari-Sali Portal Cafe』など、山口惠子/BRDGとの継続的なコラボレーションも行っている。

  • 左からアリソン・セガラ(国際交流基金マニラ日本文化センター)、アイシー・ポ、藤原ちから