張長城

中国現代舞踊界の台風の目、国際フェスも手がける
北京現代舞団の目指すものとは?

2007.02.16
張長城

張長城Zhang Changcheng

北京現代舞団(Beijing Modern Dance Company)ディレクター
非政府系の芸術団体として、中国で初めて上演権を獲得した北京現代舞団。1995年の設立から10年の時を経て、作品も組織も大きな成長を遂げた。その立役者であり、国際ダンスフェスティバルの企画を手がけているのが、30代半ばのディレクター、張長城(ジャン・チャンチョン)。

70年代生まれのリーダーが、中国舞台芸術界に新たな風を巻き起こす。
(インタビュー・文 菊池領子: R PRODUCTION 代表・文化事業プロデューサー)
最初に北京現代舞団の組織構成を教えてください。
 現在28名が所属しています。そのうちダンサーは18名。残りの10名は制作チームで、技術、衣装デザイナー、国際業務コーディネーター、宣伝、総務などです。
ダンサーはどのような人たちが集まっているのですか。
 年齢は20歳から32歳まで。みな大卒で、芸術系の学士を持っています。お陰さまで、優秀な人材がみな北京現代舞団に行ってしまうと、彼らの出身校である北京舞蹈学院がいうほど、いい人材が集まっています。今年の桃李杯(Taoli Grand prix)の金賞、銀賞受賞者は、いずれも北京現代舞団のダンサーです。こうした専門の教育を受けたダンサーは、基礎がよくできていて、レベルが揃っているのが特徴です。けれども、往々にして視野がまだ狭い。だから私は、できるだけ彼らをフェスティバルに連れて行くようにしています。こういう表現もあるのだなと思えば、自分で取り入れますから。彼らは基礎ができているので、専門的に学んでいないダンサーに比べ、呑み込みは早いです。
ダンサーは、自分で志願してきた者もいれば、こちらから声をかけた者もいます。中国では踊る機会が少なく、ダンサーたちは機会を探しています。といっても、ナイトクラブ等の娯楽のダンスは彼らが望んでいるものではありません。ダンサーにとって最も辛いのは、生活の問題ではなく、踊る仲間や環境がないことです。北京現代舞団にいい環境があれば、当然ここに来たいと思うはずです。
年間、どのくらいの数の公演を行っているのですか。
50から60ステージです。公演数を増やすことは簡単ですが、それよりも創作活動を中心にして、ステージは回数より質の高さを目指しています。
以前は、芸術監督がいましたよね。演出家はいるのですか。
 以前は香港から芸術監督を招いていましたが、今はいません。2005年のある事柄をきっかけに業務を見直したところ、必要ないと思ったからです。今はダンサーが自分たちで考えて作品を作っています。専属の演出家もいません。自分たちで振付けます。こうした名称は人が決めたものに過ぎません。それに、こういう肩書きがつくと、人は往々にして権力を振るってトラブルを起こしがちです。私が「団長」ではなく、「ディレクター」としているのは、組織における自分の専制的立場、絶対的な権限をなくすためです。私が北京現代舞団に来た目的はそもそも権利の独占、専制体制を改めるためでした。北京現代舞団は物事を民主的に決める風通しのよい体制です。
2006年10月に北京で行われた10周年記念公演では「Beijing Vision」と題して、これまでの代表作5作を上演しましたね。いずれも異なる個性の作品で、10年間の軌跡がよくあらわれていました。
 96年の作品、「赤と黒」(Red and Black)は、私が関わる前の作品で、金星(ジン・シン / Jin Xing-中国の現代舞踊の開拓者。現在、金星舞蹈団を率いて上海を拠点に活躍中)が芸術監督を務めていました。彼女が振付けた作品で、赤と黒を基調に、中国文化の特徴を表す扇や太鼓を用いた群舞です。音楽は中国の民族音楽。この作品の公演が北京現代舞団の成立を宣言する公演でした。2004年の「花」(Flower)は中国ロックの始祖として有名な崔健(ツイ・ジェン / Cui Jian )が音楽を担当した作品で、若手男性ダンサーのソロ。高艶津子(ガオ・イエンジンズ / Gao Yanjinzi。現在北京現代舞団の専属アーティスト)が振り付けました。2004年の「覚」(Jue / Aware)はベルリン芸術祭の要請を受け、高艶津子がやはり踊り手である母親と親子で創作した作品です。伝統文化と現代文化の間の継承や発展、相互作用など、複雑な関係を、身体を用いて表現しています。
99年から北京でダンスフェスティバルを主催していますね。現在の北京のフェスティバルの状況はどうですか。
 毎年好評を得て発展したのはいいのですが、規模の拡大と質の向上は相反する関係にあります。表向きは好評でも、内部にはいろいろな問題がありました。2003年のSARSがフェスティバルについて考えるちょうどよい機会をくれました。
第一に、何といってもフェスティバルは費用がかかります。けれど、資金がない。ないのに規模が拡大するわけですから、だんだん質が低下します。第二に、計画性がない。そこへ資金がないときていますから、来るもの拒まずで、何でもかんでも上演していました。そんな状態なので、学術的に何の意味もない単なるイベントでしかありませんでした。第三に、北京現代舞団の発展がフェスティバルの規模の拡大についていけなくなっていました。フェスティバルの管理に手が回らず、人身事故など何か重大な事件が起きてしまったら、目も当てられない状況でした。万一そんなことになったら、フェスティバルを開催しなかった方がマシだったということになってしまいます。
今後は中国におけるフェスティバルのあり方、定義を明確にしようと思います。現在考えているのは、まずフェスティバルにテーマを持たせること。全員でなくとも、フェスティバルを企画、運営する主要メンバーはテーマをしっかり理解していなくてはなりません。次に、プログラム構成。全体の何割を古典名作に当て、フェスティバルの質を保つか。そして、先見性を示す先鋒的な作品をどの程度入れるか。それから、誰も見通しのつかない、いわゆるダークホースにもチャンスを与えなくてはなりません。これはフェスティバルが果たすべき責任です。三つ目に、フェスティバルという資源の循環性の促進。フェスティバルを単なる上演で終えるのでなく、社会的に意義あるものにせねばならないと思っています。例えば、研究者とネットワークを組めば、フェスティバルは具体的な研究材料を彼らに提供する場となります。そして彼らが研究した結果は、フェスティバルの将来を見通す材料になり、互いに役立つ。さらには、彼らの分析は「解説」として、一般の観客が作品を理解する手助けにもなるでしょう。こうして循環型のネットワークを組むことにより、フェスティバル開催費用の圧縮も可能となります。
2006年10月から11月にかけて開催した北京国際ダンスフェスティバルは、中国は北京、上海、広西等から8団体、海外はヨーロッパ各国から約10もの団体が集まりました。会場は劇場、野外を含め5箇所。レクチャーやワークショップも開きました。
今回は試験的な要素を多分に含んだフェスティバルでした。新たなスタイルの作品を取り込んだためです。というのは、招聘の候補作品の多くが新作で、詳細資料がありませんでした。これでは中国政府の許可がとれません。でも私は新しいものが欲しかった。そこで世界的に有名で誰もが認め、かつ実験的要素を多分に含んだダニッシュ・ダンスシアター(デンマーク)の作品を選んだのです。上演後、これは芸術ではないという意見が観客から出ました。もちろんこういう意見が出ることは予測済みです。これぞ研究対象にするべき作品なのです。こういう投げ掛けをするのもフェスティバルの役割だと思っています。
このような作品は単独で招聘するよりフェスティバルに入れる方が、ことが運びやすくなります。つまり、単独だとかなり詳細な資料を求められますが、フェスティバルなら、全体の企画の中のひとつに過ぎなくなるからです。今回のフェスティバルの評価は上々で、2007年は政府が予算をつけてくれることになりました。来年は本腰を入れてフェスティバルの企画、運営に取り組みたいと思っています。
海外からの参加作品はどのようにして決めているのですか。
 相手から連絡がある場合とこちらから声をかける場合と両方あります。これまで1500ステージ以上観ていますが、中には忘れられない素晴らしい作品があります。そういう作品に出会った時は、何とか中国に招聘したいと思い、その国の大使館へ連絡をとります。大使館は文化を輸出する役割を担っていますから、そのための資金をつけてくれるはずです。国によって事情は異なると思いますが、これまで私が会った大使館の職員は皆そうでした。そこで私は彼らにこう言うのです。あなた方の文化輸出を手伝いましょう。私にお金を払う必要はありません。あなた方の芸術団体に払ってあげてくださいとね。
今では大使館の人たちとはいい友達です。おかげで多くの大使館は年間予算を自ら私に教えてくれます。例えば、来年は予算が少ないけれど、4団体分はある、どの芸術団体に関心がありますかと聞いてくるのです。だんだんやりやすくなっていますよ。
海外との交流で特に注意している点は?
信用です。中国のイメージを誤って捉えられたくないですから。だから、すべての事柄を現行の中国の法律に則って合法的に進めています。政府の許可が取れてなかったために直前にキャンセルになるようなことがあっては、参加者に迷惑をかけ、信用を失いかねません。
北京現代舞団が非政府系芸術団体として独立するまでの経緯についてお伺いします。政府の芸術団体しかなかった中国で、北京現代舞団はどのように成立したのですか。
 最初は法律上での成立で、実際はただ8名のダンサーがいるだけでした。当時、北京市文化局の局長がなかなか先鋒的な考えをもった人で、北京にも現代舞踊団があるべきだと考えたのです。そして、北京舞蹈学院の現代舞踊科、第一期卒業生8名に北京戸籍を与え北京に留まらせたのが、北京現代舞団の始まりです。対外的に彼らを北京現代舞団と呼びましたが、実際は独立した芸術団体ではありませんでした。北京歌舞団の管理下にあり、上演許可証も北京歌舞団のものを使っていましたし、政府が多少の資金を用意しましたが、それも北京歌舞団に渡されました。つまり北京歌舞団が北京市文化局に代わって北京現代舞団を管理していたわけです。ですから、成立は95年ですが、この時はまだ政府系の芸術団体です。私もまだ関わっていません。
北京現代舞団に関わるようになったのはいつからですか。
 98年です。当時、北京現代舞団は存続が危ぶまれていました。政府は我関さずの態度で、自然消滅もやむなしとしていました。必要だといいながら、面倒なことが起こると関与したがらない。財務など様々な問題が起きていたのです。私はもともとダンサーたちをよく知っていたので、彼らにしばらく様子を見るべきだと言いました。すると、3カ月後にはダンサー全員が北京現代舞団を離れ、生活費を稼ぐためにナイトクラブで踊るようになってしまいました。ダンサーにとっては辛いことです。そこで、北京市に話に行くと、君が自分で管理しろと言うのです。手伝いたいのはやまやまでしたが、当時私は複数の会社を持っていて、時間を割ける状況ではありませんでした。そこで考えた結果、ダンサーたちの生活を保障するだけの給料を負担しようと、友人と一緒に数万元(数十万円から百万円単位。約15円/1円)もの資金を提供することにしたのです。幸い資金はありましたから。でも、これは問題の根本的な解決にはなりませんでした。問題は管理と計画がなっていないことで、金銭の問題ではなかったのです。自分にできることは何だろうと考えた結果、北京現代舞団に関わることになりました。それから約8年。こんなに長く関わるなんて思いもしませんでしたよ。ダンサーたちはひとりを除いて皆入れ替わりました。残ったひとりとは、ご存知の通り、私の妻となった高艶津子です。私は今では北京現代舞団の仕事に専念しています。他の仕事はすべてやめました。仕事とは自分で選ぶものではないのですね。仕事に選ばれるものなのだとつくづく感じています。
その後、どのようにして北京現代舞団を独立した民間団体まで発展させたのですか。
 まず初めに、北京現代舞団に所属するための「北京戸籍所有」という条件を廃止しました。そして、中国特有の人間関係に頼る方式を改め、契約制を敷いたのです。それから、政府の資金を得ることをやめました。稽古場の使用にさえ、使用料を払うように改めたのです。当初は、以前北京現代舞団を管理していた北京歌舞団の稽古場を借りましたが、もちろん使用料を支払いました。なぜそうするかというと、政府の管理下から外れ、独立した芸術団体となるからには、すべての事柄に対する決定権を持ちたかったからです。中国では政府の関係のイベントがあると、こちらの大事な計画があるのにもかかわらず、政府の方を優先せねばならないことがあるのをご存知でしょう? でも、絶対的な決定権があれば、それを断ることができるわけです。また、政府高官と共に海外に赴き、公演を行う際には、政府からギャラを得ることもできます。政府の資金で食べているのではないわけですから、もしギャラがなかったら、どうして生きていけるでしょう。もちろん直接そうは言いませんが、そういうルールに則って事を進めるのです。光栄なことに、胡錦涛(Hu Jintao)総書記に伴って海外で公演を行った時も、上演料として相当の金額の小切手を頂きました。
これで、独立した民間の芸術団体といえるようにはなりましたが、まだ完全に独立した状態ではありません。というのは、中国には上演に関する許可証があるのをご存知ですね。北京現代舞団は、この時まだそれを持っていなかったのです。公演を行うには、どこかの上演権を使わせてもらわなくてはなりません。自分たちの名義では公演が打てなかったのです。この権利を得るために、私は3年もの時間を費やしました。そして2004年6月27日、遂に自分たちの上演許可証を手に入れたのです。だから2004年の夏に東京芸術見本市に招かれた時、「北京現代舞団は完全に民営化をした」と言ったのです。しかも商業公演上演許可証ですよ。現代舞踊ではあり得ないことです。北京現代舞団より先に設立された広州現代舞団ですら、いまだに政府の資金を得ています。中国全土で北京現代舞団だけがこの許可証を持った、つまり唯一の完全に独立した民間の芸術団体なのです。
28名もの団員を抱えて、政府の資金を得ずにどのように運営をしているのですか。
 海外のフェスティバルに積極的に参加し、作品のPRの場としています。この作品をプロモーターが気に入って巡演することになれば、相当なギャランティが入ります。30ステージもこなすと、50万米ドル(約5800万円。116円 / 1ドル)程度の収入になりますから、ここから様々な費用を引いても、まだそれなりの金額が手元に残ります。その上、我々の生活はシンプルですからね、さほどお金はかかりません。基本的な生活は維持できます。
ダンサーとは最短で1年の契約を交わし、毎月約4000元(北京の大卒入社のホワイトカラーの月給に相当。約6万円)の固定給を与えています。その他、毎月500元(7500円)の住宅手当に傷害保険。さらに、公演ごとに最低200元(3000円)のギャランティを別途支払います。
安定しているように見えるかもしれませんが、私としてはまだまだ安心できません。これから北京現代舞団の固定スポンサーを探すつもりです。公演は繁忙期と閑散期がありますから、経済不安に陥りやすい。固定的なスポンサーがあれば安定します。それには、1箇所ではなく、少なくとも10箇所からは欲しいところです。それぞれ10万元(150万円)出してくれれば十分です。 
最後にフェスティバルに日本のダンサーを招聘する可能性についてお聞かせ下さい。
 このところ日中間は政治上の問題がありましたが、芸術とは関係ありません。機会があればフェスティバルにもぜひ参加して欲しいと思っています。個人的には大野一雄や山海塾などの表現が好きです。

『赤と黒』(Red and Black)
1996年
© Zhang Heping

『花』(Flower)
2004年
© Zhang Changcheng

『喜怒哀楽』(Four Happiness)
1996年
© Beijing Modern Dance Company

『島』(Quietude)
2003年
© R PRODUCTION

『覚』(Jue・Aware)
2004年
© R PRODUCTION

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