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An Overview 解説

2005.10.22

Kabuki's New Wave 歌舞伎の新潮流 長谷部 浩(演劇評論家)

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 2005年は、歌舞伎にとって大きな変革の年だったと、後世の人々は振り返るかもしれない。

 3月から5月にかけて、東京・歌舞伎座で行われた十八代目中村勘三郎襲名披露は、5月夜の部、その最後の演目に、2001年に初演された野田秀樹脚色・演出の『野田版 研辰の討たれ』を据えた。家の芸の継承を基本とする襲名披露で、4年前に初演されたばかりの新作を上演するのは、きわめて例外に属する。いうまでもなく野田秀樹は、1980年代以降、日本の現代演劇を牽引してきた代表的な劇作家・演出家・俳優である。この襲名披露に『野田版 研辰の討たれ』が選ばれたのには、中村勘三郎の強い意志が働いたと聞く。彼は現代演劇の代表選手と手を組むことによって、歌舞伎の再生に向かって、大きな一歩を踏み出したのである。

 続く6月には、英国をはじめとする欧州で、シェイクスピアのローカライズ・再解釈を行い、高い評価を得てきた演出家 蜷川幸雄 が、歌舞伎座で『NINAGAWA 十二夜』を演出した。エリザベス朝演劇の時代には、女性の役は、少年俳優によって演じられた。今回の『NINAGAWA 十二夜』を演じたのは、すべて男性によって構成される歌舞伎俳優である。主役のシザーリオ実はヴァイオラと、双子の兄セバスチャンの男、女、および男装した女性の三役を、美しさが匂い立つ27歳の若手俳優、五代目尾上菊之助が務めた。このような上演形態を通して、歌舞伎とシェイクスピアの間に、確かな通路が開いた。また、『十二夜』の中心となる役柄、道化フェステと執事のマルヴォーリオの二役を、人間国宝の七代目尾上菊五郎が務めたのも話題を呼んだ。役を兼ね、早変わりによって演じ分ける演出手法は、歌舞伎が得意とするものであった。さらに、舞台奥全面には、鏡を張りめぐらし、登場する人物たちを万華鏡のように映し出した。大胆なスペクタクルの使い手として知られる蜷川幸雄の特色を、遺憾なく発揮させる作品となった。

 そして7月には、中村勘三郎が、やはり現代演劇の演出家、串田和美と組んで、歌舞伎の伝統的な演目『法界坊(ほうかいぼう)』に大胆な再解釈をほどこして上演した。串田は、長野県松本市にある「まつもと市民芸術館」の館長兼芸術監督を務める現代演劇の代表的な演出家・俳優である。『法界坊』は、奈河七五三助(ながわしめすけ)によって書かれ、1784年に初演された演目であり、古典として、衣装・美術はもとより、それぞれの役によって演じ方の定型がある程度定まっている演目である。串田は、歌舞伎俳優にとっては、常識となっている個々の所作、演じ方をひとつひとつ洗い直し、寺に鐘を寄進するとの名目で喜捨を募って歩く破戒坊主の法界坊を、現代にも通じるアウトローとして描き出そうとした。

 海外の読者には、きわめて奇妙に映るかも知れないが、日本においてはこれまで現代演劇と伝統演劇の間に決定的な隔たりがあった。俳優、スタッフ、批評家は、それぞれのジャンルに属しており、お互いの領域を行き来しないのが通例であった。5月の野田、6月の蜷川、7月の串田と、方向性はそれぞれ異なるものの、旧態依然としてきた歌舞伎が、そのもっとも権威のある劇場とされる歌舞伎座で、大きく改革へと踏み出したことがわかる。観客席には、初めて歌舞伎を見る若い世代も数多く見られ、教養や社交ではなく、純然たる演劇に対する興味でチケットを求める個人客を集めていた。古典の継承の名のもとに、活力を失いかけていた歌舞伎が、再生に向かって大きく動き始めたのである。
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 こうした歌舞伎の新しい動きの中心にいるキーパーソンは、中村勘三郎である。勘三郎は、1955年生まれ。父方の叔父に初代中村吉右衛門、母方の祖父に六代目尾上菊五郎という明治から昭和前期を代表する二大名優の血筋を引く。子役時代から頭角を現し、立役、女方両方を手がけ、幅広い役柄をこなし、舞踊においても地力を備え、加えて、観客を引きつける愛嬌を持つ。人気実力ともに現代を代表する歌舞伎俳優である。

 古典の重要性を認識しつつも、それにあきたらないだけの覇気を彼は備えている。今回の大きな新しい波が起きたのは、偶然ではない。1994年、勘三郎(当時・勘九郎)の強力なリーダーシップによって、渋谷のデパートに併設された現代劇場「Bunkamuraシアターコクーン」で始めた「コクーン歌舞伎」は、歌舞伎が歌舞伎座や国立劇場のような歌舞伎専門劇場によって上演されるというイメージを一新した。歌舞伎劇場には、舞台の下手から客席を貫くように「花道」という通路が延びている。また、道具の転換には、本舞台にしつらえられた「盆」という回り舞台が大きな役割を果たしている。花道も盆も常設されていない客席700余りの中劇場でどのような歌舞伎が上演されるのか注目を集めた。

 現代演劇の上演を前提とした劇場での歌舞伎上演に前例がないわけではない。

 例えば、1927年に開設された三越劇場は、1946年から50年にかけて、六代目中村歌右衛門、十七代目中村勘三郎、初代松本白鸚らが、30本の歌舞伎を上演し「三越歌舞伎」の名称を生んだ。また、近年では、パルコ劇場で1988年に、市川猿之助門下の若手俳優たちが「21世紀歌舞伎組」を結成し、「息吹山のヤマトタケル」をはじめ古典を上演した例がある。しかし、こうした上演は、当時の若手の勉強会の色彩が強い。

 「コクーン歌舞伎」を始めるにあたって、勘三郎がパートナーに選んだのは、当時、シアターコクーンの芸術監督であった演出家串田和美である。串田は、1825年に初演された四世鶴屋南北の戯曲『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』を徹底して検討し、現代の観客にも了解可能な、欲望と因果がからみあう物語としてテキストレジを行った。

 「コクーン歌舞伎」のもうひとつの狙いは、江戸の歌舞伎小屋の再現であった。歌舞伎座の間口は18間(32,73m)あり、異様なほど幅広い舞台面となっている。シアターコクーンは、むしろ江戸時代の芝居小屋が保存されている四国・香川県にある金丸座(1836年開場)のようなコンパクトな空間で、歌舞伎を上演したときに、いかなる効果が生まれるかという実験でもあった。また、シアターコクーンの現代的なロビーには、物売りの屋台を並べ、すでに鬘や衣裳をつけ、江戸時代の人物に扮した出演者たちが、開演前から観客に混じってロビーを歩き回った。演劇鑑賞ではなく、芝居見物の名前にふさわしい祝祭感を、歌舞伎に取り戻そうとしたのである。ちなみに、現在まで「コクーン歌舞伎」で上演された演目は、『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』『盟三五大切(かみかけてさんごのたいせつ)』『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつかい)『桜姫(さくらひめ)』である。

 この江戸の歌舞伎小屋の再現をさらに推し進めたのが、2002年に始まった仮設の歌舞伎小屋「平成中村座」の試みである。勘三郎は、江戸時代に幕府公認の芝居小屋「中村座」のあった東京・浅草(江戸猿若町)にほど近い隅田川河畔に仮設劇場を建設し、そこで「コクーン歌舞伎」でつちかった古典に再解釈をほどこした作品を上演しようとした。

 その初めての作品に選ばれたのは、今年8月、歌舞伎座で再演された『法界坊』である。正式の狂言名は、上演場所である隅田川の名前の付いた『隅田川續俤(すみだがわごにちのおもかげ)』であり、新しい劇場とその場のトポスを重く見る勘三郎=串田の意図がよくあらわれている。仮設ではあるけれどもコンパクトな平成中村座は、プロセニアムアーチによって区切られた現代劇場とは異なり、舞台と客席の一体感がある。観客が靴を脱いで、劇場空間に参入する形式も、桟敷席が中心にあった江戸の劇場に対する郷愁を呼び覚ました。
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 平成中村座の公演の中でも画期的だったのが、2004年7月、ニューヨーク・リンカーンセンターのフェスティバルに参加した『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』だろう。メトロポリタンオペラハウスの正面に向かって左手の小さな公園に、この仮設劇場が忽然と姿を現した。メトロポリタンオペラハウスは、亡父十七代目勘三郎が記念すべき戦後初の歌舞伎公演を行った劇場である。勘三郎は、ニューヨーク公演を行うにあたって、オペラハウスの権威ではなく、仮設劇場の野性を選んだ。幕切れ、仮設劇場奥が外部に向かって開かれる。義父をやむなく殺してしまった團七(勘九郎、現・勘三郎)が追っ手を逃れて走り去る。さらにそれを追って、ニューヨーク市警が劇場に乱入して、ホールドアップを命ずる。江戸のフィクションが、現代ニューヨークの現実と一気に接続されたのである。

 それは歌舞伎を、芸術的に洗練されてはいるけれども、東アジアの一伝統芸能として、ニューヨークの観客に観られることへの拒絶であった。フェスティバル参加作品にとどまることなく、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで上演されている舞台と同等に、現代演劇のひとつとして、歌舞伎を評価してもらいたいと彼は望んだのではなかったか。

 こうした勘三郎の願いに応えるように、7月20日付のニューヨークタイムズに、罪や魂の怖れに言及し、ドストエフスキーの小説を参照したベン・ブラントレーの劇評が掲載された。歌舞伎の常識にこだわることなく、ドラマの実質をとらえたこの批評は、演技評に偏り、旧来の演出との比較に終始しがちな日本の歌舞伎批評に対するアンチテーゼとしても読むことができる。殺人と暴力が人間の人生を狂わせていく現実は、江戸と現代、日本とアメリカといった時空を超えている。古典を再解釈することによって、歌舞伎独自の演出、様式とリアルを往復する歌舞伎俳優の演技術が、西欧演劇にインパクトを与える可能性を示唆していたのである。
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 こうした歌舞伎の新しい波を総合すると、演出権の確立が焦点にあることがわかる。本来、歌舞伎には演出家という職責はない。座頭(ざがしら)と呼ばれる主演俳優が、それぞれの演目にあるいくつかの演出例「型」を選択し、他の俳優、スタッフに全体の方向性を指示してきたのである。しかし、これは西欧演劇においても、演出家の職掌が徐々に確立してきたのは、19世紀終わりから20世紀にかけてであり、近代劇以前には主演俳優(アクター・マネジャー)による指示によって舞台が作られてきたことを考えると、とりわけ奇異なことではない。現行の歌舞伎が、ほぼその体裁をととのえたのは、江戸時代の元禄年間(17世紀末から18世紀初頭)であり、こうした成立の時期を考え合わせると、演出権を曖昧にした舞台作りを、一方的に責めることはできないだろう。

 振り返ると、明治以降、新作が続々と登場したのは、これが初めてのことではない。例えば、歌舞伎俳優として初めてヨーロッパを旅行し、西欧近代劇の影響を受けた二代目市川左團次がいる。彼は当時の知識人小山内薫とともに自由劇場を立ち上げ、1909年、ヘンリック・イプセン作『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演し、歌舞伎劇に慣れた当時の観客を驚かせた。彼の業績はそれにとどまらず、劇作家、岡本綺堂、真山青果らと「新歌舞伎」といわれる新作の上演を精力的に行った。『鳥辺山心中』(綺堂)『元禄忠臣蔵』(青果)は、その代表的な作品である。

 新作を生み出す力を失った芸術ジャンルは、古典の継承、伝統の保存の名の下に、衰弱をたどる運命を持つ。戦中から戦後にかけて活躍した宇野信夫、三島由紀夫ら少数の例外を除けば、歌舞伎が何度も繰り返し上演される新作を生み出したのは、綺堂、青果の時代が最後であると考えられてきた。

 もっとも、第二次大戦後においても、こうした衰弱にあらがう動きがなかったわけではない。歌舞伎界の外側から、演出の概念を強く持ち込んだ人物が武智鐵二である。1949年から52年にかけて歌舞伎の再検討を行う「武智歌舞伎」を六代目坂東簑助(のちの八代目三津五郎)を重要な共同演出家として実践した。現在、歌舞伎界の長老格にいる五代目中村富十郎、三代目中村鴈治郎は、武智歌舞伎に学んだ俳優である。

 さらに、1966年に東京三宅坂に開場した国立劇場の果たした役割も忘れてはいけない。発足するにあたり、「国立劇場における歌舞伎公演はどんな方針で行われるか」と題して、第1回公演パンフレットのなかで理念が示された。そのなかで、「原典の尊重」「通し狂言での上演」「復活狂言の上演」などをあげているが、「俳優の仕勝手を排し、演出の統一を図りたい」と明言している部分は注目に値する。しかし、演出家と座頭の職分の区分けには問題が多く、歌舞伎研究家の服部幸雄の指摘によれば、1971年頃から、国立劇場は「演出」を明示することをほぼあきらめたかに思える。

 近年、もっとも歌舞伎界の革新に力を尽くしたのは、三代目市川猿之助である。これまで異端とされていた宙乗り、早変わりなどのケレンを押しだした。補綴や演出を受け持つ奈河彰輔との共同作業によって、埋もれていた狂言を復活し、哲学者梅原猛に新作を依頼し、『ヤマトタケル』(1988年)など古代を舞台にした新作を次々と生んだ。中国との京劇との交流にも積極的な姿勢を示し、また、1984年には、パリ、シャトレ劇場の依頼によって、リムスキー=コルサコフ作曲のオペラ『コックドール』の演出を担当している。ただし、猿之助においては、外部の演出家の尊重というよりは、従来の座頭俳優による演出の色彩が強い。

 今回の新しい波は、歌舞伎が再び新作を作りだし、また、古典の再解釈を積極的に行い、こういう言い方が許されれば、現代演劇の中心に、歌舞伎が復活するかを賭けた戦いであると捉え直すこともできる。

 しかし、現代演劇においてすぐれた作品を生み出してきた蜷川幸雄、串田和美、野田秀樹においても、座頭役者勘三郎の協力なしに、歌舞伎が蓄積してきた演出技法や俳優の身体性を引き出すのは困難だっただろう。2005年5月から8月に起こった今回の新しい波が注目に値するのは、継続的にこの革新を担ってきた中村勘三郎ばかりではなく、歌舞伎の本流を歩んできた尾上菊五郎を中心とする菊五郎劇団が、その流れに参加したところにある。次代の歌舞伎を担う菊五郎の長子菊之助の意見を入れ、「歌舞伎の演出はやらない」とかねてから公言してきた現代演劇の巨匠蜷川幸雄を歌舞伎座に登場させたのは、こと歌舞伎界にとどまらず、シェイクスピア上演史にとっても重要な事件となった。今回の歌舞伎の新しい波は、単なる歌舞伎界の世代交代によるものではない。歌舞伎界の現状に対する危機感を持ち外部の演出家を招いてともに革新に取り組む俳優と、古典の規矩にとどまり続ける俳優を、二分させる結果となったのである。

 また、世界演劇のなかの歌舞伎という視点から見れば、逼塞状況にある西欧演劇のなかで、アジアの思想、技法が大きな刺激を与える機会が、今まさに訪れたと考えることもできる。古くはアルトナン・アルトー、現代ではアリアーヌ・ムニューシュキンはじめ、西欧外部に属する演劇のイディオムを積極的に取り入れようとした演出家は少なくない。ならば、西欧的な演劇教育を受けた日本の演出家が、現代的な解釈を歌舞伎に古典にほどこし、あるいは新作を創造し、独自の身体性を持つ歌舞伎俳優によって演じられる作品を持って、世界の演劇市場に乗り出す日は遠くない。2001年『野田版 研辰の討たれ』の初演、2004年『夏祭浪花鑑』のニューヨーク公演、2005年『NINAGAWA 十二夜』初演は、その先駆的な試みとして私たちの記憶に刻まれるだろう。